第九十六話 残らなかった傷
掌の痛みは。
朝になっても消えなかった。
傷はない。
赤くもなっていない。
それでも剣を握ると。
古い傷口を開いたように疼く。
昨夜は何度も目を覚ました。
眠るたび、違う場所で剣を握っていた。
森。崩れた街道。知らない城壁。
どの夢にも神崎の姿があり。
戦った理由だけが抜け落ちていた。
「今日は木剣だけだ。」
ガレスが訓練場へ一本置いた。
「振る必要はない。持って立て。」
レインは柄を握る。
痛みが指から腕へ上がった。
視界の端に雪が舞う。
「見えたか?」
「少しだけ。」
◇
雪原ではない。
石造りの広間。
黒い光が床を走る。
レインは剣を逆手に持ち替えた。
光を刃で受けず。
床へ突き立て、魔力の流れを逸らす。
背後で誰かが叫んだ。
『右だ!』
トーマの声。
振り返る前に跳ぶ。
さっきまでいた場所を黒い刃が通り過ぎた。
神崎蓮がいる。
黒い外套は破れ。
左脇腹を押さえていた。
それでも目はレインの剣だけを追っている。
『今度こそ。』
レインの口が動いた。
何を続けたのか。
音は残っていない。
神崎が片手を上げる。
天井から黒い線が落ちた。
レインは前へ出る。
退けば仲間へ届く。
木剣を持つ今の手が。
存在しない衝撃に震えた。
黒い線は止まらない。
刃を床から抜き、二本目を払う。
肩へ熱が走り、制服が裂ける。
それでも足は止まらなかった。
痛みより先に、次の攻撃を知っていた。
◇
「離せ。」
ガレスの声で。
レインは木剣から手を放した。
訓練場へ乾いた音が響く。
「どこだった?」
「知らない場所です。」
見たものを説明する。
石の広間。
黒い線。
傷を負った神崎。
背後にいたトーマ。
「俺もいたのか。」
「声だけ。」
「また少し先の俺か?」
「分からない。」
レインの掌を。
セレスが確かめる。
「本当に傷はありません。」
「向こうでは?」
「最後まで見えなかった。」
◇
クロニクルへ。
掌の感覚を記録する。
【身体情報:外傷なし】
【魂情報:残留反応あり】
「魂に残ってる。」
「傷そのものが?」
トーマが尋ねる。
【外傷情報の継承:なし】
【行動情報の残留:あり】
傷は持ち越されない。
剣の動きと。
痛みの記憶だけが残っている。
それは傷を再現しているのではない。
危険な動きを避けるために。
身体が先に知らせているようにも思えた。
だが、役に立つ記憶だけとは限らない。
強すぎる痛みは、今の動きまで止めてしまう。
「向こうで持っていた剣は?」
【物質情報の継承:なし】
「物も残らない。」
別の世界で壊れた門が。
今の学院に補修跡を残していない理由と合う。
同じ本も。
同じ剣も。
世界線を越えて運ばれたわけではない。
「では、禁書庫の記録は?」
司書が尋ねる。
「世界暦0年より前に作られたものなら。」
レインは答える。
「分かれる前から、どの世界にもある。」
「後から残された記録は?」
【世界線外部への保存を確認】
【保存方法:参照制限】
普通の紙ではない。
誰かが。
世界の外側へ情報だけを残した。
◇
「誰が残した?」
【対象識別を検索】
【該当反応:神崎蓮】
レインは表示を読み上げた。
神崎は。
物が残らないことを知った上で。
情報だけを次の世界へ送る方法を使っていた。
それが何度目に始まったのか。
誰から教わったのか。
まだ分からない。
ただ。
掌に残る痛みも。
クロニクルに残る記録も。
消えた世界から届いたものだった。
「痛みまで残す必要があったのか。」
「必要だから残ったとは限りません。」
セレスが答えた。
「忘れきれなかっただけかもしれません。」
救えなかった痛みも、身体は抱えていた。




