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∞クロニクル・アルディア∞ ~101年目の未来~  作者: 空乃真芽
目覚め編

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第七話 雪の夢

 白い。


 見渡す限り、白い世界だった。


 空と大地の境界すら分からない。


 静かに降り続く雪が、世界から音を奪っていた。


 レインは、その雪原の中に立っていた。


 寒さは感じない。


 けれど、胸の奥だけが締め付けられるように痛む。


 足元を見る。


 白い雪の上へ、赤い雫がぽつりと落ちた。


「……血?」


 自分のものではない。


 視線を前へ向ける。


 少し離れた場所に、一人の男が立っていた。


 黒い外套。


 長い剣。


 顔は逆光で見えない。


 それでも、不思議と恐怖はなかった。


 初めて会うはずなのに、


 どこか懐かしい。


 そんな感覚だけが胸に残る。


 男は静かに剣を下ろした。


『……また、遅かったか』


 低い声が雪の中へ溶けていく。


 その一言で、胸が大きく脈打った。


「待ってくれ!」


 レインは思わず叫ぶ。


「あなたは誰なんだ!」


 男は答えない。


 ゆっくりと背を向ける。


 その先には、一人の少女が立っていた。


 風に揺れる金色の髪。


 雪より白い外套。


 その姿は、夢とも現実ともつかないほど淡く霞んでいる。


「……セレス?」


 名前を呼んだ瞬間、少女がこちらを振り向く。


 だが、その顔は見えなかった。


 雪が強くなる。


 視界が白く染まっていく。


 少女は何かを言っている。


 けれど、声だけが届かない。


「聞こえない!」


 レインは雪をかき分けるように走った。


 一歩。


 また一歩。


 距離は縮まらない。


 どれだけ走っても、二人は遠ざかっていく。


 そして最後に、


 少女が小さく手を伸ばした。


 その指先が、光へ溶ける。


 同時に世界は砕けるように崩れ始めた。


「っ!」


 レインは勢いよく身体を起こした。


 荒い呼吸が部屋へ響く。


 窓の外はまだ薄暗い。


 夜明け前の静けさだけが部屋を包んでいた。


 額には冷たい汗が滲んでいる。


「……夢」


 そう呟いた。


 けれど、ただの夢とは思えなかった。


 胸には、あの雪原の冷たさが残っている。


 そして、


 少女が最後に何かを伝えようとしていたことだけは、はっきりと覚えていた。


 しかし、その言葉だけがどうしても思い出せない。


 レインはゆっくりと窓を開けた。


 春の朝の風が部屋へ流れ込む。


 暖かい。


 夢とは正反対の季節。


 それでも胸の奥に残る違和感は、少しも消えなかった。


 ――あの夢は、本当に夢だったのだろうか。


 


