第六話 放課後
放課後を告げる鐘が、学院の校舎に響き渡った。
教室のあちこちで椅子を引く音が重なり、張り詰めていた空気が一気にほどけていく。
「終わった……」
トーマは机へ突っ伏し、力なく呟いた。
「魔法学って、座って話を聞いてるだけなのに、どうしてこんなに疲れるんだ」
「頭を使ったからじゃないか?」
レインが教本を鞄へしまいながら答える。
「剣術の方が楽だった」
「昨日は構えただけで疲れたって言ってただろ」
「身体の疲れと頭の疲れは違うんだよ」
「威張って言うことじゃないと思うけど」
近くにいた生徒たちから小さな笑いが起こった。
入学式から数日しか経っていない。それでも、最初は互いの様子を窺っていた生徒たちの間に、少しずつ会話が生まれ始めていた。
教室という場所が、知らない者同士の集まりから、同じ時間を過ごす仲間の場所へ変わりつつある。
レインは、その変化をどこか心地よく感じていた。
「レイン」
呼ばれて顔を上げる。
教室の前方から、セレスがこちらへ歩いてきていた。
腕には昨日図書館で借りた教本が抱えられている。
「昨日はありがとうございました」
「昨日?」
「図書館です。お二人が一緒に探してくださらなかったら、課題を終えるまで、もっと時間がかかっていたと思います」
「俺も助かったよ」
レインは笑った。
「一人だったら、黒い本ばかり気にして、課題を忘れてたかもしれないし」
セレスの視線がわずかに揺れる。
図書館の棚に収められていた、見覚えのない文字が刻まれた黒い本。
司書の老人は、あれを禁書庫の管理対象だと言った。
読めないはずなのに、なぜか強く惹かれた。
そしてセレスもまた、あの本に懐かしさを感じたと言っていた。
「……私も、少し気になっています」
「やっぱり?」
「はい。でも、司書の方が言っていたように、今は触れない方がいいのかもしれません」
セレスはそう言いながら、どこか納得していない表情を浮かべていた。
レインも同じだった。
危険だと言われたわけではない。
それでも、読んではいけないと言われるほど、知りたくなる。
「禁書庫か……」
いつの間にか顔を上げていたトーマが呟く。
「入ったら怒られるかな?」
「当たり前だろ」
「でも、名前からして気になるじゃないか」
「お前は課題の本すらまともに読んでなかっただろ」
「課題と秘密は別だ」
「どう違うんだよ」
「面白そうかどうか」
あまりにも堂々とした答えに、レインとセレスは顔を見合わせた。
先に吹き出したのはセレスだった。
口元を押さえながら、声を抑えて笑っている。
入学式の日には、どこか近寄りがたい雰囲気をまとっていた。
けれど、こうして話してみれば、よく笑う普通の少女だった。
そのことが、なぜか嬉しかった。
「よし」
トーマが勢いよく立ち上がる。
「今日はこのまま帰るのはもったいない」
「何かするのか?」
「自主練だ」
胸を張って宣言する。
「昨日ガレス先生に、基礎を大事にしろって言われただろ。放課後の訓練場は、生徒なら自由に使っていいらしい」
「よく覚えてたな」
「俺だって大事な話は聞いてる」
「魔法学の話は?」
「それは明日思い出す」
レインはため息をついた。
けれど、放課後の訓練場には少し興味があった。
昨日初めて木剣を握った時の、あの奇妙な感覚。
手に馴染む重さ。
教えられる前から知っていたような構え。
もう一度剣を握れば、何か分かるかもしれない。
「少しだけなら行ってみるか」
「決まりだな」
トーマは満足そうに頷き、今度はセレスへ顔を向けた。
「セレスも来る?」
「私も、ですか?」
「三人で行った方が楽しいだろ」
セレスは返事に迷うように、腕の教本へ視線を落とした。
「剣術は、あまり得意ではなくて……」
