第二十九話 剣を向ける前に
『名前を知らぬまま、剣を向けてはならない』
青い文字が消えたあとも。
その言葉だけが、
レインの頭から離れなかった。
机の上には、何もない。
記録は紙に書かれていたわけではない。
それでも。
目を閉じれば、何度でも浮かぶ。
雪原。
黒い外套。
自分の手に握られた剣。
『……遅かったな。』
「あの人の名前……。」
知らない。
顔も。
何者なのかも。
ただ、夢の中の自分は、
確かに剣を向けていた。
もし。
あの記録が、自分へ向けられたものなら、
「俺は、何を間違えたんだ。」
問いに答える者はいない。
窓の外で、
時計塔の鐘が鳴った。
◇
翌朝。
学院長室には、学院長とガレスが待っていた。
「昨夜、続きを確認しました。」
レインは椅子へ座る前に言った。
「何と書かれていた。」
ガレスの声は低い。
「名前を知らないまま、剣を向けるなと。」
部屋が静かになる。
学院長は、すぐには口を開かなかった。
「それだけですか?」
「はい。」
「誰の名前かは。」
「書かれていませんでした。」
「誰へ剣を向けるなと言っているのかも?」
「分かりません。」
また。
分からないことばかりだった。
ガレスが腕を組む。
「敵の素性を確かめろ、という意味なら不自然ではない。」
「ですが。」
学院長が静かに続ける。
「役割だけを信じるな、という記録の続きに現れた言葉です。」
「ただの戦い方の教えとは思えません。」
百年前の認証者。
千年前の勇者。
古い記録の魔王。
時代も人物も違う。
それなのに、
名前が欠けて、役割だけが残っている。
レインは膝の上で手を握る。
「もし、相手が魔王でも。」
自分の声が、
思ったより大きく響いた。
「名前を知るまで、戦うなってことなんでしょうか。」
ガレスの眉が動く。
「魔王を前にして、剣を抜かずにいられると思うか。」
「分かりません。」
正直に答えた。
魔王は世界を滅ぼす敵。
誰もが、そう教わる。
レインもそう信じてきた。
けれど。
「名前を知らないってことは。」
一度、息を吸う。
「その人が何を考えてるのかも、知らないってことです。」
「何も知らないまま斬ったら。」
雪の上へ倒れる影が浮かぶ。
「もう、聞けなくなる。」
ガレスは黙っていた。
学院長も。
やがて、
「相手を知ることと、危険を見逃すことは違います。」
学院長が言った。
「はい。」
「警告の意味が分かるまで、剣を抜くなとも言いません。」
「ただし。」
机の上に置かれた古い本へ手を添える。
「我々が教わってきた歴史だけで、相手を決めつけるべきではない。」
「少なくとも、その疑問は持っておくべきでしょう。」
レインは頷いた。
「次の記録は?」
ガレスが尋ねる。
「まだ読めません。」
「条件は表示されたか。」
「いいえ。」
昨夜、最後に残ったのは、
【名前】
その一語だけだった。
「名前を探せ、ということでしょうか。」
「たぶん。」
「誰のだ。」
「それも分かりません。」
ガレスが深く息を吐く。
「随分と不親切な記録だな。」
「俺もそう思います。」
ほんの少しだけ。
張り詰めていた空気が緩んだ。
◇
教室へ戻ると、
トーマが机へ身を乗り出してきた。
「昨日の続き、読んだのか?」
「うん。」
「何て書いてあった?」
レインは周囲を見る。
授業前の教室。
まだ生徒は少ない。
セレスも静かにこちらを見ていた。
「名前を知らないまま、剣を向けるなって。」
トーマが目を瞬く。
「誰に?」
「分からない。」
「誰の名前?」
「分からない。」
「それだけ?」
「それだけ。」
トーマは椅子へ座り直した。
「やっぱり不親切だな。」
「先生と同じこと言ってる。」
「ガレス先生?」
「うん。」
セレスが少し考えてから尋ねる。
「レインさんは。」
「その言葉に、心当たりがあるんですか?」
「……夢で。」
二人には、
前より話すと決めていた。
「雪の中で、誰かに剣を向けてた。」
「顔は見えない。」
「でも、その人が何か言ったのは覚えてる。」
「何て?」
トーマが聞く。
「遅かったな、って。」
二人の表情から笑みが消える。
「その人の名前は?」
「知らない。」
だから、
あの言葉が怖かった。
自分が、
同じことを繰り返すような気がして、
「だったら。」
トーマが言った。
「先に見つければいいだろ。」
「名前を?」
「そう。」
「剣を向けるより前に。」
簡単に言う。
けれど。
その言葉は、まっすぐだった。
「私も手伝います。」
セレスが続ける。
「前に約束しましたから。」
「名前を見つけるって。」
レインは二人を見る。
一人ではない。
それだけで、
夢の中の雪が、少し遠くなった気がした。
「ありがとう。」
その時。
――コン。
青い文字が浮かぶ。
【検索対象を更新しました】
【名称情報】
【関連記録:1】
「……見つかった。」
「何が?」
「名前に関係する記録。」
【記録位置】
【禁書庫 第二区画】
やはり。
答えは、あの場所にある。
誰もいない部屋で、
ひとりでに頁をめくった。
あの黒い本の中に。




