34 上陸
甲板に出されたエッカーナは、足元の板に染み込んでいる血痕から目を背けた。
三日前にライザス・チルキアが絶命した痕跡。その光景が、何度も何度も目に浮かんでくる。
血の染みは階段や船室にもあった。隙を見て襲いかかろうとした乗組員が、返り討ちにあった痕跡だ。
帆柱には、かろうじて意識を取り戻しているオーネットとワイロフを含めた生き残りの乗組員たちが、ロープで縛り付けられている。オーネットがこちらに向かって身動きするたびに締め付けが強くなり、誰かの呻き声が漏れる。
「島が見えてきたぞ。君たちが熱望した島だ。残念ながら、ルワリ島ではないが」
「あの島はなんだ」
エッカーナは毅然とした態度で聞き返す。
「少々、寄り道をさせてもらうよ。あそこに、俺の仲間が、いるんだ」
と、グィオが笑う。
エッカーナが眉をしかめるのを見て、さらに嬉しそうに顔を歪める。
「近づいて碇を下ろせ。早く指示を出すんだ、アキリ甲板長。王女が死んでもいいのかな?」
グィオの命令で、アキリは階段を降りていった。
ライザスを殺したのも、みんなを縛りつけたのも、実行したのはアキリだ。
すべては、エッカーナが軽率に正体を明かし、人質になった結果だ。
(突きつけられているナイフの感触にも、もう慣れてしまったな……)
誰かが犠牲になるたびに、自分が死ねばいいのではないかと思う。しかし、それだけはしてはいけないとアキリに言われた。そんなことをしても誰も解放されないし、エッカーナが殺されることは、オルミスの敗北を意味するのだと。
船が止まると、グィオはエッカーナを連れ甲板下へ降りる。アキリに命じ、男たちの両手両足を巻き上げ機に拘束させる。それから、アキリとナバルに滑車で小舟を降ろさせた。
いつもはエッカーナと同じ年頃にも見紛うアキリだが、ひどくやつれ、本来の年齢以上に老け込んで見えた。
「乗れ」
アキリとナバルが乗せられた小舟に、エッカーナも引きずり込まれる。
この小舟は数日前、海に漂っているところをグィオが見つけた。引き上げたが誰も乗っておらず、何も載っていなかった。だが、あの小舟に違いなかった。
(ヘイス・カフェトーに奪われた小舟……)
なぜ、空になって戻ってきたのか。あの嵐の中では、そうなって当然だ。そう、思っていた。
小舟は岩場に舷側をぶつけながら、入江を進む。
ついに浜辺に舟底を滑らせたとき、
「ドラギエルとカラットを呼べ。大声で、助けに来たぞ、とな」
と、グィオは言った。
エッカーナは、息を深く吸い、目を見開く。
「……あいつらを? 生きてるのか!?」
ナバルも驚いて、エッカーナが思ったのと同じことを聞く。グィオは軽く笑って肩を揺らした。
「ああ。俺の仲間が、殺してしまっていなければな」
「じゃあ、仲間って……」
「さあ。さっさと荷物を積みこんで、みんなで帰ろうじゃないか」
小舟から、浜辺へ降り立つ。十二日ぶりに足を着けた地面。見知らぬ島に喜ぶ気持ちなど、欠片も残っていなかった。
「ドラギエール!」
「カラットー! いるなら返事しろ!」
当てもない、掠れた叫び声が二つ。
エッカーナは、グィオを睨みつける。
「仲間、仲間と言っているのは……ヘイス・カフェトーのことか?」
「そうとも。ここで落ち合う約束だ」
(……嘘だ)
そう言い切れるわけもなく、唇だけが小さく動く。
(なら、なぜそう思うんだ。そうであることを、願っているだけじゃないか)
アキリとナバルがいくら叫んでも、二人は姿を現さない。
グィオは浜辺にあった洞窟に、エッカーナを引っ張っていった。足元に、燃えた植物が散乱している。
(……焚き火の跡!)