「見てるだけでもいいんじゃないか?」
レインが言った。
「無理に木剣を振る必要はないし」
セレスは少し考えたあと、小さく頷いた。
「それなら、ご一緒してもいいですか?」
「もちろん」
トーマが即答する。
三人は教室を出ると、校舎の裏手にある訓練場へ向かった。
◇
放課後の訓練場は、授業中とはまるで違う場所に見えた。
授業で使う一年生だけではなく、上級生たちもあちこちで剣を振っている。
木剣が打ち合う乾いた音。
鋭い掛け声。
地面を蹴る靴音。
離れた一角では、魔法を交えた模擬戦まで行われていた。
「すごいな……」
トーマの目が輝く。
レインも、目の前で繰り広げられる戦いから目を離せなかった。
二人の上級生が向かい合っている。
互いに礼をし、木剣を構える。
次の瞬間。
一人が地面を蹴った。
速い。
木剣同士が激しくぶつかり、乾いた音が訓練場へ響く。
相手は身体をひねって受け流し、横から反撃する。
踏み込み。
回避。
再び交差する二本の剣。
その動きを見た瞬間、レインの視界が揺れた。
訓練場が消える。
代わりに現れたのは、白い大地だった。
激しく吹きつける雪。
黒い剣。
目の前に立つ、顔の見えない誰か。
握った剣から伝わる衝撃。
凍えるはずの指先。
そして、胸を焼くような強い後悔。
「――っ!」
頭の奥に鋭い痛みが走った。
レインは額を押さえ、よろめいた。
「レイン!」
すぐ近くでセレスの声がした。
伸ばされた手が、レインの腕を支える。
雪原の光景は消え、目の前には夕日に照らされた訓練場が戻っていた。
「大丈夫ですか?」
セレスが不安そうに顔を覗き込む。
その青い瞳を見た瞬間。
先ほどの雪景色の中にも、同じ色があったような気がした。
だが、それが誰の瞳だったのかは思い出せない。
「……大丈夫」
レインは浅く息を吐いた。
「少し、立ちくらみがしただけだ」
そう答えたものの、自分でも信じてはいなかった。
あれは幻だったのか。
それとも――。
忘れている何かを、ほんの一瞬だけ思い出したのか。
「本当に大丈夫か?」
トーマも駆け寄り、レインの顔を覗き込んだ。
「顔色、悪いぞ」
「もう平気だよ」
レインは額から手を離した。
痛みは消えている。
けれど、頭の奥には、あの雪原の冷たさがまだ残っていた。
見たことのない場所。
知らないはずの戦い。
それなのに、剣を受けた腕の痺れまで思い出せそうなほど鮮明だった。
「今日は帰った方がいいんじゃないですか?」
セレスの声には、はっきりとした心配が滲んでいた。
「そうだな」
トーマも珍しく真面目な顔で頷く。
「練習は明日でもできる」
二人にそう言われると、無理に残る理由もない。
レインは頷きかけた。
だが、訓練場の隅に並べられた木剣が目に入る。
昨日、初めて握った時に感じた懐かしさ。
先ほど見えた雪原。
どちらも剣とつながっているように思えた。
「少しだけ」
「え?」
「一度だけ、木剣を振ってみたい」
セレスが不安そうに眉を寄せた。
「また痛くなったら、すぐにやめますか?」
「ああ。約束する」
その言葉を聞いても、セレスはしばらく迷っていた。
やがて、諦めたように小さく息を吐く。
「無理はしないでください」
「分かってる」
「レインの『分かってる』は信用できないぞ」
「お前にだけは言われたくない」
トーマが笑う。
張り詰めていた空気が、少しだけ和らいだ。
◇
三人は訓練場の端にある、初心者向けの練習場所へ移動した。
地面には白い線が引かれ、一人ずつ十分な間隔を空けて素振りができるようになっている。
近くの棚から木剣を取る。
柄を握った瞬間、レインの手に馴染む感覚が戻ってきた。
重さ。
重心。
指を置く位置。
考えるより先に、身体が最も扱いやすい形を選んでいる。
