第51話「自治の条件」
交渉3日目の午後。議題は、辺境の自治権に移っていた。
ケーラー卿は、条約の大枠をすでに受け入れている。国境の非武装地帯、通商権の相互承認、捕虜と行方不明者の照会——いずれも、彼にとって呑める条件だった。そこまでは、設計の通り。
けれど本当の勝負は、ここからだ。この条項の相手は、ヴァルハイムではない。卓の同じ側に座っている、王国そのものである。
「辺境自治権の正式承認について、協議を始めたい」
フリードリヒ殿下が切り出した。約束通り、彼は反対しない立場を取っている。ただし、積極的に推すわけでもない。仲裁者の椅子から、成り行きを見守る——それが彼の選んだ間合いだった。
ケーラー卿が書類をめくる。
「自治権の範囲を、明確にしていただきたい。徴税権は含むのか。軍事権は。司法権は」
「3つ、すべてを求めますわ」
広間がざわめいた。王国側の随行員が顔を見合わせ、ヴァルハイム側も同様。完全自治——それは事実上、独立国に近い地位を意味する。
「——根拠を聞こう」
ケーラー卿の声は冷静だった。感情で否定しない。この人は最後まで、交渉相手として信頼できる。
わたくしは立ち上がり、壁の地図の前に立った。
「辺境は王国の北の縁にあり、ヴァルハイムとの緩衝地帯ですわ。この地が不安定なら、両国にとって脅威になる。安定させるには、辺境の実情を知る者が、辺境の速度で統治する必要がありますの」
指で領域を示しながら、続ける。
「王都から辺境まで、早馬で7日。軍が動けば1ヶ月。有事の判断をいちいち王都に仰いでいては、手遅れになりますわ。——それは今回の件で、十分に証明されたはずですの。3000の兵が国境に立った報せへの王都の最初の応答は、3年間変わらぬ定型文と同じ棚から出てきましたもの」
会場の王国側の何人かが、気まずそうに視線を逸らした。記録に残っている事実は、声を荒げずとも、それ自体が刃である。
フリードリヒが、微かに顔をしかめた。王都の初動の鈍さは、ほかならぬ彼の宮廷の記録に残っている。
「自治と引き換えに、辺境は何を差し出す」
王国側の随行員——貴族院の代表として同席している中年の伯爵が口を開いた。
「3つですわ。第1に、王国への年間定額の分担金。算定の根拠はこちらに」
リーゼが書類を配る。辺境の経済規模の推計と、王国の歳入に対する適切な分担率の計算。例によって、棒グラフつきである。
「第2に、有事における王国軍への兵站支援の義務。辺境は国境の最前線として機能しますわ」
ディルクが補足した。
「地形を知る兵と、整備された補給路の提供。王国軍にとっての価値は、駐留軍1個連隊に相当する。維持費は、王庫からは1リーグも出ない」
「そして第3に——」
一拍、置く。
「辺境出身の人材を、王国の官吏として輩出しますわ。教育の制度はすでに走っています。10年後、辺境から王都の行政を支える人材が出るでしょう。——王国は、辺境を抱える費用を払わずに、辺境の産む人材だけを受け取れますの」
貴族院の伯爵が、なお食い下がった。
「自治を許せば、他の辺境領も同じことを言い出すぞ。前例というものを、どうお考えか」
「望むところですわ」
即答すると、伯爵が目を剥いた。
「他の辺境領が『同じこと』をするには、税制を立て直し、道を通し、教育を広め、隣国と交易の網を編み、そして有事に領民をひとり残らず守り切る必要がありますの。——その全部をやり遂げた領が増えるなら、王国は強くなる一方ですわ。悪い前例とは、楽をして得をした前例のこと。これは、その逆ですもの」
「屁理屈を——」
「伯爵」
クラウスが、初めて口を開いた。
「わしの領で、何人死んだと思う。1人だ。3000を相手にして、1人。……この数字を出せる体制を『前例』と呼べるなら、王国中に広まってほしいもんだ。わしはな」
武人の声は、議論を終わらせる声だった。伯爵は、それきり黙った。
ケーラー卿が、手元の書類を1枚めくる。
「ひとつ、伺いたい。自治を担う人材は、続くのか。失礼ながら——あなたがた数名の才覚で回っている体制は、あなたがた数名が欠ければ止まる。条約の相手としては、そこがいちばんの審査項目だ」
いい質問だった。この問いを出してくれる相手なら、半年の準備が無駄にならない。
「教育の制度と、文書の制度ですわ。判断の根拠はすべて記録に残し、記録を読める人間を教室で育てますの。わたくしたちが欠けても、棚と教室が残る。——属人の才覚は審査に値しないという御説には、全面的に賛成いたしますわ。ですから審査の対象は、人ではなく、仕組みになさって」
老外交官は、長いこと書類を見つめてから、「結構」とだけ言った。外交官の「結構」は、契約書の判より重い。
