「嫉妬の香、密やかな夜」
章1:香木の対話
静月殿に隣接された、妃専用の香室。
そこは、雪藍の魂が最も自由に呼吸できる場所だった。
皇命により、異国の王子カイとの「香合わせ」が始まって数日が経つ。今日もまた、二人は極上の香木と向き合っていた。
「…この樹脂の持つ、渇いた甘さには…」
カイが砂漠でしか採れない乳香フランキンセンスの塊を指先で砕きながら言うと、雪藍は即座に言葉を継いだ。
「…湿潤な気候で育った白檀の、静かな深みですね。対極にあるものを合わせることで、互いの香りが引き立ちます」
「その通りだ」
カイは琥珀の瞳を細め、心からの感嘆を込めて雪藍を見つめた。
「まさか、これほど正確に俺の意図を汲んでくれるとは。我が国でも、これほどの使い手は数えるほどしかいない」
雪藍の頬が、賞賛の言葉に誇らしげに色づく。
「カイ様こそ。乳香の特性をここまで引き出すとは…」
二人の間には、言葉以上に雄弁な「香の対話」が満ちていた。芸術家同士が互いの魂に触れ、共鳴し合う、濃密な時間。カイが香料を混ぜる雪藍の手にそっと自らの手を重ね、匙の角度を微調整する。
その仕草はごく自然なものだったが、二人の間には、他者が立ち入ることのできない特別な空気が流れていた。
章2:蝕む影
「――それで!カイ様が雪藍様のお手に、そっと触れて…!」
「まあ、それはもう、見つめ合って…!香の煙の中で、まるで絵巻のようでしたわ!」
静月殿に戻った葵と菫が、興奮冷めやらぬ様子で朱華に報告する。碧葉は心配そうに眉をひそめていた。
朱華は静かに茶を啜りながら、侍女たちの言葉を聞いていた。その表情は穏やかだったが、瞳の奥は氷のように冷えていた。
その日の午後、朱華は執務の合間に、香室の様子をそっと窺った。
几帳の陰から見えたのは、完成した香を前に、雪藍がこれまで自分には見せたことのない顔で微笑む姿だった。
それは、恋する女の顔ではない。芸術家が、最高の好敵手であり、唯一の理解者を得た喜びに打ち震える、「同志」の顔。
朱華の胸を、黒い炎が静かに舐めた。
(あれは、俺の知らない雪藍の顔だ)
自分といる時の、甘く蕩けるような表情とは違う。
彼女の魂の、最も純粋な部分が、カイという男に共鳴している。
(俺が与えることのできぬ悦びを、あの男から得ているというのか…)
嫉妬。その醜い感情が、皇太子としての誇りも、夫としての自信をも蝕んでいく。
彼は音もなくその場を離れた。だが心に残った雪藍の笑顔の残像は、夜になっても消えることはなかった。
章3:嫉妬の夜、愛の刻印
その夜、朱華は雪藍のいる静月殿を訪れた。
いつものような戯れの言葉はない。ただ、抑えきれない熱を宿した瞳で雪藍を見つめると、乱暴なほど強くその身体を抱き寄せた。
「しゅ、朱華様…?」
戸惑う雪藍の唇を、深く激しい口づけで塞ぐ。
それは問いかけではなく、答えを求めるような、飢えた口づけだった。
雪藍の息が上がり、抗議しようと開いた唇の隙間から、朱華の舌が侵入し、すべてを味わい尽くすかのように絡めとる。
唇が離れた時、朱華は雪藍の耳元に、苦しげな声で囁いた。
「昼間、あの男といる時の顔……俺の知らないお前の顔だった」
雪藍ははっと息を呑む。
「あれは、その…」
「言い訳は聞きたくない」
朱華は雪藍の言葉を遮ると、彼女を寝台へと押し倒した。絹の衣を、まるで邪魔なもののように乱暴に引き剥がす。月光に照らされた、柔らかな白い肌が露わになった。
「あの男が、お前のこの肌を欲していると思うだけで、俺の血は沸騰する…!」
朱華は低く呻くと、雪藍の首筋に顔を埋め、まるで印を刻むように強く肌を吸った。
「んっ…!朱華、さま…っ」
ちり、と走る甘い痛みに、雪藍の身体が弓なりにしなる。
「あの男には、お前の才能が理解できるというのか。だが、お前の肌の熱も、この甘い吐息も、震える身体も……すべてを知っているのは俺だけだ。そうだと言ってくれ、雪藍」
その声は、嫉妬と不安に震えていた。
雪藍は胸が締め付けられ、彼の背中に腕を回す。
「はい…はい、もちろんです。わたくしのすべては、朱華様だけのものです…!」
その言葉は、朱華の最後の理性を焼き切った。
彼は雪藍を激しく求め、肌を重ねる。
いつもより少し乱暴な愛撫に、雪藍は声を漏らす。
(この方は、不安なのですね。私が、どこかへ行ってしまうのではないかと…)
快感の霞の中で、雪華は朱華の心の痛みを感じていた。
愛おしさが込み上げ、彼女は自ら朱華の首に腕を絡め、彼の動きに応えるように、熱く腰を揺らした。
「朱華様…もっと、感じてください。わたくしの心も、身体も…すべて、あなたのものです…」
その献身的な愛の言葉に、朱華は低く呻くと、嫉妬も、不安も、すべてを雪藍の中に注ぎ込み、彼女を自分自身の色で染め上げるかのように、深く結ばれた。
肌と肌がぶつかる熱い音と、互いの名を呼び合う声だけが、香室に響き渡る。
やがて、ひときわ深く結ばれた瞬間、二人は同時に熱い絶頂を迎えた。
夜が更け、二人の身体が果てた後も、朱華は雪藍を腕の中から離そうとはしなかった。
雪藍はその腕の中で、彼の愛の重さを感じながら、同時に、二人の間に生まれた新たな影に、静かに心を痛めていた。




