16.合間の休憩
「また来ますね」
「はい、ぜひ。またのお越しをお待ちしております」
カラン、と扉の鈴が鳴り、笑顔のお客さんが外へと去っていった。
その背を見送ると、ようやく大きく息を吸い込み、ふぅと吐き出す。胸の奥に溜まっていた緊張が、少しずつほどけていく。
改めて店内に目をやる。
ついさっきまで満席で、話し声や笑い声が溢れていた場所は、今やしんと静まり返っていた。賑やかな余韻だけが、まだ空気のどこかに残っているよう。まるで波が引いた後の浜辺のように、ぽっかりと空虚な静けさが広がっている。
並んだ椅子はきちんと元の位置に戻っているのに、誰も座っていないのが不思議なくらいだ。テーブルに残された水の輪染みや、まだ微かに漂うコーヒーの香りが、さっきまでの熱気を確かに物語っている。
ひと息つきながら、その静けさを味わう。
騒がしさに包まれているときは気づかないが、客の去った後の静寂は、どこかしら温かい。頑張った一日のご褒美のようにも感じられた。
私はトレーと布巾を手に、カウンターを出た。残された食器を集め、テーブルを一つひとつ拭いていく。
何度か繰り返すうちに、賑わいを取り戻していた店内は、すっかり開店前の静けさを思わせる姿に戻っていた。
カウンターへ戻ると、今度は食器の片づけ。洗浄の魔法を発動させると、ぱっと汚れが消えて、つややかな輝きを取り戻す。まだ慣れない魔法だから緊張したけれど、こうして成果が目に見えると少し嬉しい。綺麗になった食器を棚に戻していると――。
「ようやく、客が引いたな」
不意に声がして振り返ると、ハイドがカウンターに体を投げ出していた。
「まさか俺の居場所がなくなるくらい客が来るとはな。いつもはせいぜい七割くらいだったろ」
「じゃあ、今日はいつも以上に来てくれたってこと?」
「ああ。星見亭の再開を楽しみにしてたってことだろうな」
思わず胸の奥が温かくなる。新しい星見亭を、こんなにも多くの人が待っていてくれたんだ。
「まぁ……滑り出しは上々だな。正直、俺はほどほどに暇な方が性に合ってるんだが」
そう言いながらも、ハイドのふさふさのしっぽがゆらりと揺れる。
「ふふっ、何それ。全然隠せてないよ」
「……これは、言葉の綾というやつだ」
「しっぽが返事してるのに?」
「……聞かなかったことにしてくれ」
「はいはい」
照れ隠しにしっぽを慌てて丸める姿が可笑しくて、つい笑い声が漏れた。
ハイドとのやり取りで気が緩んだのか、ふいにお腹がぐぅと鳴った。思えば、朝から何も口にしていない。今頃になって、どっと空腹が押し寄せてくる。
「お客さんも帰ったし……そろそろ遅めの朝食にしようかな」
「それはいいな! で、何を作るんだ?」
「残ってるミックスサンドと……あと、チョコパンを作ろうと思ってるの」
「ミックスサンドは分かるが……チョコパン? チョコって、あの甘くてとろけるやつだろ」
「そうそう。パンにチョコシロップを挟むだけの、簡単な軽食だよ」
口にしただけで、ほのかに甘い香りが鼻先をかすめる気がして、自然と笑みがこぼれる。
「それ、俺は食べたことがないな。……よし、俺にも食わせろ!」
「ふふ、分かったよ。ハイドの分も作るね。でも……猫なのにチョコ食べても平気なの?」
「誰が猫だ! 俺は精霊のケットシーだぞ。猫と一緒にするな!」
「はいはい。ケットシー様、ですね」
からかうように言うと、ハイドはむすっとした顔をしながらも、しっぽの先をちょこんと揺らしていた。
