死と同じく、生も避けられない3
意識が戻った時、何か柔らかいもので口を塞がれているのに気付いた。息苦しくて、手足をばたつかせ、もがいた。つもりだったが、上手く体が動かない。ようやく塞がれていた口が解放され、俺は思い切り空気を吸い込んだ。いきなり提供された新鮮な空気に、肺がびっくりしたのか、盛大に咳き込む。顔の肌に、涎やら鼻水やらが垂れる感触があった。額に濡れた髪がへばりついているのもわかる。肩で息をしながら、少しずつ瞼を開いた。
そこには仰向けに寝ている俺の顔を覗き込む少女の姿があった。
「イメラ……?」
今俺の唇には、ほんのりと温かく、柔らかい感触が残っていた。ひょっとして……
「……あの、もしかして……」
人工呼吸……?
少女は俺と同じようにびしょ濡れだ。彼女の、濡れそぼった桃色に艶めく唇を凝視してしまった。少女はいつもの感情のない瞳を俺に向ける。堂々としていて動揺は見られない。俺の方が恥ずかしくて赤面してしまう。思わず眼をそらしてしまった。
「生きてる?」
イメラの質問に、俺は少しずつ現状を理解していった。寝転がったまま、崖を見上げる。身震いした。あの高さから落ちて、流されて、そして助けられたのか。イメラに……。落ちた時に視界をかすめた影は、俺を追って一緒に飛び込んできたイメラだったんだ。
よく生きているもんだ。というか……
「何で……助けた? 俺の話、聞いてたんだろ?」
あれでようやく苦しみから解放されたのに、わざわざ助けやがって……。
「金のためか? 俺自身には、お前らが貰う報酬ほどの価値もねえってのに……」
「……ったから……」
「え?」
イメラの奴、何て言った? よく聞こえなかったが……
「“助けて”って言ったから」
「…………“助けて”? 俺が? いつ?」
「……落ちる時……」
……………………嘘だ……
「川の中でも、溺れながら私の手を握ってきた」
イメラが左腕を見せる。そこには手の形にうっ血した痕があった。俺はそんなに必死に掴んでいたっていうのか? こんなか細い女の子の腕を……。
全然覚えてない……。死にてえ死にてえって言いながら、何やってんだ俺……。死ぬ覚悟なんか何処にも持ち合わせて無かったっていうのか……。無様だ……。
「何だよ、それ……最悪……。俺なんか生きてても、何の意味も無いのに……死ぬこともできねえのか……」
「……あなたは不思議なことを言う」
「不思議な……こと……?」
「……獲物がいるから追うだけ、命があるから生きるだけ。たったそれだけのこと。意味とか価値とか、考えたことない」
「……」
仰向けのまま見上げた空には、山間を渡る白い月が浮かんでいた。その情景が不意に揺らいだ。唇が震える。
「……何故泣くの?」
「……月が……綺麗だなと思って……」
上手い言葉が見つからず、そんな台詞が出た。何、キザなこと言ってんだ、俺?
だがイメラは嘲笑することなく、顔をしかめることもなく、無表情のまま「うん」と頷いてくれた。
しばらく俺たちは黙って夕暮れの空を見ていた。何だろう、このとても緩やかで穏やかな時間は……。俺の人生の中で、こんなふうに時間がゆっくりと流れていくことなんて、今まで無かった気がする。いつも何かを恨んでいて、周りを否定して、ギスギスとささくれ立っていた。
川に流されたおかげで、何か色々と洗い落とせたのだろうか。妙にさっぱりした気分だ。
「バートさ~~~んっ!」
レーナの呼び声がした。レーナとタシロが川原を走ってやってくる。
「だ、だ……大丈夫ですかぁっ?」
彼女は眼に涙を浮かべていた。おまけに俺が何か言う前に、いきなり抱きついてきた。案外胸あるんだな、レーナ。いやいや、今はそんなことじゃなくって……。
「ああ、すいません。いきなり抱きついたりして、私ったら……」
今度は思いっ切り突き放された。しかも顔を赤くしてやがるし……。
「お前まで飛び込むなんて、流石に肝を冷やしたぞ、イメラ。相変わらず無茶をする」
タシロがイメラに弓と矢とマントを渡す。飛び込む時、咄嗟にタシロに預けていたようだ。
「お前も生きていたのか、運がいいな。いや、イメラに感謝するんだな」
