第30話「経済の刃」
ヴァルハイム国内の穀物価格が、跳ね上がった。
ハンスが持ち込んだ最新の市場報告を見て、わたくしは唇の端を噛んだ。苦い。朝の紅茶の渋みが、まだ口に残っている。
「ヴァルハイムの穀物価格、1週間で2割の上昇です。鉄鉱石の取引も停滞しております」
「ヴァイスが鉄の販路を切り替えた影響ですわね」
「それだけではございません。国境の様子を聞きつけた商人たちが、ヴァルハイム向けの取引を自主的に細らせ始めました。戦の匂いのする市場から、商人は黙って退きます。誰の指示でもなく」
誰の指示でもなく。そこが、報告のいちばん重い部分だった。
わたくしが設計したのは「遮断の準備を見せる」ところまで。けれど市場は、見せられた準備を本物の不安として織り込み、勝手に先へ走り出した。撒いた情報が手を離れて旅をするように——動かした経済も、手を離れて加速する。フレーデンの教訓の、経済版である。教訓の再履修にしては、教材の規模が大きすぎる。今度こそ、走り出したものの行く先まで設計に入れておくこと。
「想定より、早いですわ」
作戦室でディルクに報告し、地図の横に穀物価格の推移を並べた。右肩上がりの線が、刃物の切っ先のように伸びている。
「経済の圧力は効いている。問題は、これがイグナーツの行動にどう響くかだ」
ディルクが腕を組む。
「可能性は2つある。1つ、経済的圧力に屈して侵攻を断念する。これは楽観の筋だ」
「もう1つは」
「追い詰められて、むしろ急ぐ。いま動かなければ補給がさらに痩せるという焦り。経済的に行き詰まった国が、勝算の薄い戦争へ走った例は——歴史にいくらでもある」
前世の記憶が頷いていた。封鎖への恐怖が先制攻撃の引き金になった大国の例を、わたくしは論文で何本も読んでいる。経済制裁は両刃の剣。教科書の太字が、いままさに地図の上で光っている。
「それと、ハンス。ひとつ確認させて。穀物が2割上がって——向こうの国境の町では、誰が困っていますの」
「は。そりゃあ、まず日雇いと小作の連中で。パンの値が」
「……ですわよね」
経済の刃は、将軍の兵站を切る前に、市場のいちばん細い首から切っていく。ヴァルハイムの国境の町には、エルベン村の孫に薬を分けた薬師が住んでいる。あの町の日雇いの食卓を、わたくしの設計した圧力が、いま細らせている。
知った上で、続ける。続けるけれど、知らないふりだけはしない。圧力の出口——交易の再開と関税の段階率を、和平の卓に最初から載せておくこと。刃を抜いた後の、止血の支度まで含めて1つの策だ。
「だからこそ、経済の刃だけに頼ってはいけませんの」
「他の柱との連動か」
「ええ。情報戦の確認を。ラウフェンバッハ卿への商業提案は」
「ハンスの報告では、3日前に卿の机へ届いた。返答はまだない」
「沈黙は否定ではありませんわ。検討中ということ。財務大臣の机の上で、開戦の値札と交易の値札が並んでいる——その状態を保てているだけで、十分仕事をしていますの」
そこへ、リーゼが封書を持って入ってきた。
「お嬢様。フリードリヒ王子からの返書です」
2通目の親書。封蝋を割ると、短い文面が現れた。
『辺境の防衛は王国の防衛なり。必要な支援を検討する。詳細は追って使者を通じ——』
「支援を『検討』か」
ディルクが覗き込む。
「確約ではないな」
「確約は求めておりませんわ。この段階では、王家が支援の可能性を文書で示したこと自体が武器ですの。この書簡の存在が——中身ではなく、存在が——ヴァルハイム側に伝われば、『辺境は王都の後ろ盾を得つつある』という絵が立ちますわ」
「書簡を、武器として漏らすのか」
「漏らすのではなく、滲ませますの。ハンスの口から、酒場の声の大きさで」
午後、もうひとつの報せが来た。リーゼの月次の物価表だ。
「お嬢様。領内の塩の価格が、1割上がり始めています。ヴァルハイム経由の塩の入りが細った分です」
——刃は、こちらの手も切る。
「備蓄の塩を、相場より安く市に出してくださいまし。量は絞って、毎週決まった日に。『領は塩を持っている』と見せることが目的ですから、売り切る必要はありませんの」
「毎週の定例放出、と記録します。価格の上限も設定しますか」
「上限はつけません。市場と喧嘩はしないこと。なだめるだけ」
「なだめる、を記録の言葉にすると——『安定供給の意思表示』でしょうか」
「ええ、それで。リーゼ、あなたの翻訳は今日も正確ですわ」
市場は、命令を聞かない。聞くのは、態度だけだ。前世の市場も今世の市場も、その1点だけは完全に同じである。
経済の戦線は、国境の外だけにあるのではない。台所の塩壺の中にもある。そちらの戦線で負ければ、峠が無事でも領民の信は痩せていく。
ちなみにこの塩の件、最初の報せは峠のヨハン経由だった。婚約者のマルタのパン屋で、塩の仕入れ値が上がって「固いパンがさらに固くなる」と本人が憤慨していたという。投げると痛いパンが、より痛くなる。国際情勢の末端は、いつだってパン屋の竈にある。