「よし!」
隣でトーマが木剣を持ち上げた。
「今日は百回振る!」
「いきなり?」
「目標は高い方がいい」
「昨日は構えてただけで疲れてたよな」
「昨日の俺と今日の俺は違う」
トーマは大きく息を吸い、勢いよく木剣を振り下ろした。
「一!」
二度目。
「二!」
三度目。
「三!」
十回を過ぎた頃には、声が急に小さくなっていた。
「十一……十二……」
「もう苦しそうだけど」
「まだ始まったばかりだ」
肩で息をしながら強がるトーマを横目に、レインも木剣を構えた。
昨日ガレスが教えた姿勢を思い出す。
足を開き、重心を落とす。
肩の力を抜き、剣先を正面へ向ける。
ゆっくりと振り上げる。
そして、真っ直ぐ振り下ろした。
空気を切る乾いた音。
昨日よりも、剣が軽く感じる。
もう一度。
同じ軌道をなぞるように振る。
三度目。
四度目。
振るたびに、身体の動きが滑らかになっていく。
どこまで腕を上げればいいのか。
いつ足へ力を込めるのか。
教わっていないことまで、身体が知っている。
「レイン」
セレスの声で動きを止める。
彼女は白線の外から、じっとこちらを見ていた。
「何か変だった?」
「いいえ」
セレスは首を横に振った。
「とても綺麗でした」
「綺麗?」
「剣の動きが」
どう答えればいいか分からず、レインは木剣へ目を落とした。
「昨日習った通りに振ってるだけだよ」
「昨日習ったばかりには見えないけどな」
いつの間にか休憩していたトーマが口を挟む。
「俺なんか、自分の足を打ちそうになるぞ」
「胸を張って言うなよ」
その時、背後から低い声がした。
「確かに、昨日始めた者の剣筋ではないな」
三人が振り返る。
そこには、訓練着姿の上級生が立っていた。
年齢はレインたちより二、三歳ほど上だろう。短い灰色の髪に、右腕へ革製の防具を巻いている。
「すみません。邪魔でしたか?」
レインが尋ねると、上級生は首を振った。
「いや。少し気になっただけだ」
上級生はレインの木剣へ目を向ける。
「剣は以前にも習っていたのか?」
「いいえ。授業で触ったのが初めてです」
「本当に?」
「はい」
上級生は疑うようにレインを見る。
やがて、自分の木剣を手に取った。
「もう一度振ってみろ」
レインは戸惑いながらも構え直した。
さっきと同じように振り下ろす。
上級生は黙ったまま、その動きを見ていた。
「なるほど」
「何かおかしいですか?」
「おかしいというより、無駄が少ない」
上級生は自分の木剣を構える。
「だが、形だけだ。実際に相手が動けば、その通りにはいかない」
軽く一歩踏み込み、素早く剣を振る。
レインが反応するより先に、木剣の先端が肩のすぐ手前で止まった。
「これが実戦なら、お前は今ので終わりだ」
速すぎて、ほとんど見えなかった。
「……はい」
「落ち込むな。初日なら当然だ」
上級生は木剣を下ろした。
「型を覚えることと、戦えることは違う。今は基礎だけを続けろ」
「ありがとうございます」
「礼はいらない」
背を向けかけた上級生が、もう一度振り返る。
「名前は?」
「レイン・アークライトです」
「レインか」
上級生は、その名前を確かめるように繰り返した。
「俺はカイル。二年だ」
「よろしくお願いします」
「そのうち、また見せてもらう」
カイルはそれだけ言い残し、仲間たちのもとへ戻っていった。
「目をつけられたな」
トーマが楽しそうに言う。
「悪い意味じゃなければいいけど」
「きっと大丈夫です」
セレスが微笑む。
「カイル先輩、怖そうに見えましたけど、親切でした」
「そうだな」
レインは頷きながら、先ほど木剣が迫った瞬間を思い返した。
何もできなかった。
けれど、怖くはなかった。
むしろ。
もっと速い剣を、どこかで見たことがある気がした。