  夢から覚めたあとも、レインはしばらく布団の上に座ったままだった。


 窓の外では、小鳥のさえずりが聞こえる。


 春の朝。


 暖かな風が部屋へ流れ込み、夢の中の雪とはまるで違う世界が広がっていた。


「……夢、だったんだよな」


 そう呟いてみる。


 だが、胸の奥に残る痛みだけは消えない。


 あの黒い外套の男。


 雪の中でこちらへ手を伸ばした少女。


 そして最後に聞こえた、かすかな声。


 ――レイン。


 名前を呼ばれた瞬間だけは、はっきり覚えていた。


 それなのに、誰が呼んだのかだけが思い出せない。


 レインは額へ手を当て、小さく息を吐いた。


「最近、おかしいな……」


 時計塔での出来事。


 木剣を握った時の違和感。


 雪原の光景。


 どれも説明がつかない。


 考えれば考えるほど、答えは遠ざかっていくようだった。


     ◇


 朝食を済ませると、レインは学院へ向かった。


 坂道を歩いていると、見慣れた声が聞こえる。


「おはよう!」


 トーマが大きく手を振っていた。


「今日は顔色いいな」


「昨日よりはね」


「夢でも見たか?」


 何気ない一言に、レインの足が止まる。


「……なんで分かった?」


「え?」


 今度はトーマが驚く番だった。


「いや、適当に言っただけなんだけど」


 二人は顔を見合わせる。


 レインは苦笑した。


「変な夢を見ただけだよ」


「怖い夢?」


「怖いっていうより……」


 少し考え込む。


「懐かしい夢、かな」


「懐かしい?」


「行ったこともない場所なのに、不思議と知ってる気がするんだ」


 トーマは腕を組みながら首をかしげた。


「それって夢なのか?」


「俺にも分からない」


 答えは出ないまま、二人は学院への坂を上っていく。


     ◇


 校門の近くでは、セレスが二人を待っていた。


「おはようございます」


「おはよう」


 レインが返事をすると、セレスはほっとしたように微笑んだ。


「今日は元気そうですね」


「心配かけてごめん」


「いいえ」


 セレスは少しだけ視線を伏せる。


「昨日のことが少し気になっていたので……」


 その表情を見て、レインは夢のことを話そうか迷った。


 けれど、結局やめた。


 自分でも理解できない話を、人へ話しても困らせるだけだ。


「本当にもう大丈夫だから」


「そうですか」


 セレスは小さく頷いた。


 しかし、その青い瞳にはまだ不安が残っているようだった。


 三人は並んで校門をくぐる。


 時計塔を見上げると、数日前に崩れた石造りの装飾はまだ修復されていなかった。


 足場が組まれ、職人たちが作業を続けている。


 レインは無意識に立ち止まる。


 あの日、自分はどうして落下を予測できたのだろう。


 偶然では説明できない。


 夢と同じように、答えは見つからなかった。


 その時、学院の鐘が鳴り響く。


「急がないと遅れるぞ!」


 トーマが慌てて走り出す。


 レインとセレスも顔を見合わせ、小さく笑って後を追った。


 春の風が三人の間を吹き抜ける。


 穏やかな朝。


 だがその日常の裏側で、レインの中では確かに何かが少しずつ動き始めていた。


 


 午前の授業が終わると、一年生たちは再び訓練場へ集められた。


 青空の下、木剣を手にしたガレスが腕を組んで立っている。


「今日は振るだけじゃない。」


 低く響く声に、生徒たちの背筋が伸びる。


「戦いで一番大切なものを教える。」


 ガレスは木剣を地面へ軽く突き立てた。


「剣の速さか?」


 誰かが呟く。


「違う。」


「力か?」


「違う。」


 ガレスはゆっくりと全員を見回した。


「戦いで最も重要なのは、『見ること』だ。」


 生徒たちは顔を見合わせる。


「剣は腕で振る。」


「だが、その前に頭で戦う。」


 そう言って、一人の上級生を呼び寄せた。


「カイル。」


「はい。」


 昨日、レインへ声を掛けた二年生だった。


 カイルは木剣を構え、ガレスと向かい合う。


「よく見ていろ。」


 次の瞬間だった。


 ガレスが踏み込む。


 鋭い一撃。


 しかしカイルは半歩だけ身体をずらし、最小限の動きで受け流した。


 続く二撃目。


 三撃目。


 木剣が何度も交差する。


 それでもカイルは必要以上に動かない。


 攻撃を"見て"からではなく、その前に動いているようだった。


 やがてガレスが剣を下ろす。


「今、何が見えた?」


 一人の女子生徒が手を挙げる。


「カイル先輩が速かったです。」


「違う。」


 別の男子生徒。


「先生の攻撃を読んでいました。」


「半分正解だ。」


 ガレスは頷いた。


「相手の剣を見るな。」


「肩を見る。」


「腰を見る。」


「足を見る。」


「そこに攻撃の意思が現れる。」


 生徒たちは真剣な表情で聞き入っていた。


「剣は最後に動く。」


「身体は、その前に動く。」


 レインはその言葉を聞いた瞬間、胸がざわついた。


 まるで、


 そのことを、昔から知っていたような感覚。


「では。」


 ガレスが木剣を持ち上げる。


「二人一組になれ。」


 教室で決めた組み合わせのまま、生徒たちは向かい合った。


 レインの前にはトーマ。


「手加減しろよ。」


「木剣だから大丈夫だろ。」


「それもそうか。」


 二人は構える。


「始め!」


 ガレスの声が響いた。


 トーマが真っ直ぐ踏み込んでくる。


 その瞬間。


 レインの視界が、わずかに変わった。


 肩。


 腰。


 右足。


 踏み込む前の小さな重心移動。


(右から来る。)


