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セレニアの物語  作者: さなか
第1章 アルソリオのトゥヴァリ

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7 悪夢のはじまり

 十ばかりの少女だった。

 あどけない顔つき、長い睫毛、高めの鼻。肌は差し込む外光に白く輝き、歩くたびに黒髪が揺れた。


 ぺたり、ぺたり。足裏が大理石の床に音を残しながら、宮殿を進んでいく。


「おはよう、セレニア」


 上から子どもの声がした。

 子どもは絵を描く作業を中断して、梯子を下りてきた。


「ここは……?」


 セレニアは辺りを見回し、尋ねた。


「宮殿だよ。さあ、君は玉座の間に行く時間だ」


「玉座の間……」


「そうさ。君は、大精霊、精霊王セレニアなんだよ」


 子どもはそう言って、セレニアを白い扉の前に連れていく。取っ手には狼の飾りが付いている。その形相は恐ろしく、中に入りたくないと思った。

 しかし、入らなければならない。この時間、この部屋に、彼女は存在していなければならなかった。抗えず、セレニアは取っ手を掴んで扉を引いた。


 段の上に男がいた。体は大きく少し太っている。くたびれた服に無精髭。乱れた髪の奥の目が、自分を射抜くように感じられた。

 腐った果実の匂いが鼻を突き、息を吸うたびに胸が締め付けられる。


「何だ? その態度は」


 この人間は賢人ナリファネル。この人間の命令に従わなければならない。


「また忘れたのか? この犬の脳みその寄生虫め。俺に会ったら謝罪しろ。頭を床にこすりつけてな」


 セレニアの膝が床につく。頭が床にこすりつけられる。

 ナリファネルは立ち上がり、近付いて、セレニアの顔を思い切り蹴飛ばした。セレニアは床に転がった。唇と頬から血が滲んだ。


「ご、ごめんなさい……!」


 セレニアは訳の分からぬまま謝った。


「ぐ……ぅっ……!」


 踏みつける足が、内臓を押し潰す。


「お前に俺を恐れる資格などないぞ。罪があるのはお前らだ。地獄の底から湧いた羽虫……忘れることなど許されない。多くの人間を死に至らしめ、俺の兄を殺した! それでいて人の王になろうとは、傲慢が過ぎる!」


「ご……めんなさ……」


 痛みと血に溺れ、声が出なかった。

 

「謝れ! 本当に謝る気持ちがあるのなら、罰を受けることを厭わないはずだ。俺に何をされても文句を言えないはずだ。それが贖いだ!」


 ナリファネルは何度も足で踏みつけた。セレニアの体が軋む。悲鳴も出なくなっていき、床には血だまりができていた。ナリファネルは顔をしかめ、吐き捨てた。


「さっさと治せ」


 すると、セレニアの指先がぴくりと動いた。痛みも血も跡形もなく消え去り、何事もなかったかのように体が元に戻った。


「記憶を失う前、お前が何をしたのか知りたいのだろう。俺に感謝して過ごせ。忘れぐせのあるお前のために、明日も教えてやる。何度でもな。さあ、繰り返せ。俺に謝罪し贖罪を受けると。お前が、精霊王セレニアが、俺の望みをすべて叶えると」


「……」


「本当に悪いと思っていれば言葉を迷うことなどないはずだ!」


 ナリファネルは再び、激高した。



 何度目かの再生のあと、白く華奢な体を折り曲げ、膝と頭と両手の先を冷たい床にしっかりとつけて、小さく震える声で言った。


「私は謝罪します。人々を傷つけ、尊い命を奪いました。

 私は贖罪します。過ちを繰り返さぬよう、貴方の手を借りて罰を受けます。

 私は精霊王セレニアです。貴方の願いをすべて叶えます」


 返事はない。

 ナリファネルは酒に酔い、玉座に体を投げ出し、高いびきをかいていた。床には割れたガラス瓶。甘酸っぱい匂いが部屋を満たしている。


 セレニアは恐る恐る立ち上がり、音を立てぬように扉へ向かう。慎重に閉じたはずなのに、やけに大きく音が響く。

 扉にもたれかかると、中にいる男のいびきが止まった。

 セレニアは逃げ出した。細い腕と足がばらばらに動いて、転びそうになる。惨めに床に手をつきながら、冷たい石の廊下を進んでいく。


「やあ、おつかれさま」


 目の前に人が現れ、セレニアは咄嗟に身をすくめた。立っているのが女性と子どもだと気づき、張り詰めていた気が抜ける。


「お願い……助けて!」


 涙を滲ませて叫びながら、セレニアは分かっていた。助かる方法などない。助かる理由がない。


「まだちょっと時間がかかりそうだね」


 子どもは笑った。

 女性は腕組みをしたまま、目をそらした。


「私がこうなる前の、忘れてしまった私のことを、知ってる?」


「……知ってるわ。人殺し」


 女性は背を向け、早足でその場を去った。高い天井に響くハイヒールの音が、溢れ出した嗚咽を攪(か)き消した。

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