完全復活!
次の部活の日、俺は二つのあるものを用意していった。
「今日はこれを使ってみようと思う」
そのうちの一つを氷室さんに投げて渡す。
「これは……ゴムボール?」
硬球そっくりのゴムボールだ、一応縫い目もついていて本格的に似せられている。
「ああ、これならぶつけても大丈夫だから気軽に投げられるはずだ……あともう一つ」
小さな瓶を氷室さんに手渡した、こういったものを使ったことはなく選ぶのは手間だったが店員さんにも手伝ってもらいなんとか選んできた。
「なんですか、これ?」
「これはアロマオイルだよ、ハンカチに染み込ませて匂いを嗅ぐと精神的に落ち着けるんじゃないかと思ってね」
早速、氷室さんがアロマオイルを数滴ハンカチに垂らしてその匂いを嗅いでみる。
「あ……いい匂い」
「とりあえず思いついたのはこの二つだけだった、今日も樋浦さんに打席に立って貰ってから投げてもらう」
ゴムボールを手に氷室さんがマウンドに向かう。
これで少しは気が楽になってくれればいいのだけれども、上手くいくか心配だった。
結論からいうとこの作戦はそこそこの成功を収めた。
初球こそアウトコースに外れるボール球だったが、それからはストライクが入った。
ゴムボールとはいえ打者を立たせて冷静に投球できるようになったのは意味がある。
しかし所詮はゴムボールに過ぎないのもまた事実、あくまでこれは気休めだ。
試しに硬球に戻してみたところ、予想通りあっさりとその効果は失われてしまった。
やはり硬球とゴムボールでは精神的な面で全く違うものになるのだろう。
これで自信を取り戻して元通りにならないかと期待していたが、さすがにそこまでの効果は望み過ぎのようだった。
しばらくはゴムボールを使って体に元の感覚は馴染ませることにする。
それにハッキリとした効果があるのかは断言出来なかったが他に方法も思いつかなかった。
「よし、今日はここまでにしようか」
そういって練習を切り上げようとすると天城さんが近づいてきた。
「安島くん、ちょっと」
「なんだ?」
「いいもの見せてあげるから、まーちょっと構えててよ」
そう言ってマウンドに向かう天城さん、言われるがままに構える。
物珍しい光景に他の部員も集まって何が起こるかを見守っている。
セットポジションから天城さんがボールを投じた。
しっかりと真ん中にコントロールされたボールがミットに収まる。
納得いくボールが投げられたのか天城さんがマウンド上で笑みを浮かべる。
俺の返球を受けて再びモーションに入る。
次に投げられたボールはそこそこの変化を見せた、カーブだ。
ノーサインで投じられたため不意をつかれてしまうが何とかこぼさずに捕球する。
「どう? 私もなかなかの物でしょう?」
マウンドを降りてきた天城さんが得意げに胸を張る。
「いや、驚いたな……ピッチャーの経験があったのか?」
「全然、見よう見まねで昨日初めて投げてみただけだよ」
まだ二球みただけだが、それにしては素質があるように感じられた。
「もうちょっと投げてみてもらっていいか?」
「もちろん」
天城さんがマウンドに引き返し、再びボールを投じる。
スピードはそこそこ、コントロールも悪くないしカーブもそれなりの物がある。
そのまま二十球ほど投げてもらったが、なかなか可能性を感じさせる内容だった。
「だけどなんで急にピッチャーの練習を?」
「……安島くんは氷室さんのことを随分と買ってるみたいだけど、これから氷室さんが復活出来るって保証はどこにもないからね」
クルクルとボールを手で弄びながら天城さんがそう言う。
「氷室さんがもしもダメだったら天城さんが、ってことか」
「そういうこと、いずれ控えのピッチャーは必要になるんだから誰かしらはやらないとね」
天城さんの言ってることは理にかなっている、それは間違いない。
それでも俺の中で氷室さんの復活を信じていたい気持ちがあるのもまた事実だった。
ふと周りを見渡すと氷室さんの姿がなかった、先に寮に戻ったのだろうか?