◇
「十九……二十……!」
トーマが最後の一振りを終え、その場へ座り込んだ。
「百回じゃなかったのか?」
「今日は二十回で勘弁してやる」
「誰に言ってるんだよ」
レインも木剣を棚へ戻した。
頭痛は再び起こらなかった。
それでも、雪原の光景は消えずに残っている。
セレスの視線を感じ、振り返る。
「やっぱり、まだ具合が悪いですか?」
「大丈夫だよ」
「本当に?」
青い瞳が真っ直ぐこちらを見ている。
嘘をついても、すぐに見抜かれそうだった。
「少し変なものを見ただけなんだ」
「変なもの?」
トーマも立ち上がる。
「どんな?」
「一瞬だけ、雪が降っている場所が見えた」
「雪?」
「それと、誰かと剣で戦ってた」
「誰が?」
「俺が」
口に出してみると、余計に奇妙に聞こえた。
トーマは冗談だと思ったのか、首を傾げる。
「白昼夢ってやつじゃないか?」
「たぶん」
レインはそう答えた。
セレスだけは何も言わなかった。
顔色がわずかに変わっている。
「セレス?」
呼びかけると、彼女ははっとしたように顔を上げた。
「すみません」
「何か心当たりがあるの?」
「いいえ」
答えは早かった。
「ただ、雪の景色と聞いて、少し寒く感じただけです」
春の夕暮れは暖かい。
寒さを感じるような風も吹いていない。
それでもレインは、それ以上追及しなかった。
セレスには、話したくないことがある。
図書館の黒い本を見た時も。
魔力を測った水晶が不思議な光を放った時も。
彼女は同じような顔をしていた。
何かを知っているのか。
それとも、彼女自身にも分からない何かを恐れているのか。
「そろそろ帰ろう」
トーマの声で、二人は視線を外した。
◇
学院を出る頃には、空が茜色に染まっていた。
三人の影が、石畳の上へ長く伸びている。
「明日は本当に百回やるからな」
トーマが腕をさすりながら言う。
「明日、腕が上がればいいけど」
「それは明日の俺が考える」
「またそれか」
セレスが小さく笑った。
その笑顔を見て、レインもつられて笑う。
入学式の日には、ほとんど知らない者同士だった。
それが今では、三人で帰ることが当たり前になりつつある。
何でもない会話。
夕暮れの道。
明日も会えるという約束さえ必要のない日常。
レインは、その時間を心地よく感じていた。
大通りへ出たところで、セレスが足を止める。
「私は、こちらなので」
「じゃあ、また明日」
レインが言う。
「はい。また明日」
セレスは少し迷ってから、レインの目を見た。
「今日は、無理をしないでくださいね」
「分かってる」
「その返事、信用できないってさっき言われてただろ」
トーマが横から笑う。
「今日はちゃんと早く寝るよ」
セレスはようやく安心したように微笑み、二人へ頭を下げた。
「おやすみなさい」
「おやすみ」
金色の髪が夕日に照らされながら、人混みの向こうへ遠ざかっていく。
その後ろ姿を見送り、レインはトーマと帰路についた。
◇
その夜。
レインは深い眠りの中で、雪の音を聞いた。
音などないはずなのに、
白い大地を覆う雪が、一粒ずつ世界へ触れる音が聞こえる。
遠くに誰かが立っている。
黒い外套。
手には剣。
顔は見えない。
その人物が、低い声で何かを言った。
『また、間に合わなかったか』
レインは問い返そうとする。
だが、声が出ない。
次の瞬間。
雪の中に、金色の髪が揺れた。
誰かがこちらへ手を伸ばしている。
『レイン』
その声を聞いた瞬間、胸を引き裂かれるような痛みが走った。
レインは息を呑み、目を覚ました。
暗い自室。
開いた窓から、春の夜風が入り込んでいる。
額には冷たい汗が浮かんでいた。
「……セレス?」
なぜその名前が口から出たのか、自分でも分からなかった。




