第五十三話 北からの夢
雪が降っていた。
音のない雪だった。
白く埋もれた道の先に、
一人の人が立っている。
黒い外套。
けれど。
顔は見えない。
その人は、北を向いていた。
左手で脇腹を押さえ。
右手には、白銀の剣を持っている。
雪の上へ、赤い跡が続いていた。
「待ってください。」
セレスは呼び掛ける。
黒衣の人は振り返らない。
代わりに。
もっと遠くから、低い唸り声が聞こえた。
一つではない。
いくつもの影が、雪の中を走ってくる。
魔物。
黒衣の人へ向かっている。
そう思った。
だが。
影は、その人の横を通り過ぎた。
南へ。
何かから逃げるように。
「どうして。」
セレスの声に。
黒衣の人が、初めて足を止めた。
『来るな。』
声が聞こえた。
誰の声なのか。
セレスには分からない。
けれど。
胸の奥だけが、その言葉を知っていた。
止めなければならない。
何を。
誰を。
それさえ分からないのに。
足だけが前へ進もうとする。
けれど。
雪は膝まで積もり。
一歩進むたび、黒衣の背中は遠ざかっていった。
『今度は。』
風が強くなる。
続きが、雪に消える。
黒衣の人の前で。
白い道が、大きく割れた。
◇
「っ。」
セレスは目を開けた。
窓の外は、まだ暗い。
春の夜。
雪など降っていない。
それでも。
右手が冷たかった。
誰かの手を、離してしまったように。
◇
翌朝。
教室へ入ると、レインとトーマはもう来ていた。
「おはようございます。」
「おはよう。」
レインが答えたあと。
少しだけ表情を変えた。
「眠れてない?」
「分かりますか?」
「少し。」
トーマもセレスを見る。
「北方のこと考えてた?」
「夢を見ました。」
二人の顔から、笑みが消えた。
セレスは見たものを、順に話した。
雪の道。
黒い外套。
白銀の剣。
左脇腹の傷。
そして。
北から南へ逃げていく魔物。
「記録と同じだ。」
トーマが小さく言う。
「黒衣と、剣と、傷。」
「でも。」
セレスは首を横に振った。
「記録を読んだから見た夢かもしれません。」
レインもすぐには答えなかった。
自分の夢も。
記憶なのか。
不安が作ったものなのか。
分けられないことがある。
「来るな、って言われたんだよね。」
「はい。」
「誰に?」
「分かりません。」
黒衣の人だったのか。
もっと遠くにいた誰かなのか。
声だけでは、判断できなかった。
「今度は、の続きは?」
「聞こえませんでした。」
トーマが腕を組む。
「気になるところで終わるな。」
「夢に言ってください。」
「今夜、もう一回見られない?」
「注文はできません。」
セレスが少し笑う。
けれど。
右手の冷たさは、まだ消えていなかった。
「手。」
レインが言った。
「どうかした?」
「ずっと握っています。」
言われて初めて気付く。
セレスは右手を強く握り込んでいた。
ゆっくり開く。
何もない。
それでも。
手のひらには、爪の跡が残っていた。
「夢の中で。」
セレスは呟く。
「誰かの手を取ろうとした気がします。」
「黒衣の人?」
「分かりません。」
また。
分からないことが一つ増えた。
◇
放課後。
三人はガレスへ夢のことを伝えた。
「事実としては扱わん。」
最初に返ってきたのは、その言葉だった。
「はい。」
セレスは頷く。
「ただし。」
ガレスは続けた。
「北から魔物が来た場合は、進む方向を確認しろ。」
「北へ向かっているか。」
「北から逃げているか。」
「同じ目撃でも、意味が違う。」
レインは王都で見た二つの写しを思い出した。
魔物の中央に立つ魔王。
魔物を退かせた黒衣の男。
見たものが同じでも。
残る意味は、書き方で変わる。
「夢も記録するんですか?」
「見たことと、考えたことを分けて書け。」
「それなら残していい。」
セレスは紙を受け取った。
夢で見たもの。
そこから考えたこと。
二つに分けて、文字にする。
最後に。
『懐かしいと感じた。理由は分からない。』
そう書いた。
紙を読み直し。
セレスは、夢にないことを書いていないか確かめた。
黒衣の人が魔王だったとは書かない。
百年前の勇者だったとも書かない。
知っている気がしたことまで。
事実には変えない。
北方へ行ったことはない。
黒衣の人を見たこともない。
それなのに。
雪の向こうへ消えた背中を。
セレスは、ずっと前から知っている気がしていた。




