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悪役令嬢は盤上の駒を動かさない——軍師が隣にいるので  作者: 夜凪 蒼


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第25話「静かすぎる国境」

その日は、何も起きなかった。


 朝、作戦室に行くと、机の上に報告書がなかった。リーゼに聞くと「本日は特に異常ありません」との返答。国境からの急報もなく、王都からの書簡もなく、領内の揉め事すら届いていない。


「——静かですわね」


 窓を開けた。辺境にしては珍しく、風が凪いでいる。空は高く晴れて、雲ひとつない。普段は霞んでいる遠くの峰まで、今日に限って稜線がくっきり見えた。


 嫌な予感がする。


 辺境に来て以来、こんなに静かな日はなかった。常に何かが動いていた。国境の煙、王都の圧力、領内の改革、フレーデンの失敗の後始末。問題はいつも重なり合い、ひとつ片づけば次が顔を出した。


 それが今日は、何もない。


 ディルクは朝から城壁の巡回。クラウスは訓練場。リーゼは帳簿の整理。全員が通常の業務をこなしていて、異常はない。


 異常がないことが、異常に感じる。


 この感覚に、前世では名前をつけていた。「指標の沈黙」。観測している数字が全部正常のとき、疑うべきは世界の平穏ではなく、観測の網のほうだ。網にかからない場所で、何かが動いている。


 午前中は溜まった机仕事を片づけた。教室の運営記録。東の町との交易の帳簿。フリードリヒへの返書の写しの読み返し。フレーデン再交渉の作戦メモ——これだけは、まだ白紙に近い。信用の修繕は、数字の修繕より工期が読めない。


「お嬢様。お茶をお持ちしました」


 リーゼがカップを置いた。湯気から、林檎の甘い香り。辺境特産の林檎茶は、最近の密かな楽しみである。


「ありがとう、リーゼ。——あなた、今日、何か違和感はなくて?」


「いいえ、特には。穏やかな一日かと」


 穏やかな一日。そう、穏やかだ。平和で、静かで、何も起きない。前世の早乙女律なら「ありがたい」と思っただろう。けれど、いまのわたくしは——。


 念のため、リーゼと「静かな日の点検表」を作った。砦の食糧備蓄——21日分、確認。水源——異常なし。東の道——荷馬車の通行可、確認。エルベンとフェルデンの避難手順——村長へ通達済み、ただし訓練は未実施。


「リーゼ。避難の訓練、近いうちに一度やりましょう。収穫前の、人手の空く日に」


「『戦の支度』と呼ぶと村が怯えます。名目はどうしますか」


「……『火事の備え』で。山火事は実際にあり得ますもの」


「承知しました。火事の備え、と記録します」


 リーゼの帳面に、嘘ではないが全部でもない名目がひとつ増えた。こういう小さな言い換えの在庫が、有事の混乱を1割減らす。減らせるはずだと、信じて積むしかない。


 カップを置いて、城壁に向かった。


 石段を登ると、見張り台に兵がひとり。いつも通りの配置。わたくしを見て敬礼する。


「異常は」


「ありません。国境方面、煙なし。街道の往来、通常通りです」


 煙が、ない。


 ここ数週間ずっと見えていた国境の煙が、消えている。


 胸の奥で何かが引っかかった。煙は炊事と作業の証——人の活動の痕跡だ。それが消えたということは、活動が止まったか、見えない場所へ移ったか。


 そして思い出す。自分で言ったことだ。夕方の煙が元の長さに戻った日が、設営完了の日。——では、煙そのものが消えるのは? 完了の、その先ではないのか。


「最後に煙を見たのは」


「一昨日の夕方です。いつもより、長く続いておりました」


 見張りの青年は、問われる前に記録の紙を差し出した。日付、時刻、長さ。煙の帳面は、もう兵たちの習慣になっている。数字を取る習慣は、一度根づけば道具のように残る。こんな朝には、その紙の厚みだけが頼もしい。


