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「偽りの出立、残された文」

章1:砂漠の病と伝説の香


嵐のような和解の夜が明け、静月殿には脆く、美しい静寂が戻っていた。

雪藍は、昨夜の熱が残る肌を衣に包みながら、朱華の腕の中で微睡まどろんでいた。

心の亀裂はまだ癒えきってはいない。

けれど、この腕の中だけが、世界の全てだと信じられた。


その日の午後、カイが人払いの上で、雪藍に会見を求めてきた。

彼の顔から、いつもの飄々(ひょうひょう)とした笑みは消えている。

琥珀の瞳には、深い苦悩と焦燥の色が浮かんでいた。


「妃殿下、もはや一刻の猶予もない。単刀直入に申し上げます。我が国は今、滅びようとしています」


雪藍は息を呑んだ。

カイは、自国で蔓延する「眠り病」について語り始めた。

それは、人々から気力と生気を奪い、ただ眠るように穏やかに死に至らしめる、原因不明の奇病だという。


「もはや、薬師の手には負えません。残された希望は、古文書に記された一つの伝説だけ」


カイは震える手で、一枚の羊皮紙を広げた。


「人の魂を呼び覚ますという、伝説の香。『魂の夜明け』。それを調合できるだけの神の如き才を持つ者は、世界広しといえど、貴女をおいて他にはいない」


カイは、その場で静かに膝をついた。

誇り高い砂漠の王子が、深く頭を下げる。


「これは、王子としての命令ではない。ただ一人の男として、民を愛する者としての、心の底からの願いだ。あなたのその神の如き才で、どうか、我が民を救ってはいただけないだろうか」


その言葉は、雪藍の魂を激しく揺さぶった。


章2:引き裂かれる心


一人、香室に戻った雪藍は、膝から崩れ落ちるようにその場に座り込んだ。


(民を、救う…? わたくしが…?)


香女としての血が、魂が、行けと叫んでいる。救える命があるのなら、手を差し伸べなくてはならない。それが、香に人生を捧げた者の使命だ。


けれど――。


(朱華様のそばを離れるなど、考えられない。昨夜、やっと、互いの心を確かめ合えたというのに…)


寝台に残る、彼の温もり。涙を拭ってくれた、傷だらけの指先。

「俺にはお前だけだ」と、乞うように囁いた声。

そのすべてが、行くなと彼女の足に絡みつく鎖となる。


(どうすればいい。どうすれば…)


妃として朱華の隣にいること。

香女として人々を救うこと。

どちらも彼女の真実。

どちらかを選ぶなど、まるで心を引き裂かれるようだった。


窓の外では、陽が傾き、宮廷が茜色に染まっていく。

朱華が待つ、静月殿に帰らねば。

雪藍は、震える手で立ち上がった。

その時、彼女は決意していた。


(朱華様を愛しているからこそ、行かねばならない。香に魂を捧げるわたくしを、あの方は愛してくださったのだから…)


その魂を裏切ることは、彼の愛をも裏切ることになる。たとえ、この身が引き裂かれようとも。



章3:涙で滲む置き手紙


夜更け。朱華が政務を終え、静月殿に戻った時、寝所は静まり返っていた。

いつもなら、香を焚きながら彼の帰りを待っているはずの雪藍の姿がない。

胸騒ぎを覚え、部屋の奥へ進むと、枕の上に、一通の文が置かれていた。


朱華は震える手で、それを開いた。

そこには、彼女の涙の跡で、文字がいくつも滲んでいた。


『朱華様へ


わたくしを、お許しください。

どうしても、果たさねばならぬ使命ができてしまいました。

香女として、見過ごすことのできぬ人々が、遠い地でわたくしを待っています。


昨夜、あれほどまでに深く結ばれたのに、あなたの腕を振り払って発つわたくしを、愚かだとお思いでしょう。

けれど、これだけは信じてください。

わたくしの魂は、最初に出会ったあの日から、ただの一度も、あなたの傍を離れたことはありません。


必ず、あなたの元へ帰ります。

どうか、それまで、わたくしを信じてお待ちください。


あなたを、心の底から愛しています。


雪藍』


文が、朱華の手から滑り落ちた。

枕元には、彼女がいつも身につけていた、白梅の香りがする小さな香袋が、主を失ってぽつんと置かれていた。


その頃、雪藍はカイと共に、月のない夜の闇へと馬を走らせていた。

振り返れば、黒々と沈む宮廷の影。


(さようなら、朱華様…)


頬を伝う涙は、荒野の風に千切れて消えていく。

嵐のような和解の夜に交わした「ここにいる」という約束を、自ら破った痛み。

それでも、彼女は前を向いた。

胸に宿る愛を、信じるしかなかった。


胸が張り裂けるような「喪失感」と「切なさ」だけが、後に残された。

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