天城さんのピッチングを見て氷室さんがどういう気持ちになったのか気になった。
天城さん達と食事を済ませてから、氷室さんの部屋に向かう。
部屋に迎え入れられるものの、氷室さんはどこかぼんやりとしていた。
「どうした氷室さん? なんか元気ないじゃないか」
声をかけると氷室さんは俯いてしまった。
小さくため息をつき思い悩んでいる様子を見せる。
「安島は、私より天城さんの相手をしてた方がいいんじゃないかな……」
呟くようにそう口にする、その表情は暗く沈んでいて放っておけないと感じさせる。
「どうしてそんなこというんだよ」
「だって、天城さんは投手経験無しでいきなりあのピッチングだよ? 臆病者の私よりよっぽど可能性がありそうだよ」
「考え過ぎだって、氷室さんはまだ投球練習を再開したばかりじゃないか」
間違いない、天城さんを見て氷室さんは焦っている。
「でも、安島に色々して貰ってるのに私はまだ何も……」
悔しそうに拳を握り締めている。
俺が手伝っていることで気負わせてしまっているのだろうか。
どう声を掛けていいのか迷う。
「気にすることはない、俺は俺のやりたいようにやっているだけだから」
「そんなの嘘だよ、安島は天城さんのことが大好きなんだから、本当は私よりも天城さんの相手をしてたほうが楽しいはずだよ」
ダメだ、完全にマイナス思考に陥ってしまっている。
言葉だけでは今の氷室さんの不安を取り除くことは出来ないだろう。
「氷室さん」
「何よ……キャッ!?」
手を伸ばし頭を撫でる、サラサラとした髪の感触が心地良い。
氷室さんは抵抗しない、俺のなすがままにされている。
「慌てなくていいんだ、俺はいくらでも氷室さんに付き合うから」
「……本当?」
氷室さんと視線が絡み合う、その瞳に吸い込まれそうになる。
「ああ、いつまでも待ってる、俺を信じてくれ」
「ん……」
気持ちよさそうに目を閉じる氷室さん、リラックスした雰囲気が伝わってくる。
「安島……私、頑張るよ、時間かかるかもしれないけど……」
しばらくして氷室さんがポツリとそう言った。
「いくら時間がかかってもいい、ゆっくり進んでいこう」
氷室さんがマウンドに立つその日まで必ず彼女を支え続けていこう、そう改めて決心した。
「おかえりなさい」
自室に戻ると天城さんがベッドで横になりながら俺を出迎えてくれる。
天城さんのために食事を作り始めたころから俺の部屋に居着いてしまっていた。
いつもの様にマッサージをしていると天城さんが話しかけてくる。
「それで、どうでした?」
「何がだ?」
「とぼけないで、氷室さんの様子を見に行ってきたんでしょ?」
「天城さんも心配なのか?」
「チームのことを考えたら当然です、私みたいな急造投手でなんとかなるほど大会は甘くありません」
どうやら天城さんは最初から自分が投手になるつもりはあまり無いようだった。
「それじゃあどうして投手の練習を?」
「氷室さんも競争相手がいた方が気が引き締まるんじゃないかと思って、そうじゃなくても最悪の場合は考えなくちゃいけないし」
なるほど、天城さんなりの愛のムチといった意味合いがあったのだろう。
「天城さんのピッチングを見て少し自信喪失したみたいだけど、今は立ち直ってくれたよ」
「そうですか、まぁそのぐらいで気持ちが折れてしまうようではどっちにしてもダメですからね」
厳しい言葉だがその通りだ、気持ちの強さが無くてはピッチャーは務まらない。
最初は野球部に入る入らないで揉めた天城さんも、今ではチームのことを考えてくれるようになったと思うと嬉しかった。
次の部活の日、先日と同じように樋浦さんを打席を立たせての投球練習中。
「安島、硬球で投げさせてほしい」
ゴムボールでの練習をしていると、氷室さんにそう声を掛けられた。
「……大丈夫なのか?」
「うん、一つこうすれば上手くいくんじゃないかっていう考えがあるんだ」
本人がそういうのであればそれを試さない理由はない。
「分かった、無理はしないようにな」
軽く背中を叩いてキャッチャーボックスへ引き返す。
氷室さんはマウンド上でハンカチを取り出して鼻に当てている、アロマオイルの匂いを嗅いでいるのだろう。
それが少しでも精神を落ち着けられる要因になればいいのだけれども。
そう考えながら捕球の構えをとる。
氷室さんがゆっくりとセットに入る、じっくりとボールを持ってから投球モーションへ。
リリースされたボールが音を立ててミットに収まった。
ストライクゾーンに構えた俺のミットは動いていない。
思わずボールを手にとって確認すると硬い感触、ゴムボールではない。
慌ててマウンドに駆け寄る、一刻も早く成功の理由が知りたかった。
久しぶりのストライク投球に氷室さんははにかんだような笑顔を見せている。
「氷室さん……どうやって?」
そう尋ねると氷室さんはなぜか言いづらそうにして視線を逸らした。
