終章 赤い潮溜まり
「可哀想に、彼が君に敵うわけないのに」
グィオは、大げさにため息をついて、首を振る。
「王族が国民を殺すなんて、オルミスはなんて罪深いんだ。自由の国ではなかったんだな」
アキリは、グィオに向かって行った。砂浜でも素早く、ナイフがグィオの目、首、心臓を次々と狙う。しかしグィオはそれを避けた。手首を掴み肘をねじ折り、腹を蹴り飛ばす。
「君は強いが、俺より弱いカフェトーよりも弱い。残念ながらね」
グィオはアキリが落としたナイフを拾い、アキリの足に突き刺した。
アキリが苦悶の表情で、呻き声を上げる。
「やれやれ、カラットは無駄死にだ。君が、“狼王の剣”の場所を喋らないように彼を殺してしまったりするから。もう、意味はなかったのに」
ナイフの柄に、片足を乗せ。
「ドラギエル! 加勢してくれ!」
と、グィオが大声で叫んだ。
アキリが汗を浮かべた顔を向けると、銀色の大きな箱を手にした大男が、呆然と森の前に立っていた。
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ドラギエルの手は、わなわなと震えた。
ついに、それを地面に落とす。砂浜に、銀の箱が重たい音を立ててめり込む。
肘が折れ足にナイフが刺さったアキリ。
押さえつけているグィオ。
倒れているエッカーナ。
その側にいるナバル。
そして血溜まりの中で動かない、ヘイスとカラット――。
「二人を犠牲にしてすまない! だがおかげで、ようやく取り押さえられた! ロープを持ってきてくれ」
「嘘だ! 敵は甲板長だ! ドラギエル!」
ナバルが、泣き声混じりに叫んだ。
「脅されていたんだ、アキリに。信じてくれるよな?」
ドラギエルは、答えなかった。立ち尽くし、涙を流していた。
グィオを信じていたかった。
本当は誰よりも前に、気付いていた。自分が尊敬する人に、騙されたのだと。また裏切られたのだと。それを知ってしまうのが嫌で、目を背けていた。
そのせいで、カラットとヘイスが殺された――。
いまさらグィオがどんな嘘を並べても、意味はなかった。ドラギエルは隠れたまま、一部始終を見ていた。
力が無くて、知恵も無くて、グィオが恐ろしい敵だと認めたところで、何も出来はしなかった。しかし、むしろグィオが敵だと知っていたからこそ。ヘイスにグィオが殺されないように――願ってしまった。
心臓が、冷たく音をひそめていく。
頭の中は自分を責める言葉が、泡のように浮かんでは消えた。
「君も、だめか。誰も、俺の味方をしてはくれないようだね」
グィオはアキリの足からナイフを抜いて、何箇所かを次々と刺した後、首を捻った。呻き声が途切れ――ねじれたまま、頭が砂浜に落ちた。
「ドラギエル……俺が前に話したことを、覚えているか?」
グィオは、幼子をあやすような優しい声で、ドラギエルに言った。
「俺はその剣を使って新しい国を作る。みんなが平等に生きていける……君たちのように、辛い思いをする若者がいない国を」
ドラギエルは、うつむいたままだった。
「君は、俺を信じている。そうだろう? 一緒に北へ行かないか。そして、俺を手伝ってくれないか? 俺は、君を気に入っているんだ」
大きな、兄たちに似た屈強な手が、差し出される。
ドラギエルは、呟いた。
「……グィオ甲板長の国は……こんなに人が、死ぬんですか……」
冷たい悲しみの中、静かに沸々と怒りが湧き上がる。
「こんなひどい死に方で! こんなのが、作りたい国なんですか!」
「おいおい……。そこは、はい! 甲板長! だろ?」
おどけた調子で、グィオは言った。
「こんな物を……」
銀色の箱に、ドラギエルの手が触れた。
「こんな物を奪い合って……っ!」
壊れてしまえばいいと思った。
ドラギエルは箱を持ち上げ、砂浜に叩きつけた。頑丈な箱は、当然へこみもしなかった。しかし、中でがたがたと、何かが動いた音がした。
