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∞クロニクル・アルディア∞ ~101年目の未来~  作者: 空乃真芽
禁書庫編

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第二十二話 読める文字

朝日が学院の尖塔を照らしていた。


 窓から差し込む光が、レインの瞼をゆっくりと開かせる。


「……朝か。」


 昨日はほとんど眠れなかった。


 目を閉じるたび、禁書庫で見た光景が浮かぶ。


 石造りの広間。


 壁一面に刻まれた文字。


 そして、一番奥に刻まれていた日本語。


『これを読める者へ』


 あの一文だけが、何度も頭の中で繰り返される。


「夢じゃ……なかったよな。」


 ベッドへ腰掛けたまま、小さく呟く。


 あれは確かに現実だった。


 学院長も、ガレスも、司書も見ていた。


 禁書庫は本当に開いた。


 ただ。


 あの日本語だけは、自分しか読めなかった。


「……。」


 レインは机へ視線を向ける。


 昨夜からずっと考えていたことがある。


 もし。


 あの文字を自分で書いたら、何か分かるだろうか。


 机の引き出しから紙を一枚取り出す。


 羽ペンを持つ。


 そして、


 ゆっくりと書き始めた。


『こ』


 手が止まる。


「……書ける。」


 驚いた。


 何も考えなくても筆が動く。


 日本では当たり前だった文字。


 けれど、この世界では存在しない文字。


 それを自分は迷わず書けてしまう。


 続けて書く。


『これを読める者へ』


 最後まで書き終えた紙を見つめる。


「やっぱり……。」


 アルディア語とはまったく違う。


 曲線と直線が混じり合った、不思議な文字列。


 桐谷玲として生きていた頃なら、何の違和感もなかった。


 だが、今のレインには奇妙でしかない。


「どうして俺だけ……。」


 その瞬間だった。


 ――コン。


 頭の奥で、小さな音が鳴る。


「!」


 青白い画面が視界へ浮かぶ。


【文字情報を確認】


【言語:日本語】


【一致率:100%】


「また……。」


 レインは思わず周囲を見回す。


 誰もいない。


 画面はやはり、自分にしか見えていない。


【記録媒体を認識しました】


「記録媒体?」


【手書き文字を確認】


【照合を開始します】


 青い光が紙の上をなぞるように流れた。


 もちろん実際には何も起きていない。


 そう見えているだけだ。


 それでも。


 クロニクルは確かに紙を読み取っている。


「……これも見えるのか。」


【照合完了】


【禁書庫内記録との一致を確認】


「一致?」


 レインは息を呑む。


「禁書庫の文字と?」


【肯定】


「……。」


 やはり間違いない。


 禁書庫に残されていた日本語は、本物だった。


 誰かが実際に書いたもの。


 しかも、自分が知っている文字と完全に一致する。


「書いた人も……。」


 喉が鳴る。


「日本人なのか?」


 数秒の沈黙。


【回答できません】


「やっぱり。」


 少し苦笑する。


 クロニクルは答えられることと答えられないことがある。


 最近ようやく、それが分かってきた。


「じゃあ。」


 質問を変える。


「この文字を書いた人は、生きてる?」


【閲覧権限不足】


「……。」


 また、それだった。


 けれど。


 レインは落胆しなかった。


 前までなら何も返ってこなかった。


 今は少しずつでも反応がある。


 昨日の禁書庫。


 認証。


 記録番号0001。


 何かが変わり始めている。