しばらくしてからようやく口を開く、心なしか頬に赤みが差しているような気がする。
「投げるときに安島のことを考えることにしたの、安島のことだけ考えて、安島のミットだけを見て、そうして投げてみたら自然とストライクだった」
「そうか……よかったな」
どうやらコツを掴んだようだ、嬉しくてうまく言葉にならない。
「どんな時も安島が支えてくれるって思ったら、すごく気持ちが楽になった……ありがとう」
「上手くいったのは氷室さん自身の力だよ、俺は何もしてないさ」
「二人共、前に喧嘩してたとは思えない仲良しぶりだね」
後ろから樋浦さんに声を掛けられる。
「樋浦さんも練習に協力してくれてありがとうな」
「真由の復活は私の願いでもあったから当然だよ、おめでとう真由」
「今の感覚を忘れないうちにもう少し投げておこうか」
その後も乱れることなく安定した投球を見せた氷室さん。
超えなくてはいけない壁はあと一つになっていた。
休日に桜庭さんと連絡を取る、番号は彼女が俺を訪ねてきた時に交換していた。
一時間後、俺と氷室さんで彼女を出迎えにいく。
「久しぶりだね、真由」
「成美……」
桜庭さんが手を差し出して二人握手する、氷室さんは緊張した様子だ。
「グラウンドはこっちだよ」
今日、桜庭さんを呼び出した理由、それは氷室さんの最終テストのためだった。
イップスの直接の原因となった桜庭さんを相手にしての投球。
これをこなせれば氷室さんのイップスは完治したと言っていいだろう。
桜庭さんが着替えて準備をする間、グラウンドの片隅で待機する。
大丈夫だろうか、薄ぼんやりとした不安が俺を包み込む。
「安島……」
「ん、どうした……っと」
声の方向に向き直ったその時、氷室さんが俺の胸に飛び込んできた。
「氷室、さん?」
「……急に、怖くなってきちゃった、ここまで来てダメだったらどうしようって」
氷室さんが俺の胸の中で震えている、ゆっくりとその体に手を回す。
「大丈夫だ、俺のミットをめがけて投げ込むだけ、だろ?」
「そうだけど……」
不安をかき消すように強く抱きしめる、氷室さんの体温が俺に伝わってくる。
「もしもダメでも、俺はずっとついていくから」
「ありがとう……ね、名前で呼んで欲しいな」
上目遣いでそう囁かれる、頭がクラクラしてしまいそうだった。
「分かった……真由」
「修平……」
そのまま二人でしばらく抱きあってから離れる。
これで少しでも勇気を与えられただろうか。
勝負の時が迫っていた。
桜庭さんの準備も終わり、いよいよ対決の時だ。
「それじゃあ始めようか」
「これは真剣勝負だからね、手加減しないよ」
マウンドに向かう真由にそう言ってから桜庭さんが左打席に入ってバットを構える。
マウンド上でハンカチを鼻に押し当て真由が深呼吸する。
ゆっくりと足場を慣らして、それからセットポジションに入った。
教科書通りのオーバースローから綺麗なストレートが繰り出される。
真ん中付近の甘いボールだったけれども桜庭さんは見逃した、ワンストライク。
「よかった……真由のボールだ」
そう呟いて感極まったのか目尻に浮かんだ涙を拭う桜庭さん。
一度打席を外して落ち着きを取り戻してから再び構え直す。
二球目は外角の少し高めに浮いたストレート、逃さず桜庭さんが反応した。
思い切り振りぬいた鋭い打球は快音と共にライナー性の当たりとなって飛んでいく。
フェンス直撃……だがライトのラインの外だ、ファールボール。
あまりにも打ち頃すぎて振り急いでしまったのだろう、その分打球が切れた。
しかし完璧に捉えられた当たりだったのは間違いない。
抑えるためにはインコースを使わなくてはいけない、俺は少し迷った。
だがすぐに迷いを振り払う、俺が真由を信じないでどうするんだ。
ミットをインコースに構える。
真由は一つ頷いて、投球モーションに入った。
投じられたボールは膝下に飛んだ、ストライクゾーンのボール。
桜庭さんが綺麗に体を回転させてボールを打ちに行った。
やられる、そう思った瞬間ボールは鋭く曲がり落ちた。
バットは空を切り、俺は飛びつくように必死でボールを止めた。
スライダーだ、ここに来ていきなり練習でも投げなかった変化球を投げるとは。
思わず苦笑いが漏れる。
真由がマウンドを降りてくる、桜庭さんが帽子を取った。
「変化球を投げれるほど回復してるとは思わなかったな」
「真剣勝負だからね、打たれないためにはこれしかなかった」
そう言って真由は笑みを見せる。
久しぶりのライバルとの対決を心から楽しんでいるようだった。
「……今回は私の負けだけど、次は負けないから」
敗れた桜庭さんもどこか満足気で、その光景を美しいと思った。
二人握手を交わす、次の対決は大会の時になるだろうか。
その時が今から待ち遠しく感じられる、そんな対決だった。




