生臭い匂い
ちなみにこのエビはメインヒロインです
割れた水槽から溢れた水が、路地の地面を濡らしていく。
先程までそこにいたゴーストは跡形もなく消え失せ、残っているのは、削り取られた壁と、血の気を失ったプレイヤー達の顔だけだ。
まるで悪い夢でも見せられているような感覚に、男は未だ地面へ座り込んだまま、ゆっくりと呼吸を繰り返す。無意識の防衛本能。あの怪物を容易く平らげたその瞳の先に、己がいることを自覚したまま。
「……で?」
女が首を傾げる。特徴的な、黒く、凹凸のない眼球。まるで感情を感じさせない不気味な空間が、ネオンライトを反射していた。
「答えるエビ。どこから来たエビか」
男はすぐに答えられなかった。
鼻をつく生臭い匂い。それとは別に、目の前の女そのものから、得体の知れない不快感が滲み出ている。
男は数秒かけて呼吸を整えてから、ゆっくりと口を開く。
「……聞きたいことが、ある」
「エビの質問が先エビ」
女は気怠げに呟く。濡れた髪先から、水滴がぽたりと落ちた。再び辺りに静寂が訪れる。いつの間にか、女と男以外は、その場からすっかり霧散していた。
「……グリーンテンペスト」
「それは、おかしいエビねぇ」
女の言葉に合わせて、作り物の海老の口がパクパクと開く。傍から見たら滑稽な絵面、かもしれない。
「ガイドも付けずに、初心者がここに来るのは不可能エビ」
「そう……なのか?普通に、歩いてきたんだが……」
「お前」
男がその言葉を言い終わる前に、ダン、と女の身体が跳ねる。直後、男の目の前に、仁王立ちした女が立っていた。
「うっ……!」
溢れ出す臭気に思わず口を抑える。吐きそうになるのを必死に堪えながら、男は視線を地面へと落とした。
「怪しいエビ。あと失礼エビよ。何を隠してるエビか」
「な、なにも……何も無い……本当にただ歩いてきただけなんだ」
女はその返答に不満げに鼻を鳴らす。が、これ以上男を問い詰めるのも無駄だと思ったのか、或いはただの気まぐれか、暫くの睨み合いの後、結局水槽の方へと戻って行った。
途中で落ちたエビを拾い上げると、そのまま水槽の中へと放り込んでいく。男は女が離れるまで、息を止めていなければならなかった。
「ま、いいエビ。そっちの話を聞くエビよ」
「俺は……アンタに聞きたいことがあるんだ」
「それはさっきも聞いたエビ」
話せ、と言わんばかりに、顔に向かって海老が投げつけられる。何故かぬめり気を帯びていて、やはり生臭い。
「……ソウルスキルについてだ。俺のは……カテゴリーが表示されていない。これは、普通の事なのか?」
「それはバグエビ。運営に言うといいエビよ。じゃ、エビは帰るエビ」
男の言葉を一蹴すると、半壊した水槽を押して裏路地の奥へと去ろうとする女。
男は慌てて立ち上がると、その進行方向を遮るように立ち塞がった。
「ま、待ってくれ!アンタ、ユニークカテゴリーなんだろ!?何か知らないか……なんでもいいんだ。このままだとスキルが使えなくて……その、困ってしまう」
「邪魔エビ。退くエビ」
「アンタくらいしか頼れる奴がいないんだ……頼む……」
男は女の反対側から水槽を押し、その進行を押し止めようとする。しかし、あっさり力負けした男は、危うくキャタピラに轢き殺されかけた。
生臭い水の撒かれた地面を転がりながら、それでも必死に女の方へと縋り付く。
「はぁ〜〜〜しつっこいエビねぇ……エビもエビ以外のスキルのことは知らないエビ。エビはずっとエビで、これからもエビ。それだけエビよ」
「…………?」
女が気だるげに放った一言。それが、男にはどうも引っかかった。
「アンタは、この世界に来た時から、自分がユニークカテゴリーであると自覚していたのか?」
「?そりゃそうエビ。見ればわかるエビよ」
女の言葉が真実であるなら、男のそれは、ユニークカテゴリーですらない、別の何か、ということになる。
「ところでお前、なんでそんなに焦ってるエビか?リアル時間のことなら大丈夫エビ。現実世界での4時間がこっちの1日エビ」
「いや、そういうわけじゃ……ないんだが」
「お前、めちゃくちゃ面倒臭いエビ……本当にもう帰るエビ」
女の顔にも、否、海老の顔にもはっきりとわかるくらいの鬱陶しいという感情が滲み出た表情で、女は今度こそ、その場を去ろうとする。
「長い、話になる……」
「長いならいいエビ。聞かないエビ」
女は今度は轢き殺す勢いで水槽を走らせる。うなるモーター音が、その断絶をこれ以上ないほど感じさせた。
「ど、どうやってここに来たか、教える、と言ったら?」
「…………はぁ、やっぱりなにか隠してたエビね」
ただのハッタリだった。しかし、今ここで唯一の情報源、それも眉唾ではない、生きた証言。それを逃がしてしまうくらいならと、男は賭けに出た。
「……とりあえず、ウチの店に来るエビ。話はそこで聞くエビ」
「いいのか……?すまない……あ、ありがとう」
「その代わり、適当な事言い出したら二度とここを歩けないようにしてやるエビ」
女は脅すように男に言い放つと、強めに睨みつけ、それから何かを考え込むように、水槽を見つめた。
「こっからちょっと遠いエビ。乗ってくエビか?」
女は親指で、海老がぎっしり詰まった水槽を指さして尋ねた。
「いや、いい、遠慮しておく」
先程その群れに貪られたゴーストのことを思い出し、男は気圧されながら首を横に振った。
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