沈黙が広がった。計算ずくの条件であることは、誰の目にも明らかだ。そしてその計算が、双方の取り分を増やす形に組んであることも。
ケーラー卿が、顎に手を当てて考え込んでいる。彼の関心は別の場所だ。辺境の自治が、ヴァルハイムにとって何を意味するか。
「卿。辺境が自治を得れば、ヴァルハイムとの直接交渉の窓口が開きますの。王都を経由せず、国境の実務を辺境の速度で解決できる。——それは、そちらにとっても望ましいのではなくて?」
老外交官の目が、光った。
「……なるほど。交渉窓口の多層化か」
「ええ。国境の市の運営、関税の細目、査察の日程——実務は辺境とヴァルハイムが直接。国家間の大枠だけを、王都と貴国の都が扱う。外交の速度が、桁ひとつ上がりますわ」
フリードリヒが腕を組んだまま、わたくしを見ていた。碧い目の奥に、感嘆とも警戒ともつかない色がある。ここまで計算していたのか——そう言いたげな顔。
「殿下」
わたくしは、彼に向き直った。
「辺境の自治は、王家の権威を削ぐものではありませんわ。むしろ、辺境が王家の信頼に応える体制を作るもの。鎖で繋いだ犬は鎖の長さしか守りませんけれど、信頼で結ばれた隣人は、垣根の向こうまで守りますのよ」
長い沈黙のあと、フリードリヒが口を開いた。
「条件付きで、賛成する。自治権の範囲と運用には、5年ごとの見直し条項を入れろ」
「承知しましたわ。ルイーゼ、見直し条項の文案を」
ルイーゼのペンが走る。彼女の筆が紙に触れるたび、歴史が1行ずつ刻まれていく。
「もうひとつ」
フリードリヒが付け加えた。
「自治領の次代の問題だ。辺境伯の後継者の選定は、進んでいるのか」
来た。本命の残り火である。クラウスが、髭を撫でて鷹揚に答えた。
「進んどる。家法に則ってな」
「家法、とは」
「グレンツェ家代々の選定規程よ。先例3代分、文書で揃っとる。ご覧になるか」
あの「明日から、あればよろしいのよ」の家法は、リーゼの手で先例の編纂から運用細則まで育ち、いまや本物の規程として書庫に鎮座している。フリードリヒは書類を一瞥して、それ以上は踏み込まなかった。文書で揃っているものに、王家は口を挟みにくい。挟みにくいように、揃えたのだ。
散会の際、ケーラー卿が立ち上がり、手を差し出した。
「ストラテーガ参謀。あなたのような人が辺境にいるなら、ヴァルハイムにとっても、この国境の安定は期待できるだろう」
その手を握る。骨ばった掌の感触が、初日とは違って感じられた。あのときは品定めの握手。いまは——同業者の、握手。
会議室を出ると、廊下の窓から夕焼けが見えた。
ディルクが、隣を歩いている。
「辺境の自治。あなたはここに来た日から、これを描いていたのか」
「まさか。最初の夜は、地図を読むので精一杯でしたわ」
「だが、いまは」
「いまは——この土地のために、打てる手を全部打ちたい。それだけですの。……いえ。訂正しますわ。最初の夜に地図を見たときから、たぶん、描き始めてはいましたの。『枯れていく土地』と帳面に書いた、その隣に『ただし、手はある』と書き足した瞬間から。設計図はあとから育ちましたけれど、最初の1行は、あの夜ですわ」
「『ただし、手はある』か。——あなたの帳面でいちばん高くついた1行だな」
「ええ。この半年分の人件費と、樽代込みで」
夕日が、辺境の大地を赤く染めている。道と、畑と、教室の屋根と、遠くの峠。この景色が自分の速度で生きていくための条件を、今日、勝ち取った。
盤の上の駒ではなく、盤そのものになる——辺境は今日から、自分の手で自分の局面を指していく土地になったのだ。
その夜、館では小さな祝杯があった。正式な宴はまだ先だけれど、リーゼが「本日は『自治の予行演習』として樽半分まで」と裁可したのである。予行演習の基軸通貨も、やはり樽であった。
広間の隅では、ルイーゼとリーゼが頭を突き合わせている。祝いの席でまで仕事の話——と呆れかけて、よく見れば2人の手元にあるのは条文ではなく、国境の市の屋台の配置図だった。初回の市で、どこに杏の屋台を置くか。条約の立役者たちの軍議は、もうそんな議題に移っている。
クラウスの杯に2杯目が注がれ、ディルクは1杯目を半分のまま、壁の地図の前に立っていた。視線の先には、もう書き換えなければならない国境線。平和とは、地図屋の繁忙期の別名でもある。
杯を掲げたクラウスが、短く言った。
「辺境に」
「辺境に」
全員の声が重なる。半年前、この乾杯の輪のどこにも、わたくしの席はなかった。いまは——どこに座っても、誰かの隣だった。祝杯の輪の真ん中で、今夜だけは、わたくしも杯を干す。




