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亀裂

 二回戦を突破した関西国際女子のメンバーは三回戦に備えて練習に取り組んでいた。

 先日に引き続きその様子を眺める、気にかかるのは伊良波さんの状態だ。

 以前うちと試合をした時もあまり制球が安定してる投手ではなかった。

 しかし、二回戦の時の投球はそれとは比較にならないほどの酷い内容だった。

 三回で四死球が九個、投球が成立しないレベルの制球難だ。

 俺たちとの試合で結果を出せなかったショックからまだ立ち直れていないのか。

 次の試合のことも考えて恐らく今日はノースローでの練習となるだろう。


 ウォーミングアップを終えた伊良波さんに浅野さんが声をかけるのが見えた。

「伊良波さん、監督がロードワークに行くようにと……」

「……わかりました」

「私もお付き合いしますから、一緒に行きましょう」

 浅野さんが同行すると聞いて伊良波さんが顔をしかめる。

「一人で大丈夫ですよ」

「いえ、監督からついていくように言われているので」

 監督からの要請で、しかも一年先輩の浅野さんの言葉であれば逆らえないだろう。

 渋々といった様子で伊良波さんが浅野さんと一緒にロードワークに出て行った。

 あの様子だと伊良波さんは走りこむのが嫌いなようだな。

 もっともそれが好きな選手というのも珍しいだろうが、必要な練習なのは事実だ。

 伊良波さんの制球難は下半身が安定しないからだと監督も考えているのだろう。

 既に大会が始まってしまった今になってやっても手遅れかもしれないが、そうかといって何もしないわけにもいかない。

 走り込みは肩を休めながら出来る練習ではあるし、合理的ではある。


「……伊良波さんは、多分途中でサボって帰ってくるだろうな」

 愛里が残念そうにそう呟いた。

「確かになんとなく嫌そうな顔はしてたけど……サボるかな?」

 監督からの練習指示である、それに逆らうのはなかなか覚悟のいることだ。

「……もともと基礎練習が好きなタイプじゃないし、今は思い通りの投球が出来なくてモチベーションが下がってる状態だろうからね。その可能性は高いと思う」

 その言葉から十分ほど経った後、浅野さんが伊良波さんを連れて戻ってきた。

 あまりにも早い帰還、練習を途中で切り上げてきたのは明白だった。

「……どうしたんですか? ロードワークに出た割には早いお帰りですけど」

「伊良波さんが体調を崩したそうなので戻って来ました、無理はさせられないですし」

 愛里が二人に話しかけると浅野さんがそれに答える、隣の伊良波さんは無言だ。

「……伊良波さん、大丈夫? 大事な大会中なのに体調を崩すなんて」

「別に……少し休めばどうにでもなりますよこんなの」

 鬱陶しそうにそう返事をする伊良波さん、あまり体調が悪そうな感じには見えない。

 どうやら愛里の予想が当たってしまったようだ。


「伊良波さん、良かったらこれ使って」

 浅野さんが濡らしたタオルを持ってきて伊良波さんに差し出す、気が利く娘だ。

「……どうも」

 伊良波さんはそれを受け取り、上を向きつつ表情を隠すように顔に被せてしまった。

「……伊良波さん、浅野さんに申し訳ないと思わないですか?」

 その言葉に伊良波さんが肩を震わせて反応するも、返事はない。

「そんな、体調不良は誰にでもあるし仕方の無いことなんだから責めないでほしいな」

 健気に伊良波さんを庇う浅野さん、それを見て愛里は一つため息を付いた。

「浅野さんは本気であなたを心配してるみたいですね……仮病なのに」

 それを聞いて浅野さんが驚いた表情を見せる、そんなことは考えもしなかったといった様子だ。

「仮病だなんてそんなわけないでしょう、そうだよね伊良波さん?」

 本人が体調が悪いと言い張れば、周囲はそれを完全に否定することは出来ない。

 実際のところは本人にしか分からないのだから、どんなに怪しくても黒に近いグレーにしかならない。

 だからその気になれば伊良波さんも誤魔化せたはずだ。

「……仮病ですよ、私の体は健康そのものです」

 それでも純粋に自分を心配する浅野さんの姿に良心の呵責を感じたのか、伊良波さんはそれをしなかった。


「……そうだと思ったよ、そういう気分じゃないのは分かるけど今のあなたには」

「愛里さん、ここは私に任せてくれませんか」

 伊良波さんを説得しようとする愛里の言葉を浅野さんが遮った。

 意外だった、彼女はいつでも他人を優先して自分を抑えこむタイプだと感じていた。

 だから、誰かの話している最中にそれを遮るなんてことはしないと思っていた。

「……浅野さん、伊良波さんを大切に思うならこれは許してはいけないことです」

「愛里、ここは浅野さんに任せよう」

 そういって俺が愛里を制する、愛里は俺の方をみてしばらくしてから頷いた。

 浅野さんなら上手く取りまとめてくれる、そんな予感が俺の中にあった。

「愛里さんは、伊良波さんのことを真剣に考えてくれてるんですね」

「……それは否定しません。伊良波さんはもっとやれるはずだと思ってますから」