「リーゼ。マルタさんのお店のような小さな竈にも、定例放出の塩が届く形に。卸の大口だけに流すと、結局は買い占めた者の蔵が太るだけですから」
「各村の市で、1世帯あたりの上限を設けて直売します。帳面は村長に」
「それでいきましょう」
夕刻、クラウスが入ってきた。珍しく、表情が硬い。
「お嬢。報告が2つある」
「1つ目は」
「エルスト砦の偵察が、ヴァルハイム軍の動きを確認した。集結地から一部の部隊が後退しとる」
「後退?」
「500ほどが撤収を始めた。行く先は不明だ」
500の撤退。意味を考える。兵力の縮小か、それとも——配置の転換か。
「2つ目の報告は」
クラウスの表情が、さらに固くなった。
「タール辺境伯領から急使だ。タール側の国境にも、ヴァルハイム軍の動きがある。数は不明だが——」
「500」
声が出ていた。
「エルストから消えた500が、タールの正面に現れた」
ディルクが地図を叩いた。
「二正面の圧力だ。イグナーツは、こちらの連帯の網を揺さぶりに来た。タールが恐怖で網から離れれば、西の一角が崩れる」
地図の赤い印が、横に広がっていく。敵もまた、盤の全体を見ている。経済で絞められた分を、政治の手で解きに来た。
「——経済の刃は、効いているのですわ。効いているからこそ、イグナーツは焦って、刃の届かない場所へ手を伸ばし始めた」
「対応は」
「タールへ、すぐに使者を。分断はヴァルハイムの思う壺。逆に、この圧力を口実に、タールとの連帯を一気に形にしますわ。あの老練な日和見にとって、いままさに『風向きが見えた』瞬間ですもの——自分の正面に敵兵が立った以上、日和る先は、もうこちら側しかありませんわ」
「タールが受けるか」
「受けやすい形で差し出しますの。脅されて靡いたのではなく、『友誼に応えた』形に。老練な方の面子は、中身と同じだけ大切ですもの。それに——」
クラウスが、鼻を鳴らした。
「タールのオットーは古い友人だ。わしから手紙を書く。『一緒に飲もう。ついでに戦略の話もしよう』——これでいいか」
「完璧ですわ、クラウス。その手紙に、わたくしの経済分析の資料を同封させてくださいまし」
「お嬢の堅い資料と、わしの飲みの誘い。硬軟両方か。いいぞ」
「資料の中身は、3枚にまとめますわ。1枚目、タール正面に現れた500の正体と意図——分断が目的で、本気の侵攻ではないこと。2枚目、辺境とタールが組んだ場合の防衛線の地図。1枚目で安心していただいて、2枚目で得を見せる。そして3枚目——」
「3枚目は」
「白紙ですの。『貴領のご懸念を、ここにお書きくださいまし』と添えて。老練な方ほど、出来合いの答えより、自分の懸念を聞かれることを好みますもの」
クラウスが髭の奥で、にやりと笑った。
「白紙が一番効く相手か。オットーの爺さん、確かにそういう男だわい」
「ご友人歴は、どれくらいですの」
「30年。半分は喧嘩しとった」
「では、残り半分の貸し借りで十分ですわ」
クラウスが出ていったあと、作戦室に沈黙が降りた。
穀物価格の線を見つめる。右肩上がりの、綺麗で嫌な線。
「ベアトリーチェ」
ディルクの声。
「経済は効いている。情報も動いている。外交も進んでいる。だが——」
「何ですの」
「すべてが、うまくいきすぎている。そう感じないか」
感じている。前世からの経験則が、ずっと低く唸っている。戦略が順調に見えるときほど、見えていない変数がある。
「イグナーツは愚かではありませんわ。こちらの手を見て、対策を打ってきている。タールへの圧力が、その最初の一手。次が何か——」
「読めるか」
「まだ。けれど、読み切る前に動かなければなりませんの。後手に回れば、読めたときには遅い」
窓の外で風が唸り、城壁の旗が激しくはためいた。旗の音は、風の強さの報告書だ。今夜の報告書は、ばたばたと忙しない。
ディルクが席を立ち、外套を取って城壁へ向かう。彼が城壁に立つのは、戦場の匂いを確かめたいときだ。
わたくしは机に残った。穀物の線、地図、2通の書簡。紙の上の戦場。
経済の刃は鋭い。けれど刃は、握る者の手も切る。塩壺の中でも、すでに切れ始めている。
このまま絞め続ければ、イグナーツは暴発するかもしれない。緩めれば、立て直す時間を与える。ちょうどいい圧力——その一点を探り当てることが、この戦略のいちばん難しい部分だ。
線の先端を、指でなぞる。紙のざらつきが指先に引っかかった。
間違えないために、今夜もうひとつだけ手を打っておく。ルイーゼへの書状だ。穀物高騰で苦しむ国境の町への、人道目的の食糧融通の用意がある——と。和平の卓が開いたとき、この1通が「辺境は敵国の民の腹まで数えていた」という札になる。
刃と、止血と、次の和平の種。3つ同時に持って、次の一手を指す。間違えるわけには、いかない。