するとグーと誰かのお腹が鳴いた。三人が一斉にイメラを見た。タシロが咳払いをする。
「仕方ない、野宿にするか。服も乾かさないといかんしな」
焚火には服が干されている。俺とイメラの服だ。そして木の枝の串を刺した肉が一緒に焼かれていた。
イメラはタシロのマント一枚だけ羽織っている。下は裸だ。大男のマントは小さな少女には大きすぎて、長いドレスを纏っているようだ。俺はパンツ一枚で、レーナの軍服の上着を借りて着ていた。サイズが少し小さくキツキツだ。
頭痛はまだするが、もうそれほど酷いものじゃない。
ジャバウォッカのうろついている山で野宿するというのは危険すぎるが、他に選択の余地はなかった。既に一晩過ごしているしな。ただ、揺らぐ炎の影も気になって怯えてしまう。
イメラがコゲめのついた串肉を取ってレーナに渡そうとした。でもレーナは首を振った。
「すいません。私、軍の携帯食があるんで、そっちを食べます」
軍の携帯食は基本、パンやビスケットだ。やっぱり肉は食えないか……。そりゃそうだよな、昼間にあんな惨劇を見た後じゃ。それも自分の上司だ。
次にイメラは俺に肉を差し出した。
「……あのさ、朝も想ったんだけど、それ何の肉だ? まさか、人肉じゃないよな?」
「そうだ」
タシロが答えると、レーナがヒッと甲高い悲鳴を上げて蒼褪めた。
「冗談だ。シカの肉だ」
冗談言うんだ、こいつ。でも笑えない。まったく笑えない。少しホッとはしたけど……。
「昔は人を食う部族もいた」
「え?」
「ゾアーズ人をさらってきて、丸焼きにしてたそうだ」
「……」
「冗談だ」
「笑えねえっつうの。意味わかんね」
「喰うのか? 喰わんのか?」
「鹿肉なんて、あんま美味くないだろ……」
「ちゃんと血抜きした」
実をいうと、さっきから肉汁の混じった煙が、鼻腔から脳髄へと突き抜けるような香ばしい匂いを運んできて、シナプスをオーバーヒート寸前まで狂わせていた。口の中に、こぼれそうなほど溜まった唾を飲み込む。俺だって空腹だったんだ。
でも肉の赤身を見ると、やっぱりあの惨劇が目の前をチラつく。引き裂かれたばかりの肉の赤さを……。躊躇していると、レーナがビスケットを俺に差し出した。
「バートさん、無理しないでください。よかったら私の携帯食を半分差し上げますから」
するとイメラは、俺に渡すつもりだった串肉を自分の口に持っていこうとした。片一方の皿には生理的嫌悪、もう一方には空腹を乗せ、真ん中で吊り合っていた天秤が傾いた。
「待った」
イメラの手から肉を奪い取った。俺は恐る恐る肉を口に運んだ。脂分はほとんどなかった。肉には岩塩しか振ってない。でも独特な野性味あふれる匂いが鼻腔をくすぐった。噛むと、筋繊維が歯に程良い弾力を与えながら、ほぐれていく。以前にもシカ肉を食べたことがあったが、獣臭くて食べられたものじゃなかった。けどこれは食べられる。無茶苦茶美味いわけじゃないが。空腹のせいだろうか? それもあるだろうが、やっぱり仕留めた後の処理が上手いんだ。血抜きって言っていたな。狩人は、狩った獲物を美味く食べる方法に関しても、プロということか……。
鹿肉は噛めば噛むほど旨みが溢れてきた。いつの間にか俺は貪り食っていた。気付くと三人が俺を凝視している。
「死にたいと思っていても腹はすくんだ。死体を見ても肉が食いたくなる時はあるんだ。美味えんだもん。本能には勝てねえ!」
俺は残りを一口で頬張った。そして二本目に手を伸ばす。しかし俺が狙っていた肉は、横からイメラに取られた。負けじと俺は別の肉を手に取った。イメラと競うように食べた。
「元気が出てきてよかったです」
レーナが微笑んだ。
「それ、何してんだ?」
レーナの手元を覗いた。
「拳銃の手入れです」
「……こんな時にか……?」
「こんな時だからです。いつジャバウォッカに襲われるかわかりませんから。いざという時に整備不良で使えないのでは困りますし、それに軍隊の怪我で一番多いのは暴発なんです。いつもきちんと整備して安全に使えるようにしておかないと。整備不良で誰かを怪我をさせたら、それは武器の所有者の責任になりますので」