私は保管庫から材料を取り出し、まな板の隣に並べる。パンの上に具材をきれいに置き、もう一枚のパンで挟み込む。それを斜めに切れば、色鮮やかな断面が顔を覗かせた。ミックスサンドの完成だ。
次に取り掛かるのはチョコパン。まな板に置いたパンへ、容器に入ったチョコシロップをとろりと垂らす。濃い琥珀のような色がつややかに光り、甘い香りがふわりと広がった。
その時、素早く伸びてきた影――ハイドの手だ。
「あ、こら!」
「どれどれ……むっ!? な、なんだこれは……甘い! とろける! 美味いっ!」
舌の上に広がる未知の味に、ハイドは本気で目を丸くした。そして抑えきれないとばかりに、カウンターの上でごろごろと転がる。
「もう……」
思わず苦笑しながらも、私も頷いてしまう。
「でもね、分かるよ。これ、私も大好きなんだ」
「やっぱりな……! 日本って国には、まだ俺の知らない美味しいものが山ほどあるんだろうな。……いいか、これからもどんどん取り入れろ!」
しっぽをぴんと立てて上機嫌な様子に、私は心の中で小さく笑った。うん、日本の味、これからも持ち込んであげよう。
バターナイフでチョコシロップをパンに塗り広げ、仕上げに砕いたナッツをぱらぱらと散らす。それをふんわりと挟み込めば、チョコパンの完成だ。
「はい、どうぞ」
切り分けて皿に盛り、ハイドの前へ置くと、その瞳が期待にきらめく。そして豪快にかぶりついた。
「んっ……! な、なんだこれ! ただ挟んだだけなのに、シロップの甘さとパンのふわふわが合わさって……うまいっ! ナッツの歯ざわりも最高だ!」
「気に入ってくれたみたいで良かった」
コーヒーを淹れながら、嬉しそうに頬を膨らませているハイドを眺める。しっぽはブンブンと振られ、甘い幸せを全身で表現していた。
「じゃあ、私も……いただきます」
手を合わせ、まずはミックスサンドをひと口。その瞬間、胸の奥がきゅっと熱くなる。
昔、おばあちゃんが作ってくれたあの味だ。懐かしくて、安心するようで、自然と頬が緩んだ。
続いてコーヒーを口に含む。香ばしさとほろ苦さが舌に広がり、思わず目を閉じる。おばあちゃんの家でいつも飲んでいた味と、寸分違わない。自分の手で、あの味を再現できたことに、胸の奥からじんわりとした感動が込み上げてきた。
そして、何よりも――この時間。胸の奥からじんわりと力が抜けて、心が安らいでいく。ゆったりとミックスサンドを頬張り、コーヒーを味わう。社畜として慌ただしく過ごしていた頃には想像もできなかった、贅沢で穏やかなひとときがここにはあった。
「さて……〆はチョコパンだね」
最後に残しておいたチョコパンを手に取る。期待を込めて口に運ぶと、甘いチョコが舌の上でとろけ、パンの柔らかさとナッツの香ばしさが絶妙に重なり合った。
「ん……やっぱり、美味しい」
思わず両手で頬を包み、幸せを噛みしめる。簡単なのに、こんなにも美味しくて、心を満たしてくれる。やっぱり、チョコパンは特別だ。
ふと横を見ると、ハイドもまた夢中でチョコパンを頬張っていた。しっぽをブンブンと揺らし、時折「むふーっ」と鼻を鳴らしている。その姿が可笑しくて、つい笑ってしまう。
「そんなに気に入った?」
「当たり前だ! この甘さは反則だぞ……! パンに挟んだだけでこんなに美味くなるとは……日本、恐るべし!」
真剣な顔で唸りながらも、しっぽは嬉しさを隠しきれず揺れ続けていた。
静かな店内に漂うコーヒーの香り。甘いチョコパンの味わい。そして、隣でしっぽを振る仲間の存在。
ただそれだけで、胸がいっぱいになるほど幸せな時間だった。