「やはり、いるのか。何もかも、思い通りだ!」
グィオの笑い声が、洞窟に反響する。
洞窟の空気は冷えていた。グィオはエッカーナを連れて洞窟を出ると、砂浜へ戻って叫んだ。
「おーい! ナバル、戻ってこーい!」
慌てて、ナバルが走ってくる。そのまま逃げろ、と言いたかった。
(ナバルまで、わたくしのために操られることはないのに……)
息を切らせて、駆け寄ってくる。
一瞬、エッカーナを気遣うように見て、悔しそうにグィオの前に立った。
「どうも、君は役に立ちそうにないな」
グィオはため息をついたかと思うと、ナバルに近づいた。手には、エッカーナに突きつけていたナイフ。エッカーナは咄嗟に、グィオを止めようと体当たりした。しかし、微動だにしない。
グィオは片方の手でエッカーナの首を掴むと、じたばたと暴れる足を、地面から浮かせた。視界は空に向き、ナバルがどうなっているのか、見ることもできない。
「待て!」
声に、グィオの体の動きが止まった。
エッカーナは黄色い瞳を動かし、声の方を見る。青みがかった、黒い髪。前髪から覗く、灰色の瞳。ヘイス・カフェトーが立っていた。
その姿に、既に懐かしさを覚え――目尻に、涙が滲む。
「やめろ、ファルトーソー。まだその女には用がある」
と、ヘイスはグィオに言った。
それを聞いたグィオは、エッカーナの首から手を離し、ナバルに向けたナイフを引っこめる。体が崩れ落ちる。ひゅうっと空気が喉に吸い込まれ、エッカーナは激しく咽せた。ナバルが駆け寄ってきて、エッカーナの肩を支えた。
「カフェトー! 無事で良かった! 遅れてすまない。船を動かすのに、少々手間取ってしまってな」
「……もう来ないかと思っていたところだ」
いつもの調子で、ふん、と鼻を鳴らす。
エッカーナの心臓が、ひび割れる。――首を絞められたからじゃない。
(何の根拠があって……わたくしはヘイス・カフェトーを、信用していたのか……)
記憶を手繰るも、どこにもそんなものは見つからない。引きずり出されるのは、自身の――十五歳の少女の、浮ついた心だけだ。
「まあ、機嫌を治せよ。一人なのか? あの二人は?」
「……あの嵐で行方知れずになった。奴らの生気で、精霊にここまで運ばせた。苦労したよ」
唖然としていたナバルが、固く握りしめた拳を震わせる。
「なるほど、やるじゃないか。顔色を見るに、ここは過ごしやすいようだね。森の中にでも、何かあるのかな?」
「……そんなことより、あれが先だろ。小舟がひっくり返ったときに、あの辺りに沈んだ。お前がちゃんと縛っておかなかったから」
とヘイスは浅瀬の辺りを指差した。
「そうか、海に、ね……。じゃあ、アキリとナバルに探してきてもらおうか。あの、波が立つ辺りかな?」
「……ああ。深くなっていて、足が取られる。気をつけて探せよ」
ナバルとアキリは、グィオとヘイスを睨みつけながら、水の中に入っていく。
彼らの様子を眺めていたグィオが、エッカーナの首筋に手を伸ばす。
「さて……この麗しき船長夫人なんだが。片手が塞がって面倒なんだ、そろそろ殺してもいいだろう?」
ついに、その時か――エッカーナの首が握り潰される。視界が細い筒のように閉じ、音が遠のいた。
次の瞬間、エッカーナの体から力が抜けた。
▪︎
「……そこまで気に入っているとは思わなかったな。連れて帰りたいなら、そう言ってくれればいいのに」
グィオは右腕に刺さったナイフを抜きながら、ヘイスとの距離を詰める。
「……まったく、オルミス人を好むなんて。父親譲りというやつかい? 俺がカフェトーの生ぬるさの話だけじゃなく、容姿も知っていれば……こんな面倒なことにはならなかった。反省しているよ」
「お前は……誰だ?」
ナイフを投げたのは失敗だった。グィオは、自分の血で赤く濡れた切っ先をヘイスに向ける。
「仲間ごっこを続けるなら、生かしてやっても良かったのに」
「……」
「さっき呼んだじゃないか。俺はファルトーソーさ。子どもの頃から、オルミスに潜り込んでる」
体格差は大きかった。
グィオがナイフを振った瞬間、かわして手首を蹴り上げる。血が流れるままの腕で握られていたナイフは、ヘイスの蹴りであまりに簡単に飛んでいった。
ヘイスの攻撃が成功したと思わせて――遊ばれたのだ。
(くそ! 使い込んだナイフなんだぞ……っ)
左から、グィオは自身のナイフを振り下ろしてくる。地面に伏せる。目の前にある膝が、すかさず顔面を蹴り上げようとしてくる。手で抑えつつ、勢いを利用して飛び退る。
しかし、太く長い腕に肩をつかまれ、ヘイスはねじ伏せられた。
「おとなしく“狼王の剣”を渡すなら、あの王女を離してやってもいいぞ。あれもこれもと欲張ると、上手くはいかないものなんだ。俺の経験からの忠告さ……。俺も、あの船を欲しがりさえしなければ、とっくに北へ帰れていたんだよなあ」
そう言って、グィオは砂にヘイスの顔面を押し付ける。
ヘイスは口の中に入ってくる細かい砂粒を吐き出そうと、もがきながら、エッカーナに向かって震える手を伸ばす。逃げろ、と。
やがて、意識が朦朧としていった。
挿絵はAI生成で出来るだけイメージに近づけたものです。