「記録、助かりますわ。続けてくださいまし。——消えたことも、毎日書いて。『なし』という記録は、『記録なし』とは別物ですから」


「はっ。『なし』と書きます」


「ディルクはいまどちらに」


「東の城壁を巡回中かと」


 足早に城壁の上を歩いた。風がないせいで旗が垂れ、布の端が石壁に触れて、かさりと乾いた音を立てる。


 東の城壁で、ディルクを見つけた。遠眼鏡を覗いている。


「煙が、消えていますわね」


 声をかけても、彼は遠眼鏡から目を離さなかった。


「昨日の夕方からだ」


「報告してくださいませんでしたのね」


「報告するほどの情報ではない。煙が消える理由は複数ある。演習の終了、天候、燃料の切れ——」


「でも、あなたも気にしていらっしゃる。だから城壁にいる」


 ディルクがようやく遠眼鏡を下ろした。灰色の目が、国境の方角を見ている。


「——ああ。気になっている」


 ふたりで城壁の縁に並んだ。眼下に辺境の平野が広がる。畑、牧草地、点在する集落。その向こうに山脈。山脈の向こうが、ヴァルハイム。


「静かすぎるのは嵐の前触れだと、前世の——いえ、昔読んだ本に書いてありましたわ」


「兵法書にも同じことが書いてある。敵が動かないのは、動けないからか、動く支度をしているからだ。どちらかしかない」


「3つ目の可能性に、賭けたいところですけれどね。——こちらの仕掛けが効いて、向こうの会議室が止まっている、という可能性に」


「賭けるのは構わない。賭け金を全部載せなければな」


「ええ。希望は持つもので、依存するものではありませんわ」


 風のない午後の城壁で、わたくしたちはしばらく黙って国境の方角を見ていた。煙のない空は綺麗で、綺麗であることが、こんなに信用ならない日もない。


「商人筋の情報は、どうなっていますの」


 ディルクが遠眼鏡を腰に戻しながら答えた。


「今朝確認した。ヴァルハイム側の国境の町は、先週から外への物資の売却を止めている。買うだけ買って、出さなくなった」


「……備蓄、ですわね」


 胃の底が冷えた。さっきの林檎茶の温かみが、嘘のように遠い。


「軍の備蓄なら、動員の準備ですわ」


「断言はできない。冬に備えた民間の蓄えかもしれん」


「冬はまだ先ですわ」


「……そうだな」


 風が出てきた。凪いでいた空気が、山のほうから流れ始める。旗が小さく揺れた。


「ディルク。今日中にできることを数えましょう。情報網の点検。国境の監視の強化。砦の備蓄の確認。東の道の避難経路の最終確認」


「すでに手配してある。今朝から」


 振り返って、彼を見た。報告するほどの情報ではない、と言いながら、この人は朝から全部動かしていたのだ。


「……あなたも、同じことを考えていらしたのね」


「軍師は最悪を想定する。それが仕事だ」


「わたくしは最善を設計しますけれど、あなたは最悪に備える。——相補的ですわね」


「補い合っている、とも言える」


 その言い方に、戦略以外の意味が混ざっている気がした。けれど追及はしなかった。いまは、それどころではない。それどころではないという判定を、保留箱がまたひとつ太ったとも言う。


 城壁を降りて、作戦室に戻った。机のチェス盤が目に入る。先日の途中の局面が、そのまま残されている。


「チェスを」


「いま、ですの?」


「頭を整理するのに、いちばんいい方法だ」


 駒に手を伸ばす。白のビショップ。楓の表面が、指先に冷たく滑らかだった。


 数手を進める間に、ディルクが口を開いた。


「あなたの番だ。何を考えている」


「兵站の算数を。3000の兵が1日に食べる量、運ぶ荷駄の数、集積地の容量。煙の記録から逆算した作業量と突き合わせると——集積は、おそらく完了か、完了寸前ですわ」


「俺の計算でも、そうなる」


「別々に計算して同じ答えなら、答えはたぶん正しい。……正しくあってほしくない答えに限って、検算が通りますのね」


 ポーンが進み、ナイトが受ける。盤の上の小さな攻防が、思考の歯車を回し続けてくれる。


「仮に——仮の話だが。イグナーツが本格的に動くとして、目的は何だと思う」


「領土。名声。あるいは国内の不満を外へ逃がすための戦争。古典的な理由の在庫から、好きなものを。……ひとつ、気になるのは時機ですわ」


「タイミングか」


「ええ。和平交渉は進んでいる。外務省の線は本物。なのに軍が支度を続けているなら——イグナーツが狙うのは、交渉が壊れる瞬間か、壊せる瞬間ですわ。そしてその瞬間は、辺境が王都と揉めているときにいちばん作りやすい」


「北と南は、連動するか」


「連動させたがる者が、北にいますの」


 盤面を見下ろす。静かな局面。互いの駒が中盤の配置を整え終えて、まだ、衝突だけが始まっていない。チェスにはこういう一手がある。何も起きていないように見えて、実は次の10手の全部を決めてしまう、静かな一手が。


「嵐の前の静寂、か」


 ディルクが呟いた。


 窓の外で風が強まっている。旗がばたばたと鳴り始めた。晴れていた空の端に、暗い雲。


 寝る前に、リーゼが部屋の前まで来た。


「お嬢様。明日の朝食、何になさいますか」


「……今日のあなたが、それだけを聞きに来るはずがないでしょう」


「はい。厨房の備蓄を点検したついでに、籠城した場合の献立表を21日分作りました。承認のお印を」


 受け取った紙には、初日から21日目までの献立が、栄養の偏りまで考慮して組まれていた。最後の頁の余白に、小さな字でこうある。『22日目以降は作成していません。22日目が来ない計画を、お願いします』。


「……承認しますわ。22日目は、来させません」


「おやすみなさいませ」


 完璧な秘書の、完璧な激励だった。


 穏やかな一日が、終わろうとしている。


 そして翌朝——国境から早馬が駆け込んでくることを、このときのわたくしは、まだ知らない。

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