 そんな気がしていた。


 コンコン。


 部屋の扉が鳴る。


「レイン!」


 トーマの声だった。


「そろそろ行くぞ!」


「今行く!」


 慌てて紙を本の間へ挟む。


 クロニクルの画面も静かに消えていった。


 制服へ着替え、部屋を出る。


 廊下にはトーマが立っていた。


「遅い。」


「悪い。」


「昨日疲れてたのか?」


「まあ、ちょっと。」


「やっぱり先生に怒られたんだろ?」


「違うって。」


 レインは笑って誤魔化した。


 禁書庫のことは言えない。


 それでも。


 昨日までとは違っていた。


 秘密を抱えていることへの重さよりも。


 真実へ近づけるかもしれないという期待の方が、少しだけ大きくなっていた。


 二人が寮を出ると、朝の澄んだ空気が頬を撫でる。


 学院へ続く石畳の道。


 遠くには時計塔が見える。


 その地下深くに、禁書庫は眠っている。


 レインは無意識に時計塔を見上げた。


「どうした?」


 トーマが尋ねる。


「いや。」


 小さく首を振る。


「また行くことになる気がして。」


「時計塔?」


「……うん。」


 トーマは笑った。


「お前、最近ほんと変わったよな。」


「そうかな。」


「前は授業が終わったら真っ先に剣の訓練だったのに。」


「今は本ばっかり。」


「そんなに勉強好きだったっけ?」


 レイン自身にも分からなかった。


 好きになったのか。


 それとも。


 思い出さなければならない何かが、自分を禁書庫へ導いているのか。


 その答えは、まだ見つかっていない。


 学院の鐘が鳴る。


 新しい一日が始まろうとしていた。


 だがレインはまだ知らない。


 自分が書いた一枚の紙が、この日、思いもよらない形で学院長の目に留まることになるとは――。


 午前の授業が終わると、学院中に昼を告げる鐘が鳴った。


 生徒たちは一斉に教室を飛び出し、中庭や食堂へ向かっていく。


「腹減った!」


 トーマはいつものように大きく伸びをした。


「今日は食堂にしようぜ。」


「いいよ。」


 レインは笑って立ち上がる。


 すると、前の席に座っていたセレスが静かに振り返った。


「ご一緒してもいいですか?」


「もちろん。」


 三人は並んで教室を出る。


 昨日までと変わらない昼休み。


 それなのに、レインだけは何度も周囲へ視線を向けてしまう。


 時計塔。


 学院長室。


 図書館。


 そのどれもが、以前とは違って見えた。


 禁書庫を知ってしまったからだ。


     ◇


 食堂は今日も賑わっていた。


 窓際の席へ腰を下ろし、それぞれ昼食を広げる。


「そういえば。」


 トーマがスープを飲みながら言った。


「昨日、先生たち何の話してたんだ?」


「昨日?」


「学院長室。」


「呼ばれてただろ?」


 レインの手が止まる。


「……少し。」


「禁書庫のこと?」


 思わず顔を上げる。


「なんで知ってる?」


「噂になってる。」


「え?」


 トーマは肩をすくめた。


「昨日、図書館の司書さんが何回も時計塔の方へ行ってたらしい。」


「教師も集まってたし。」


「だから何かあったんじゃないかって。」


 レインは少し安心する。


 禁書庫そのものが知られたわけではない。


 ただ教師たちが集まっていたことが、生徒の間で噂になっているだけだった。


「先生から口止めされてる。」


 レインはそうだけ答えた。


「そっか。」


 トーマもそれ以上は聞かなかった。


 セレスだけが静かにレインを見つめている。


 その瞳には、不思議そうな色が浮かんでいた。


     ◇


 昼食を終えた三人は、そのまま中庭を歩いていた。


