13 善と悪の分離
さっき見た光景が、頭から離れない。廊下を進むにつれて、トゥヴァリの罪悪感はますます膨らんでいった。
(吐き気がする)
怒りがこみ上げてくる――あの光景に体を硬直させていた自分自身に。
そして、その記憶が頭をよぎるたび、繰り返し襲ってくる感覚への怒りだった。
(くそっ。あんなこと、あんなひどいことに……俺は絶対、意味なんか見出さないぞ)
その時、人の気配がした。トゥヴァリは柱の影に身を隠し、精霊を呼んだ。
金髪の女性が、階段を降りていった。
トゥヴァリは息を殺し、彼女の姿が完全に見えなくなるのを待ってから、追いかけた。絨毯のおかげで、足音はほとんど響かなかった。
地下一階。薄暗いが、同じような廊下が続く。壁に取り付けられた小さな光が揺れる。空気が冷たい。女性はさらに奥へ、闇の深い方へと歩いていった。
そこは今までで最も異質な場所だった。左右の壁には、黒光りする棒が隙間なく並んでいる。行き止まりが見えたので、トゥヴァリはついて行かずに影に潜んだ。
ガシャン!
女性は突然、激しく鉄格子を掴んだ。
「アッハハ! おかしい! 本当に捕まってるじゃない!」
「……助けに来てくれたのか?」
低く乾いた声。
(アイピレイス様!)
トゥヴァリは少し身を乗り出した。触れている棒が揺れ、かすかに鉄が擦れる音がした。
息を呑む。
「見に来ただけよ。落魄れた道化師をね」
――気付かれていないようだ。肩の力が抜ける。
「ハーヴァ。君もナリファネルの手先か」
(え?)
トゥヴァリは一瞬、意味がわからなかった。後ろ姿は別人のものとばかり思っていた。
けれど、その名前が出た途端、胸の奥がざわめく。
(母さん……? 服や髪、顔だって、別人みたいだ……)
言われてみれば、声は同じだ。
「違うわ。でも、あなたの味方でもないけど」
「彼はこの宮殿を乗っ取った。玉座に座ったって魔法が使えるようになるわけじゃない。
王はセレニアだけだ。絶対的な力を持つのは、彼女だけなのだから。なのに何故……?」
「どうでもいいわ、そんなこと。あれのおかげで、私は安全でいられるんだもの」
「安全……?」
「ねえ、父親ごっこは楽しかった? 百二十二番に、ずいぶん思い入れを持っているようだけれど」
「百二十二番?」
「あの子どもよ。トゥヴァリ。あの、バカみたいな実験したり、飼育員を親だと思ってる哀れな子ども!」
女は、腹を抱えて下品に笑う。
しばらくして唐突に静まり返ると、今度は、アイピレイスを慰めるように、微笑んだ。
「あまり可愛がらないほうがいいわ。食われた時、つらいだけよ? 私たちが不死でいるために死んでもらうんだから……」
全身の力が抜けて、体が崩れ落ちそうだった。
指先が小刻みに震え、息の仕方を忘れる。
暗い部屋を、飛び出した。辺りを見回す――誰もいない。
トゥヴァリを救ってくれる人も、アルソリオのどこにも、一人も、いない。
精霊だけがついてきた。静かな怒りと悲しみが、闇の中で彼を待っていた。
▪︎
「不死でいるため? どういうことだ?」
「やっぱり、覚えていないのね。アイピレイス。ロースウェイの研究のこと」
「私が、忘れている? ……そんなはずはない」
「いい気味だわ。セレニア、精霊のせいで、私は全てを失ったんだもの!
ナリファネルがどんなことをしていたって、何も感じない」
「……君は、医者であることをやめたのか」
「とっくにね。非難したいわけ? 何も知らないで!
