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悪役令嬢は盤上の駒を動かさない——軍師が隣にいるので  作者: 夜凪 蒼


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第31話「味方の条件」

使者を通じて、と書かれていた「詳細」は、使者では来なかった。


 本人が、来た。


 フリードリヒ・ド・ケーニヒ。クロイツブルク王国第一王子。供回りはわずか騎士6名、旅装は地味な灰色——お忍びの体裁で、王都から7日かけて。先触れの早馬が着いたのは、本人到着のわずか半日前だった。


「狙いは2つですわ」


 迎える支度の間、わたくしはディルクに早口で告げた。


「1つ、こちらに準備の時間を与えないこと。繕う暇のない素の辺境を見るため。2つ——自分の目で、わたくしを検分するためですわ」


「会うのか。あなたが直接」


「会いますわ。隠れる段階は、もう過ぎましたもの」


 半日の砦は、上を下への騒ぎになった。


 クラウスは10年着ていない礼装を引っ張り出させ、袖が上がらないことが判明して、結局いつもの軍装に勲章だけを提げている。厨房は王族に出せる皿の在庫で蒼白になり、リーゼが「猪肉は王都では珍味です。堂々とお出しなさい」と一喝して鎮めた。彼女自身は王子到着までの3時間で、客間の動線と給仕の口止めと護衛騎士6名の食事の手配を終えていた。


「リーゼ。あなた、王族の接遇の経験が?」


「ございません。ですが、要求水準の高い客への接遇は、商家の基本です」


 王子を「要求水準の高い客」に分類する豪胆さに、わたくしは敬意を表した。


 そして、応接間。


 フリードリヒ・ド・ケーニヒは、出された紅茶を一口も飲まなかった。


 重厚な樫の机を挟んで、わたくしと王子が向かい合っている。護衛の騎士は廊下に残し、部屋にはふたりきり。ディルクには別室で待ってもらった。「王子の前に平民を座らせるな」と、先触れの段階で釘を刺されていたからだ。その釘の刺し方ひとつで、この人の世界の見え方が分かる。


「それで、ストラテーガ嬢。話とは」


 声は冷たい。当然だろう。自分が断罪した女と、卓を挟んでいる。断罪した側にとって、これは屈辱の構図だ。


「単刀直入に申し上げますわ。一時休戦を」


 フリードリヒの眉が、微かに動いた。それだけ。表情を制御する技術は、さすがに王族というべきか。


「休戦? 何と、何の」


「殿下とわたくしの——いえ。殿下と辺境の、冷たい戦のですわ」


 机に、1枚の地図を広げる。国境沿いに赤い印が12。イグナーツの兵が集まる地点を、リーゼが3日がかりで整理した図だ。インクの匂いが、まだ微かに残っている。


「ヴァルハイム軍の集結は、殿下もご存じのはず」


「ああ。知っている」


「あちらは3000あまり。こちらは予備役までかき集めて1500——うち実戦に耐える練度の兵で数えれば、差は3倍を超えますわ。辺境の防衛力だけでは、正面からの侵攻に耐えられません」


 フリードリヒは地図を見下ろしながら、指先で机を叩いた。規則的なリズム。苛立ちか、思考か。


「だから王家に泣きつく、と?」


「いいえ。取引を持ちかけに参りましたの」


 2枚目の紙を差し出す。ヴァルハイムの穀物輸入量、鉄鉱石の産出、冬季備蓄の見込み、そして西街道の封鎖。この半年で組み上げた、経済分析の総体だ。


「ヴァルハイムの兵站は、雨季入りまでしか持ちません。およそ6週間。雨季が来ればラーデン河の渡河点が死に、補給線は1本になる。逆に申し上げれば——この6週間を凌げば、イグナーツは退くしかありませんの」


 フリードリヒの目が、数字を追う。この人は愚かではない。数字の意味するところを、説明の倍の速さで読んでいく。


「6週間を凌ぐ援軍が欲しい、と」


「援軍ではなく、牽制ですわ。王都から北方面へ軍を動かす『素振り』だけで結構。実際に戦っていただく必要はありませんの。イグナーツの幕僚の地図に『王都軍・動向不明』の駒がひとつ載る——それだけで、彼の進軍計画は2週間重くなりますわ」


 沈黙。暖炉の薪が爆ぜる音だけが、部屋に満ちる。


 フリードリヒが椅子の背に身体を預け、腕を組んだ。


「見返りは」


「まず、ひとつ訂正を。殿下の密偵が持ち帰った辺境の兵力——5000という数字には、誤りがございますわ」


 フリードリヒの顔から、初めて余裕が消えた。


「実数は、1500ですの。5000という数字は、わたくしどもが流した誇張ですわ。ヴァルハイム向けの。それを殿下の密偵が拾って、そのまま王都へ持ち帰った」


「……自分の仕掛けを、自分で割るのか」


「ええ。殿下への手土産は、これがいちばん高くつきますもの」


 脅迫ではない。事実の共有——そして、計算ずくの誠実である。偽の数字の上に立つ協力は、数字が割れた日に崩れる。それなら最初から、本当の弱さを見せて結ぶほうが長持ちする。それに、こちらの種明かしをこちらの口から聞かせれば、「この女は王家には噓をつかない」という前例が1件、彼の帳面に記載される。