 考えるより先に身体が動いた。


 半歩だけ左へ、


 トーマの木剣は空を切る。


「えっ?」


 驚いた声を上げたのはトーマだった。


「もう一回!」


 二度目。


 今度は左から、


 レインは再び最小限だけ動く。


 当たらない。


 三度目。


 四度目。


 五度目。


 一度も剣が触れない。


「なんでだよ!」


 トーマが思わず叫ぶ。


「全部避けられる!」


 レイン自身も驚いていた。


 避けようと思ったわけではない。


 身体が勝手に動いている。


「そこまで。」


 ガレスが近付いてくる。


 レインは少し緊張した。


「先生……。」


「偶然ではないな。」


 ガレスはレインを見つめる。


「相手の身体を見ていたか?」


「……分かりません。」


「気付いたら動いていました。」


 ガレスは腕を組む。


「なるほど。」


 短くそう言っただけだった。


 それ以上は何も聞かない。


「だが、勘違いするな。」


 レインへだけではなく、全員へ向けて話し始める。


「避けることと勝つことは違う。」


「見る力は剣の第一歩だ。」


「これから鍛えろ。」


「はい!」


 全員が声を揃えた。


 その様子を、少し離れた場所からセレスは静かに見つめていた。


 誰にも気付かれないほど小さく。


「……始まった。」


 その呟きは春風に溶け、誰の耳にも届くことはなかった。


 


