糸穂の章 10
年が明けて、大正七年を迎えた。
海城の家で催された新年会も終わり、普段の生活に戻った頃。糸穂はトキから編み物を教わり始めた。
トキと糸穂が寝起きする部屋には、窓がない。裸電球がぽつんと天井からぶら下がっているらしい。どのみちこちら側にいるときの糸穂には、支障がないのだ。
「トキは何でもできるのね。すごい」
「なれたら誰だってできるよ」
トキに手を持ってもらいながら、糸穂は鉤針編みを少しずつ覚えていった。
柔らかい毛糸が指の間を通り抜けていくのが、心地よい。どれくらいの強さで糸を引けばいいか、どの目にさしていけばいいのか、指先の感覚でひとつひとつ、できるようになっていくのが糸穂には嬉しかった。
「糸穂は筋がいい。御囲様のお勤めが終わるころには、きっと何でも編めるようになるよ」
「そうかな。でも、そうなったらいいな」
糸穂は編み上がった部分をなでてみた。少しごわついているけれど、編み物としてのていをなしている。
「えりまきや、手ぶくろが作れるようになりたい」
「繰り返して覚えていけば、きっと編めます」
トキに言われて、糸穂は頬がゆるんだ。
えりまきが編めたら、「アオ」の首にまいてあげたい。
糸穂は青年に「アオ」という名前をつけた。ハナにしようかなと思ったけれど、着ている着物が青いのでアオにした。むろん、声に出して呼ぶわけにはいかない。胸の中でつぶやくのだ。
アオ、黒羽織、猿。
糸穂の前に必ず現れるは、黒羽織とアオ。猿は時々顔を見せる。
御囲部屋の住人たちとは、あるていど気心が知れてきた。糸穂はしかし、緊張感をいつも持って接している。黒羽織が、時おり箍が外れたように糸穂に詰め寄ってくるときがあるのだ。
時々糸穂の猿ぐつわを強引に外す。アオに暴力をふるい、盛大に花をまき散らかす。歯止めが利かなくなると、どこからともなく猿が現われて、黒羽織をなだめる。
先の予測は、教えたり教えなかったりだ。今のところ、糸穂が持ち帰った予測で海城の懐は潤っているらしい。
「きれいな着物を着せられるより、トキに編み物を教わっているほうが楽しい」
年末に、糸穂は海城夫人の着せ替え人形になった。海城が糸穂の働きに見合うほどの振袖を買い与えたのだ。
「奥様は凝り性だからね。それにあんたは可愛らしい顔立ちをしているから、なおさらだ」
糸穂は自分の顔を知らない。それこそ、目が二つ、鼻と口は一つ、それくらいしか分からないのだ。
きれいな着物には興味はないが、着飾った姿をアオに見せたかったと糸穂は思った。
「あんたは幸せ者だよ」
「幸せ?」
糸穂は小首をかしげた。トキは糸穂の長い髪に少しだけふれた。
「あんたと同じくらいの子なら、住み込みで朝から晩まで働かされるのが普通さ」
「え? わたしの弟たちはそんなことなかった」
「そりゃ、あんたの家が大きな網元だからだよ。家で同じ年くらいの子が働いていなかったかい」
言われてみれば、思い当たる。母屋の方から、女の子の声がすることがあった。あれは、仕事をする少女の声だったのか。
おそらく継母は、糸穂に親しい者を作らせないよう、同じくらいの子どもを離れにはやらなかったのだろう。糸穂はいつも腰の曲がったばあやと二人きりだった。
「目が不自由だって、あんたはべっぴんさんになる。きっと、不自由なく暮らせる嫁ぎ先を旦那さまが用意してくださる。なに、すぐさ」
言われて糸穂の手が止まる。
そんなすぐには大人にはならないだろう。でも確かに、海城に来てから着物がきつくなり、肩上げと腰上げをトキに伸ばしてもらった。
大人になれば御囲様のお役御免になる。
そうしたら、もう御囲部屋に入ることはなくなる。
アオに会えなくなる?
「……ずっと、ここにいたい」
「変なことを言うね。今までの子たちは、早くここから出ていきたいって毎晩泣いたもんだよ」
自分は変なのだろうか。
こちらとあちら。
自分が心地よいのは、どちらだろうか。
「きょうはこれくらいで止めておこうか。もうじき夕食が来る」
トキは編み物を片付けた。糸穂はしばらく、じっとしていた。