あれは私の身代わりなのよ! いくら不死でも、跡形もなく治されるとしても、私は人間だわ……っ!」
言葉の最後は嗚咽に変わり、ハーヴァはしゃがみ込んだ。
アイピレイスは、呆然と見つめていた。
三百年の時を経て、誰も彼も――自分も、壊れてしまっていたのだ。
▪︎
ハーヴァの言葉を聞いた時、飛び出して殴りかかりたい衝動に駆られた。もし捕まりそうになっても、ハーヴァが相手なら自分が勝てる――そう思った。そうすれば、アイピレイスと話ができた。
だが、トゥヴァリの脳裏にはあの男の形相がちらついた。自分より弱い者に暴力を振るう、あの姿。
(男に立ち向かってセレニアを救おうとしなかったくせに、女には勝てそうだからと衝動に従うのか?)
トゥヴァリは自分を恥じた。
俺には、理性がある。実際にそんなことはしない――そう自分に言い聞かせた。
体が震える。裏切られた悲しみと、怒りは交互に押し寄せる。せっかく保っている理性を崩そうとするかのようだ。
《ーーーーーー 》
「……?」
それは言葉ではなかった。だが、確かにトゥヴァリを呼んでいた。薄暗い廊下を、足が動くままに曲がったその先――
ドン、と何かにぶつかった。
ぶつかったものは力なく絨毯の上に崩れ落ちた。
「あ……っ!」
赤い絨毯に投げ出された白い肢体、流れる黒髪。その光景は、狼の口の奥に覗いたものをトゥヴァリに思い起こさせた。
少女は声を発さなかった。トゥヴァリを見て、ほんのわずかに驚いたような色を浮かべたが、やがてけだるげに細い体を起こそうとした。0
「待って!」
気付けばその腕を掴んでいた。力を込めているわけでもないのに、容易く折れてしまいそうだ。トゥヴァリは怖くなって、すぐに離した。
「逃げよう。俺と一緒に行こう」
「……」
少女は沈黙したまま足を引きずり、どこかへ行こうとする。
「どうして? 嫌だろう、こんな場所にいるのは!」
うん、と。同意して欲しかった。
彼女に協力できるのは――そう、当然、彼女には助けが必要なはずだ――唯一、宮殿の真実を知ったトゥヴァリだけなのだ。お互いが、たった一人の理解者であるはず。
しかし、
「……私は精霊王セレニアです」
少女は体のように細い声で言う。続く言葉に、トゥヴァリの顔が引きつった。
「私は謝罪します。人々を傷つけ、尊い命を奪い、貴方の兄を殺しました。彼らの痛み、悲しみを一時も忘れることはありません。
私は贖罪します。過ちを繰り返さないよう、己に出来ぬ戒めに、貴方の手を借りて罰を受けます」
早口で、小さな声で繰り返す。下を向き、床の絨毯を見つめている。長い髪に隠れて顔は見えない。時折、肩と声が震えている。
「あなたがどんなことをしたとしても、あんなに酷いことが許されるわけがない」
「私がしたのは、それ以上のことです……」
「それ以上って、何を?」
トゥヴァリの声にいらだちが滲む。彼女がこうして受け入れるからあれが起きるのだ。トゥヴァリは、そう思い始めていた。
「ナリファネル様の兄を殺しました。たくさんの人の命を奪いました」
「それはさっき聞いたよ」
「……私は覚えていません。覚えていないことが罪です。私はセレニアになる前のことを、何も覚えていないんです」
「じゃあ、ナリファネルに言われるがままに贖罪をしているっていうのか! 君は自分が何を謝るべきかも知らずに、謝罪をしているっていうのか! そんな意味のない謝罪では何も解決しない、ただ、彼の暴力を助長しているだけじゃないか!」
セレニアは、トゥヴァリの声に押しつぶされるように肩をすくめ、小さく震えた。
その姿にますますいらだちが募り、トゥヴァリは拳を握りしめる。だが――今の自分の声は、ナリファネルの怒鳴り声とどこが違うのか。
はっとして、深く息を吐き、握った拳をゆっくりと解いた。
「わかった……それなら、俺が知る。君の代わりに、俺が識るよ。それで本当に君が悪いとわかった時は、俺が……一思いに、君を死なせる」
トゥヴァリは、今度はとても慎重に優しく、セレニアの手を取った。
「だから、俺と行こう。俺は正しいと思うことをする。ナリファネルが間違っていて悪だということを、精霊王セレニアに証明してみせる。
――俺は、君を助ける」