「伊良波さんほどの素質があれば、こうして色々と気にかけてもらえるんですね」

 浅野さんが羨望の眼差しで伊良波さんを見る。

「……迷惑なだけですよ、私がどうなろうが私の勝手です」

 タオルでその表情を隠したまま、伊良波さんがそう吐き捨てた。


「それがどれだけ恵まれてることなのか伊良波さんにはまだ分からないんでしょうね。比べるのも失礼ですけど、常に日陰者の私からしたら羨ましい限りです」

「これだけの素質を持ち大投手になれる可能性を秘めながら、それを無駄にしようとしてるのはもったいないですよ」

「……過大評価です、私は、そんな投手じゃない」

 伊良波さんの頬に雫が伝う、汗はとっくに引いているはずだ。

「最初はもっと活躍出来ると思っていました、それがこんなことになるなんて……」

 しばらくの間静寂が俺たちを包んだ、誰もが言葉を失っていた。

 大きな期待を背負っての入学、それに答えられず伊良波さんが苦しんでいる。

 そんな簡単なことすら、俺達は真に理解できていなかった。

「ごめんなさい伊良波さん、私はあなたの苦しさも知らずに偉そうなことを……」

「……私のことはもう放っておいて下さい、時間の無駄ですよこんなのは」

 そう絞りだす伊良波さんの手を浅野さんが軽く握った。

「……それは出来ないよ、このチームを救えるのは伊良波さんしかいないから」

「やめてくださいよ……私はそんな大した投手じゃないって言ってるじゃないですか」


 浅野さんが伊良波さんの右手を何度も優しく撫でる。

 まるで母親が子供をあやしているかのようだ。 

「違う、伊良波さんは本当にすごい存在なんだから。私のこの言葉が余計あなたに負担をかけるのかもしれないけれど、それでもやっぱり嘘はつけないから」

「……浅野、先輩」

 空いた左手で伊良波さんがタオルを抑える、もう言葉を発する余裕はない。

 そうしてしばらくしてから、伊良波さんが立ち上がった。

「もう一度、走り直してきます」

 その言葉を聞いて浅野さんが微笑む。

「私も一緒に行ってもいいかな?」

「ええ、お手柔らかにお願いします」

「よかった……お二人とも、また後で」

 浅野さんがそう俺達に挨拶と一礼をしてから二人でロードワークに繰り出す。


「……私は浅野さんの当て馬になってたね」

 愛里がそう苦笑する、しかし当然ながらこの結果を悪く思っている様子はない。

「口うるさく言うだけじゃ逆効果のこともあるってことだ、キャッチャーとして一つ勉強になったな」

「……どうせ私は未熟者ですからね」

 そう言って拗ねる愛里の頭に手を置いて軽く撫でてやる。

「でも、愛里の気持ちは伊良波さんに伝わったと思うよ」

 これで少しでも伊良波さんの心理状態が安定すればいいなとそう思った。


 神代さんが打撃練習を行なっている、打撃投手は詳しく知らない控え選手。

 コントロールがバラつき、ストライクが入らないこともしばしばといった様子。

 神代さんも打ちづらそうにしている、これでは練習効率は上がらないだろう。

 そんな中、浅野さんが伊良波さんを連れてロードワークから帰ってきた。

 息を切らしながらスポーツドリンクを口にしている、大分走ってきたようだ。

「浅野さん」

 それを目ざとく見つけた神代さんがすぐに声をかける。

「打撃投手、お願いできるかしら?」

 さすがにその発言は見逃せなかった、側で聞いていただけの俺が思わず口を挟む。

「浅野さんは今走ってきたばっかりだし、少し休ませてあげないと」

「安島さん、私は浅野さんにお願いしてるんですよ」

 丁寧ながらその口調からは有無を言わせぬ強いものが感じられる。


「大丈夫ですよ、すぐに投げますから」

 そう言って浅野さんがグラブを手に持つが全身から漂う疲労感は隠し切れない。 

「よかったわ、あなたじゃないと練習にならないのよ。それじゃお願いね」

 そう言ってあっさりと打席に向かっていく神代さん。

「浅野さん無理したらダメだ、今からでも断ったほうがいい」

 そう忠告するも浅野さんはいつもの柔らかい笑みを見せるのみだ。

「お気遣いありがとうございます、安島さんのお気持ちはとても嬉しいです。けれども私は投げますよ、こんな私を神代さんが必要としてくれてるんですから」

 早くも息の乱れは収まりつつあった、持ち前のスタミナがあればこそだろうか。

 浅野さんがマウンドに上がり、神代さんに向かって投球を繰り返す。


 相変わらずの見事なコントロール、先ほどの打撃投手とは雲泥の差だった。

 しかし俺は未だに彼女の状態が心配だった、無理をしてるのは確実だと感じていた。

 そのまま四十球程を投げた時、浅野さんが顔を抑えて膝を付いた。

 思わず駆け寄ろうとしたが、すぐに立ち上がり投球を再開してしまう。

 明らかに何らかの異常があったのにも関わらず、強引にそれをねじ伏せ投げ続ける。

 その後の投球数は百球を超えて、ようやく打撃練習は終わりを告げた。

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