 夏の日差しは暖かい。


 木陰には読書をする生徒たちが座り、遠くでは訓練場から木剣の音が聞こえてくる。


 平和な学院の日常。


 けれど。


 レインの胸には昨日の言葉が残っていた。


『また、百年が過ぎたということだろう』


「レインさん。」


 セレスが静かに呼ぶ。


「昨日から、何か悩んでいますか?」


「……そんなに分かる?」


「少しだけ。」


 レインは苦笑する。


「考え事かな。」


「夢のことですか?」


 その一言に、レインは足を止めた。


「どうして夢だと?」


「最近のレインさんは、夢を見た朝に少しだけ表情が違うんです。」


 トーマが目を丸くする。


「そんなの分かるのか?」


「なんとなくです。」


 セレスは照れたように笑った。


 レインは驚いていた。


 自分では気づかなかった変化を、セレスは見ていたのだ。


「昨日も夢を見た。」


 小さく答える。


「どんな夢ですか?」


「……思い出せない。」


 半分は本当だった。


 男の姿。


 石の部屋。


 日本語。


 そこまでは覚えている。


 でも、一番大事な顔だけが思い出せない。


「また忘れたのか。」


 トーマが笑う。


「夢なんてそんなもんだろ。」


「そう……だよな。」


 レインも笑い返した。


 だが胸の奥では違うと思っていた。


 あれは夢ではない。


 誰かの記憶。


 そんな気がしてならなかった。


     ◇


 午後最初の授業は歴史学だった。


 教師は教壇へ立つと、黒板へゆっくりと文字を書いた。


『世界暦成立以前』


 教室がざわつく。


「先生。」


 一人の生徒が手を挙げる。


「世界暦ってゼロ年から始まったんですよね?」


「その通りだ。」


「じゃあ、その前ってあるんですか?」


 教師は少しだけ笑った。


「良い質問だ。」


「世界暦は歴史の始まりではない。」


「ただの年代の区切りだ。」


 レインは無意識に身を乗り出した。


「世界暦以前にも、人々は生活していた。」


「王国もあった。」


「町もあった。」


「しかし、その時代の記録は、ほとんど残っていない。」


 昨日クロニクルで見た表示が頭をよぎる。


【作成年代:世界暦0年以前】


 やはり、本当だった。


「なぜ残っていないのですか?」


 別の生徒が尋ねる。


 教師は少し考えてから答えた。


「分からない。」


「大災害という説。」


「戦争という説。」


「魔族との戦いという説。」


「様々な説がある。」


「ですが。」


 教師はそこでチョークを置いた。


「歴史家の間では、一つだけ共通した考えがあります。」


 教室が静まり返る。


「誰かが意図的に消した可能性がある。」


 その言葉に、レインの心臓が大きく脈打った。


(消した……?)


 禁書庫には残っていた。


 ということは、


 誰にも見つからない場所へ隠したのか。


 それとも。


 禁書庫だけが、唯一残された場所なのか。


 考えが巡る。


 すると、


 ――コン。


 頭の奥で、静かな音が響いた。


【キーワード一致】


【世界暦0年以前】


 視界の端へ、小さな青い文字が浮かぶ。


【関連記録:18件】


 レインは思わず息を呑んだ。


 十八件。


 昨日まで一件しか表示されなかったのに、


 急に増えた。


 しかし。


 すぐ下には、


【閲覧権限不足 18件】


 その一文だけが表示されていた。


「……。」


 まだ足りない。


 禁書庫へ入っただけでは届かない。


 何か条件がある。


 レインは静かに拳を握った。


(絶対に見つける。)


(この世界の、本当の歴史を。)