ドラギエルは驚いて、箱の蓋を開けようとした。カラットと二人がかりでも、びくともしなかった箱の蓋は、その重みさえ忘れてしまったかのように、あまりにも簡単に、開いた。
箱の内側は、黒かった。吸い込まれそうな、奥行きのある闇に、星のように金色の粒が煌めいている。そして、剣と呼ぶには程遠い、人の腕位の長さの骨のような物が入っていた。
「ああ、ドラギエル。なんてこった」
グィオは笑いながら、ドラギエルに言った。
「それを開けるなんて! ……期待以上だ。本当に君は使える人間だ。さあ、それをこっちへ寄越せ」
グィオの言葉は、外で鳴っている鐘の音のように遠くに聞こえた。
それよりも、唸り声が、頭の中でドラギエルを呼んでいる。
箱の中に、手を伸ばす。それに手が触れた時、鋭い痛みを感じ、ドラギエルは手を引っ込めた。
「っ……!?」
一瞬、掴んだだけの手のひらが、火傷をしたように痛い。見ると、裂傷ができていた。
ドラギエルは、痛みに震える自分の手を見つめた。
「どうしたドラギエル。大丈夫か? その傷は?」
ゆっくりと近づいてきたグィオが、ドラギエルを覗きこむ。
グィオが隣にいることに全身の毛が逆立つような嫌悪感を覚え、体を引いた。
「これが、“狼王の剣”と呼ばれる物か……。触れたものが傷を負う。なるほど、だから封印されていたわけだな」
グィオは、それに手を伸ばそうとはしなかった。
「さて、これを小舟に積み込もう。あの女二人を連れて、エッカーナ号に戻る。君の仕事はたくさんあるぞ。……ドラギエル?」
ドラギエルは手の痛みを我慢して、銀の箱を持ち上げた。
頭上高く掲げた重たい箱を、グィオが顔を引きつらせる前に、投げ落とす。ごつん、と鈍い音がしてグィオの体勢が崩れた。
何度も、何度も、重たい箱を振り上げる。
頭を庇おうと、腕を上げるグィオの、指先の一本も動かなくなるまで。
「ドラギエル!」
ナバルがドラギエルの腕にしがみつく。
「もういい、ドラギエル! もう、……!」
泣き叫ぶ声に、ようやくドラギエルは手を止めた。
「はっ……はぁ……はぁ……」
グィオの後頭部は原形を留めていなかった
ナバルは目を背けずに、グィオの死体に唾を吐き捨てた。
「……よくやった、ドラギエル。これでみんな、助かる。助かるんだ!」
泣きながらドラギエルの腕を引いて、エッカーナの方へ連れていく。倒れている三人に呼びかける。
「アキリ! カラット! 終わったよ……起きろよ……起きろ! 芋剥きの、時間だぞ……」
ナバルの声が消え入っていく。
一つだけ、微かな呻き声が聞こえた。ナバルが駆け寄る。
「こいつは生きてる! まだ生きてる……! 向こうに運ぶぞ、エッカーナ様も!」
呆然としたままのドラギエルに、ナバルがヘイスを押し付ける。
「あたしたちじゃどうにもできない。早く船に行って、オーネット船長たちを助けるんだ。船医は死んじまったけど、道具がある……」
ドラギエルはナバルに言われた通りに、ヘイスとエッカーナを波の来ない場所へ運んだ。そして、箱に戻した“狼王の剣”を小舟に乗せ、沖で待つ船へと漕ぎ出した。
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数日後――
エッカーナ号は、帆を風に押され、波に運ばれて、泳ぐように島を離れて行った。
入江の波打ち際に、黒い毛並みを濡らした膃肭臍がヒレをベッタベッタと動かしながら這い上がってきた。
船が見えなくなると、砂浜の方に首を伸ばして、泡立つ深海の色をした小さな瞳を向ける。
腹を擦り付けながら岩場を進んでいたが、やがて尾びれが黒い長靴を履いた人間の足へと変わり、砂浜を歩いていった。
小さな赤い潮溜まりが、砂浜の窪みに出来ていた。波がすべてを洗い流すには、長い時間がかかるだろう。
――アルソリオ歴五百四十年六月 エッカーナ号事件