 「レイン。」


 授業の終わりを告げる鐘が鳴り、生徒たちが訓練場を後にし始めた頃だった。


 木剣を返却しようとしていたレインは、ガレスに呼び止められる。


「少し残れ。」


「……はい。」


 トーマが心配そうに近寄る。


「何かやらかしたのか?」


「違う。」


 ガレスは短く答えた。


「確認したいことがあるだけだ。」


 トーマは納得したような、していないような表情で頷く。


「先に帰ってるぞ。」


「分かった。」


 セレスも小さく会釈をした。


「また明日。」


「また明日。」


 二人の姿が訓練場から遠ざかっていく。


 レインは少し緊張しながらガレスの前へ立った。


     ◇


 ガレスは棚から二本の木剣を取り出し、その一本をレインへ放った。


「受け取れ。」


 慌てて両手で受け止める。


「構えろ。」


「え?」


「一撃だけだ。」


 レインは言われるまま木剣を構えた。


 ガレスはゆっくりと向かい合う。


「安心しろ。本気ではやらん。」


 そう言った瞬間だった。


 ガレスの姿が一歩で間合いへ入る。


「っ!」


 速い。


 昨日見た上級生よりも速い。


 木剣が肩へ向かって振り下ろされる。


 その瞬間。


 レインの身体が自然と半歩だけ後ろへ下がった。


 木剣は肩先をかすめるように空を切る。


「ほう。」


 ガレスの目が細くなる。


 二撃目。


 今度は横薙ぎ。


 また身体が勝手に動く。


 わずかに腰を引き、木剣を避ける。


 しかし。


 三撃目は違った。


 ガレスは途中で軌道を変えた。


「しまっ──」


 レインが反応するより早く、木剣が胸へ軽く当たる。


「そこまでだ。」


 ガレスは木剣を下ろした。


 静寂が訓練場を包む。


「……すみません。」


「謝る必要はない。」


 ガレスは真っ直ぐレインを見る。


「初めて剣を持った者なら、一撃目で終わっていた。」


 レインは返事ができなかった。


「避けられた理由は分かるか?」


「……分かりません。」


「気づいたら動いていました。」


 ガレスはしばらく黙っていた。


 やがて木剣を棚へ戻し、小さく息を吐く。


「才能というものは説明が難しい。」


「だが、一つだけ言える。」


 レインは顔を上げる。


「自分の勘を大切にしろ。」


「勘……ですか?」


「ああ。」


 ガレスは頷いた。


「理屈では説明できない感覚が、お前にはある。」


「それを過信するな。」


「だが、捨てるな。」


 その言葉だけを残し、ガレスは訓練場を後にした。


     ◇


 一人残ったレインは、夕焼けに染まる訓練場を見渡した。


 静かだった。


 さっきまで聞こえていた木剣の音も、もうない。


「勘……か。」


 確かにそうなのかもしれない。


 考えて避けたわけではない。


 身体が先に動いた。


 それだけだった。


 だが、


 もし、あれが勘ではなく、


 どこかで経験した記憶だとしたら──。


 そんな考えが頭をよぎる。


 レインは首を振った。


「考えすぎだ。」


 誰に言うでもなく呟き、学院を後にする。


 夕暮れの時計塔には、まだ修復用の足場が組まれたままだった。


 その姿を見上げた瞬間。


 頭の奥で、かすかな鐘の音が鳴った気がした。


 ――ゴォン。


 たった一度だけ。


 レインは足を止める。


「……今のは。」


 辺りを見回しても、誰も気づいた様子はない。


 鐘は鳴っていない。


 それでも、その音だけは確かに聞こえた。


 レインは小さな違和感を胸に抱えたまま、家路についた。


 その夜。


 夕食を終えたレインは、自室の窓を開けた。


 昼間の暖かさが嘘のように、夜風は少しだけ冷たい。


 星が瞬いている。


 学院での出来事を思い返しながら、机へ向かった。


 今日の課題を開く。


 魔法学。


 剣術。


 学院へ入ってから毎日が新しいことばかりだった。


 それなのに、


 胸の奥では、もっと昔からこの日々を知っているような感覚が消えない。


「……考えすぎか。」


 自分へ言い聞かせるように呟く。


 ガレスは「勘を大切にしろ」と言った。


 だが、あれは本当に勘なのだろうか。


 時計塔の石造りの翼が落ちる瞬間を察知したこと、


 初めて握った木剣が手に馴染んだこと、


 夢の中で聞いた、自分の名前。


 どれも偶然とは思えなかった。


 机の引き出しから紙を取り出し、思いつくまま書き始める。


・雪の夢


・黒い外套の男


・金色の髪の少女


・鐘の音


・時計塔


・剣


 書き終えた紙を眺める。


「共通点がないな……。」


 自分でも苦笑する。


 まるで子どもの落書きだ。


 その時だった。


 紙の端が、ふわりと揺れた。


 窓は閉まっている。


 風は入ってきていない。


 それでも紙だけが静かに震えた。


「?」


 手を伸ばそうとした、その瞬間。


 頭の奥で鐘の音が鳴る。


 ――ゴォォォン。


 一度。


 二度。


 三度。


 レインは思わず耳を押さえた。


 だが、家の中は静まり返っている。


 鐘など鳴っていない。


 聞こえているのは、自分だけだ。


 次の瞬間。


 誰かの声が聞こえた。


『――あと十日。』


「……誰だ!」


 思わず立ち上がる。


 部屋には誰もいない。


 窓の外にも、人影はない。


 声は頭の中から聞こえたようにも思えた。


『あと十日。』


 同じ言葉がもう一度だけ響く。


 そして、静寂が戻った。


 レインは荒い息を整えながら椅子へ座り込む。


「十日……。」


 その数字だけが胸へ残る。


 何まで十日なのか。


 何が起こるのか。


 まるで分からない。


 けれど。


 理由もなく確信していた。


 その日が来れば、すべてが変わる。


     ◇


 同じ夜。


 学院の時計塔。


 修復途中の足場には、誰もいない。


 夜風だけが石壁を撫でている。


 その最上部。


 月明かりの届かない場所で、一つの影が静かに空を見上げていた。


 黒い外套。


 顔は見えない。


 その人物は、小さく呟く。


「……目覚め始めたか。」


 誰へ向けた言葉でもない。


 夜空には、一つの月が浮かんでいる。


 だが、その人物の瞳には――


 ほんの一瞬だけ。


 二つの月が重なって見えていた。


 風が吹く。


 黒い外套が静かに揺れた。


 影はそのまま夜の闇へ溶けるように姿を消す。


 その存在を知る者は、まだ誰もいない。

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