「所有者の責任……」
親父と同じこと言うんだな、レーナ……。
「まあ、軍人ですから、これも仕事の内です。いえ、軍人に限らず、武器を扱う人の義務ですね。ほら、タシロさんやイメラさんもやっているじゃないですか」
レーナの言う通りだった。タシロは槍に油を塗っているし、イメラは矢を一本一本確認している。
「でもこんなこと、バートさんならいちいち言わなくてもわかってますよね」
「えっ、あ、ああ、まあな……」
無邪気な笑顔を向けられ、思わず頷いてしまった。
「……でもさ、レーナ」
「はい?」
「もしも、もしもだ。仮にの話しだ。もしも他人が、勝手に自分の銃を使って怪我をしたら……それはそいつの自己責任だよな?」
「いいえ、それは銃の所有者の責任です」
彼女はきっぱりと言い切った。
「整備だけじゃなく、銃を管理することだって重大責任です。ガンロッカーには必ず鍵をかけなければいけませんし、必要によっては家族にだって銃の保管場所は教えないようにしておくべきです。もし、誰もが簡単に触れるところに置いておいて、怪我人が出てしまったら、それは所有者の注意不足が招いた過失……いえ、犯罪です」
「…………」
「……私、射撃の才能ないし、銃はおっかなくて苦手です。でも職務であり、義務である以上、苦手だからって整備を疎かにすることは出来ません。自分の銃は、何が起ころうとも自分で責任を持つべきです。軍人ならば……いえ、銃を所有している人にとって、これは常識じゃないですか」
……何だよそれ。間違っていたのが俺みたいじゃん。
「何故こんなことを訊いたんですか、バートさん?」
「え? い、いや、別に……何となく……」
そうだよ、レーナに何を言ってもらいたくて、こんなこと訊いたんだろう。自分に都合のいい答えを期待していたのか? けど、それが否定されたみたいで……というか完全否定されて、惨めな気分だ。恥ずかしくなってきた。
そういや俺のエアガン、今何処にあるんだ? トリガーを引く指先の感触。撃った瞬間に掌を振るわせるあの感覚。何年も経ったのにまだ忘れていない。体の一部だったかのように鮮明に覚えている。なのに今まで探そうともしなかった……。
親父のやつ、まだちゃんと保管しているのかな?
何だろう、この虚無感は……。
レーナはさっきからオートマの拳銃を分解している。それも一丁だけじゃない。三丁もだ。
「銃が苦手って言う割に、沢山持っているな」
「これですか? いえ、私のじゃないんです。ジャバウォッカに襲われた私の小隊の人たちの物です。こっそり持ってきちゃいました」
「……形見のつもりか?」
「それもありますが……私の拳銃、ジャバウォッカに襲われた時に落として、無くしちゃったものですから、護身用に持ってきたんです。でも、この拳銃たちもジャバウォッカに殴られたのか、銃身が曲がっていたり、泥や血糊がチャンバーに流れ込んでいて上手くスライドしなかったりで、正常に撃てる物がひとつもないんです」
「じゃあ、どうすんだ? そんなの手入れしても意味ねえじゃん」
「ですから、この中から使える部品を取り出して、新たに使える銃を一つ組み立てます」
「ジャンクの部品取りでニコイチ作るのか? そんなこと出来るのかよ?」
「戦場では、戦闘が激しくて銃が壊れてしまうこともよくあるそうです。そうなった時のために、壊れた銃同士を組み合わせて直すという訓練もしてきました。この拳銃、マイナーチェンジしてますが三つとも同じモデルの銃です。互換性があるので出来ると思います」
マジか……? そんなこと考えもつかなかった。
レーナは真剣な眼差しで作業を続けている。ただ、彼女の整備は御世辞にも上手くない。出会った時の印象通り、不器用だ。手元から部品をよく落とすし、銃口の掃除も指先定まらない。見ていてイライラする。その様子を見ていると、代わりに手入れをしてやりたくなった。不思議だな、昔はあんなに面倒くさがっていてのに。無性に銃の手入れがしたくなるなんて……。
「レーナ、貸しな。俺がやってやる」