 教師の声が遠くに聞こえる。


 けれどレインの意識は、もう禁書庫へ向いていた。


 あの奥には、


 まだ誰も知らない真実が眠っている。


 授業が終わる鐘が鳴った。


 教室中が一斉に立ち上がる。


「やっと終わった!」


 トーマは大きく伸びをした。


「今日の歴史、長かったな。」


「そう?」


 レインはまだ考え込んでいた。


 世界暦〇年以前。


 意図的に消された歴史。


 そして禁書庫。


 全部が一本の線で繋がりそうで、まだ届かない。


「レイン?」


 セレスが心配そうに覗き込む。


「本当に大丈夫ですか?」


「ああ。」


 笑って答える。


「ちょっと考え事。」


「最近そればっかりだな。」


 トーマが苦笑する。


「頭使いすぎると剣まで弱くなるぞ。」


「そうかも。」


 三人は笑いながら教室を出た。


     ◇


 放課後。


 訓練場では木剣を打ち合う音が響いている。


 いつもならレインもそこへ向かう。


 しかし今日は足が止まった。


 視線の先には時計塔。


 その地下には禁書庫がある。


「……。」


 もう一度行きたい。


 今なら、昨日より多くのことが分かる気がする。


「レイン。」


 後ろから声がした。


 振り返る。


 司書だった。


「司書さん。」


「学院長がお呼びです。」


「学院長が?」


「はい。」


 レインは司書の後について歩き始めた。


     ◇


 学院長室。


 扉を開けると、学院長とガレスが待っていた。


「失礼します。」


「座ってください。」


 学院長は穏やかな笑みを浮かべる。


 しかし、その表情は昨日より真剣だった。


「レイン君。」


「はい。」


「昨夜から今日にかけて。」


「何か変わったことはありましたか?」


「変わったこと?」


 レインは少し考える。


 クロニクル。


 日本語を書いたこと、


 授業中に反応したこと、


 どこまで話すべきだろう。


「……夢を見ました。」


 学院長は静かに頷く。


「どのような夢ですか?」


「よく覚えていません。」


「でも。」


「知らない場所でした。」


「知らない人物がいて。」


「その人は……。」


 レインは言葉を止める。


 夢の中の男。


 顔だけが思い出せない。


「何かを書いていました。」


「書いていた?」


「はい。」


「文字です。」


「どんな文字でした?」


 レインは学院長を見る。


 そして、


「読めました。」


 その一言だけを答えた。


 学院長の表情がわずかに変わる。


「そうですか。」


 それ以上は聞かなかった。


 代わりに机の引き出しから、一冊の古い本を取り出した。


 茶色く変色した革表紙。


 題名は消えかかっている。


「これは?」


「学院創設時から保管されている記録です。」


 レインは思わず身を乗り出した。


「中を見ても?」


「どうぞ。」


 慎重に本を開く。


 最初の数ページは学院創設の歴史。


 歴代学院長の名前。


 寄贈された書物。


 普通の記録だった。


 しかし。


 途中のページで手が止まる。


「……。」


 そこだけ。


 一枚だけ。


 紙が切り取られていた。


「無い……。」


「ええ。」


 学院長は静かに答える。


「誰かが持ち去ったのではありません。」


「最初から、そのページだけ存在しないのです。」


「そんなことって……。」


「普通はありません。」


 ガレスが腕を組む。


「だが、この本だけは違う。」


「学院が創設された頃から、ずっとこの状態だ。」


 レインは切り取られた跡を指でなぞる。


 不自然だった。


 まるで、


 そのページだけ、最初から歴史から消されたようだった。


     ◇


「学院長。」


 レインが口を開く。


「禁書庫って。」


「世界暦より前の本もあるんですか?」


 学院長は少しだけ目を閉じた。


「あります。」


「……!」


「少なくとも、あると伝えられています。」


「ですが。」


「私も見たことはありません。」


「え?」


「禁書庫の最深部へ入れた者は、学院の歴史でも数えるほどしかいないのです。」


「その記録も、ほとんど失われています。」


 レインは息を呑んだ。


 学院長ですら知らない。


 だからこそ。


 自分が見たものには価値がある。


「レイン君。」


 学院長は静かに言う。


「君は昨日。」


「歴史を一歩進めました。」


「歴史を……?」


「少なくとも。」


「百年以上、誰も見ることができなかった場所へ入った。」


「それだけで十分です。」


 レインは返す言葉がなかった。


     ◇


 学院長室を出る頃には、夕暮れになっていた。


 空は赤く染まり。


 時計塔の影が学院を長く覆っている。


「……。」


 レインは立ち止まる。


 あの地下には、


 まだ誰も知らない歴史が眠っている。


 その時だった。


 ――コン。


 クロニクルが反応した。


【新規記録を検出】


「!」


 周囲を見回す。


 誰も気付いていない。


【検索対象更新】


【関連地点】


【禁書庫 第二区画】


「第二区画……?」


 レインの鼓動が速くなる。


 昨日入った場所は入口にすぎなかったのか。


【現在位置】


【第一区画 閲覧完了】


 その下へ、


 新しい文字が浮かぶ。


【次回アクセス可能区域】


【第二区画】


 レインは時計塔を見上げた。


 禁書庫には、まだ続きがある。


 そして、


 クロニクルは、その先へ進めと言っている。


     ◇


 一方、その夜。


 禁書庫。


 誰もいないはずの静かな空間で、


 黒い本が、ゆっくりとひとりでに開いた。


 ページが一枚めくられる。


 そこには日本語で、短い文章が記されていた。


『ようやく、ここまで来たか。』


 誰も読む者はいない。


 それでも文字は、静かにそこにあった。


 まるで、


 百年という時間を越え。


 次に現れる誰かを、ずっと待ち続けていたかのように。

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