「加えて、もうひとつ。ヴァルハイムの侵攻が成功すれば、次の標的は王都ですわ。辺境が盾である限り、殿下の玉座は安泰。盾が割れれば——」


「分かっている」


 フリードリヒが遮った。その声には怒りではなく、苦みが混じっている。


 それから王子は、話の向きを変えた。検分の続きである。


「辺境では、平民に学問を授けているそうだな。軍師も平民だと聞く」


「ええ。辺境は人が足りませんの。才のある者を出自で弾く贅沢は、王都にしか許されない奢侈ですわ」


「思想の芽は、いずれ王権に向く」


「向くとすれば、芽のせいではなく、土のせいですわ。読み書きを覚えた民が最初に読むのは、思想書ではなく税の通知ですの。正しく取られているかを自分で確かめられる民は——むしろ、いちばん御しやすい民でしてよ。不正な代官にとって以外は」


 フリードリヒは数秒黙り、それ以上この話題を続けなかった。点は取れていないが、失点もしていない。この王子相手には、それで上々である。


 長い間があった。わたくしは口を開かない。交渉の最終局面でいちばん重要なのは、沈黙だ。相手が自分で結論に歩いて行き着くまで、待つ。


 フリードリヒが、ようやく紅茶に手を伸ばした。一口含み、眉をひそめる。すっかり冷めている。


「一時的だ。あくまで一時的な協力であって、同盟ではない」


「もちろんですわ。殿下と同盟を結ぶほど、わたくし、楽観主義者ではありませんもの」


 口元が、ほんの一瞬歪んだ。笑ったのか、不快だったのか、判別はつかない。


「ひとつ聞こう、ストラテーガ嬢」


 立ち上がりかけた王子が、座り直した。


「お前は、私を恨んでいるか」


 予想の半歩外から来た問いだった。検分の総仕上げ、というところか。


「恨みは、維持費の高い感情ですの。わたくし、費用対効果の悪い勘定は持たない主義ですわ。——それに」


「それに?」


「殿下に断罪されなければ、わたくしは辺境に来ておりませんもの。人生の貸借対照表は、まだ締まっておりませんのよ」


 フリードリヒは何も言わず、席を立った。扉に手をかけ、振り返らずに言う。


「お前を追放したのは、間違いだったかもしれない」


「あら。では、正解でしたわ」


 扉の前で、王子の背中が一瞬止まった。


「——追放されたおかげで、わたくしは殿下の役に立つ場所におりますの。摘んだ芽が、よその畑で実っただけですわ」


 足音が、廊下を遠ざかっていく。


 わたくしはようやく息を吐いて、冷めた紅茶を飲み干した。喉の奥に、渋みが残る。


 別室に戻ると、ディルクがチェス盤を前に待っていた。


 盤の上には、対局の跡があった。白も黒も、彼ひとりで進めた一人対局。待たされた1時間半の長さが、駒の散り方に出ている。「王子の前に平民を座らせるな」——あの釘の刺さった場所を、この盤は黙って教えていた。


「お待たせしましたわ。……その盤、白の旗色が悪くてよ」


「白は王子のつもりで指していた。願望が混ざった」


「あら。では検証のし直しですわね。本物の王子は、もう少し手強かったもの」


「どうだった」


「6週間分の牽制を得ましたわ。王都軍の『素振り』ひとつ」


「王子を信用するのか」


「いたしませんわ。利害が一致する間だけ、隣に立っていただくの。利害の一致は、信用より精密に設計できますもの」


 ディルクの灰色の目が、レンズの奥で細くなった。


「——あなたは時々、恐ろしいことを平然と言うな」


「あら。今日いちばん恐ろしかったのは、種明かしの瞬間ですわよ。膝が……いえ、これは記録から削除で」


 その夜、もうひとつ報せが届いた。フレーデンからの書状である。


『先般の件、評議会にて再協議の運びとなった。貴領のご都合を伺いたい』


 王子の旗が辺境に立ち寄った——その噂は、半日で南の商人の耳まで走ったらしい。勝ち馬の影が見えた瞬間の、見事な方向転換。ロートの野次が嘘のような、揉み手の文面だった。


「商人は冷たいのではなく、正確。……本当に、教科書通りに正確ですこと」


 味方の条件とは、結局のところ、こちらが勝ちそうに見えることだ。ならば、勝ちそうに見える絵を描き続けるまで。絵が現実に追い抜かれない速さで。


「ひとつだけ、確かめておきたい」


 駒を並べ直しながら、ディルクが言った。


「種明かしの判断——あれは、いつ決めた」


「殿下の指が、机を叩くのをやめた瞬間ですわ。数字を本気で読み始めた合図。本気で読む相手にだけ、本物の数字は通じますの。読まない相手に渡せば、ただの弱みですわ」


「……つまり、部屋に入った時点では決めていなかったのか」


「半々でしたわね」


「半々の賭けに、自分の首を載せたわけだ」


「あら。また値づけのお話?」


「またの話だ。当分、続ける」


 チェス盤の駒が、暖炉の光を受けて長い影を落としている。6週間。この猶予を、1日も無駄にはできない。

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