「え? 何を言っているんですか。これは軍人である私の仕事です。お父様が参謀本部詰めとはいえ民間人の、それも高校生に軍から支給された銃を触らせるわけにはいきません。十八歳未満は……」
「銃を持っちゃいけないんだろ。知ってるよ。でも構造は親父に教えてもらってるから出来るよ」
「出来るから許されるということではありません」
「ふんっ、お前こそ不器用なんだから、出来るわけねえ」
「ではバートさん、構造はわかってるっていいましたけど、実際に整備したことは?」
「……ね、ねえよ……」
「やったこともないのに、どうして出来るなんていえるんですか?」
「出来るよ。エアライフルの整備はガキのころからやってきたんだから」
「エアライフルと拳銃は別物です」
「俺はこれでも結構器用なんだ。お前なんかよりずっと。だからこれくらい、やろうと思えばできるはずだ。本気を出せば、拳銃の整備くらい……」
「……ふんっ」
タシロが鼻で笑った。
「な、何だよ?」
タシロは俺を無視するように、レーナの方を向いた。
「……やればできる……か……。やったことのない奴や、やらない奴ほどそういう言い訳をするもんだ。実にそこのボンボンらしい台詞だな」
「んだとっ」
「この世には“努力する”という才能がある。それは確実にこの世に存在する。だが……それをバカにする奴がいたりもする。そういう奴が共通して持っている、ある才能がある」
レーナに体を向けたまま、タシロは眼球だけを動かして俺を見据える。
「……“やらない”という才能だ。その才能も確実にこの世の中に存在する。このボンボンはその天才だ。レーナ、試しに銃を渡してみろ。無能さをひけらかさなければいいがな……」
この野郎っ!
「やめてくださいっ!」
俺が何か言う前に、レーナが大声を上げた。
「タシロさん酷いです。バートさんは過去にお父様やご兄弟と色々あって、色々悩んでいるんじゃないですか。そんな事情を考えもせず、一側面しか見ないで、一方的に卑下するなんてよくないです」
これって……レーナの奴、まさか俺を擁護してくれてるのか? びっくりした。けど俺よりもびっくりしている奴がいた。あのタシロが面食らってる……。
「バートさんはお父様の期待に応えようと頑張って……頑張ったけど上手くいかなくって……でも今もこんなに苦しんでいるのは、あがいているってことは、まだ諦めきれてないからじゃないんですか。それって屈折してるけど、向上心じゃないですか。本当に何もかも諦めていたら、こんなに苦しむことはないはずです。だから負け犬みたいに言うのはやめてください!」
「……もういい。やめろ、レーナ」
「え、あ……」
俺に止められて、レーナは我に返った様だった。
「あの、私また余計なこと言っちゃいました?」
レーナは狼狽しだした。彼女の顔が段々赤くなっていく。
「……寝る」
「え?」
「昨日、ほとんど寝てないんだ」
俺は地面に横になった。“ごめんなさい”と謝っているような、レーナの「おやすみなさい」が聞こえた。
レーナ……見た目は大人しそうだけど、芯の強い女だったんだな……。
それにしても、何故ここまで俺のことを庇う? 何をしても、優しくしてくれるんだ? 俺なんて、何処にいてもずっと敬遠されてきた。一緒にいたキーンたちだって、向こうから俺を誘ってくれたわけじゃない。俺の方が金魚のフンみたいに、一方的に後をくっついていただけだ。そういえば、あいつらもちょっと煙たがっていたところがあったっけ。
それから、どうしてだろう。レーナに優しくされると……辛い……。タシロに罵倒されるよりも苦しい。レーナに庇われると、悪いことをしたんじゃないか、という自責の念に駆られる。いっそ気に入らないと殴ってくれた方が気は楽だ。だって殴った相手を自分の中で悪者に出来るから。でも優しくされたら、そんなことは出来ない。むしろ悪者は俺になっちまう……。俺は、悪くないよな……。
疲れてうとうとしているところにイメラの声が聞こえた。
「タシロとバートの負け。レーナの一人勝ち」
タシロが「むぅ……」と唸った。
順番のミスはこれで終わりです。失礼しました。