01
目を開けた瞬間、見慣れない天蓋が視界いっぱいに広がっていた。
レースと刺繍で飾られた豪奢な布、光を受けてきらめくシャンデリア。……ここは、少なくとも私の安アパートではない。
いや、それどころか──天蓋付きベッドなど、ドラマか絵本の中でしか見たことがない。
ぼんやりした頭を振って起き上がると、ドアの向こうからノックの音がした。
「お嬢様、アラリック様がお見えです」
アラリック……? 聞き覚えのない名前だった。
メイドに案内されるまま応接室へ向かうと、そこに立っていたのは長身の青年だった。整った顔立ちと冷ややかな眼差し。背筋は真っすぐ、無駄のない動き。まるで氷の彫像のような人物。
「……オルテンシア」
名前を呼ばれ、私は軽く首をかしげた。
「その名前は、私のことですか? 申し訳ありませんが、何も覚えていなくて……」
彼の眉がわずかに動いた。
「記憶喪失だと?」
「はい。ただ、体は健康のようですのでご心配には及びません。失礼ですが……あなたは?」
静かに問い返すと、彼はほんの一瞬だけ絶句したように見えた。
「アラリック・モンターニュ。君の婚約者だ」
「……はあ、婚約者。初めまして、というべきですか?」
観察するような私の視線に、彼の目が細くなる。それでも礼を失せぬよう、私は背筋を正し、椅子に腰を下ろした。
「必要なことは追って説明する。……無理に思い出す必要はない」
その声は冷静で、どこか距離を置く響き。
「君は当面、ここで過ごせばいい。ただし──余計なことはしないように」
……あれが婚約者。
干渉してこないのであれば、こちらも静かに過ごせそうだ。
記憶はないが、せめて礼儀は保ちつつ、この環境を存分に利用させていただこう。
メイドが下がるのを見届けると、私は豪奢すぎる応接室をぐるりと見渡した。絵画も花瓶も、きっと高価なものばかりだが、触れて壊すのも失礼だ。ひとまず距離を置くことにする。
記憶はなくとも、私はおそらく裕福な家のお嬢様。そして婚約者は冷ややかながら、突き放すだけではない様子。──悪くない。
今日は部屋で休み、明日あたりは屋敷を案内してもらおう。紅茶とお菓子があれば、しばらくは退屈しないだろう。
席を立つと、すぐに控えていたメイドが近づいた。
「お部屋までご案内いたします、お嬢様」
彼女は歩幅を合わせ、私の様子を気遣いながら進む。
「この屋敷には……何部屋ほどあるんですか?」
「ええと、正確には存じませんが、寝室だけでも十はございます」
「……立派ですね。拝見するのが楽しみです」
思わず笑みを浮かべると、メイドも安心したように微笑んだ。
案内された自室は、これまた広く、天蓋付きベッドと大きな鏡台、書き物机まで揃っている。
「夕食までお時間がございますが、いかがなさいますか?」
「紅茶と甘いお菓子をいただけますか」
「かしこまりました」
ほどなくして運ばれた薔薇の香りの紅茶と、小さな焼き菓子。ひとくちかじると、ほろほろと崩れて口いっぱいにバターの香りが広がる。
「……とても美味しいです。どちらのお店のものですか?」
「屋敷の厨房でお作りしております」
「それは素晴らしい。毎日が楽しみになります」
紅茶を飲み干し、庭を眺める。色とりどりの花壇、その向こうには噴水。──悪くない。記憶がなくとも、暮らしは上々だ。
そこへ再びノックがあった。
「お嬢様、アラリック様から伝言です。『必要な物があれば執事に言え』とのことです」
「お気遣い、ありがたく存じます……とお伝えください」
……とはいえ、放っておかれるなら、こちらも静かに、しかし自由に動かせていただく。
廊下の突き当たりに見えた大きな扉、その向こうにはきっと書庫か温室があるはずだし、厨房も覗いてみたい。料理人と仲良くなれば、お菓子をこっそり……いや、追加で作っていただけるかもしれない。
扉に手をかけたとき、背後から低い声がした。
「……君はじっとしていられないのか」
振り向くと、そこにアラリック。さきほどよりも距離が近く、相変わらず冷ややかな眼差しだが、わずかに呆れを含んでいる。
「せっかく広い屋敷ですから。少し歩けば気分も変わります」
「転んで怪我でもしたらどうする」
「そのときは、お手を煩わせることになるでしょうね」
お嬢様らしさを意識して柔らかく笑みを返すと、彼の口元がほんの僅かに動いた。笑った……というより、何かを堪えているようにも見える。
「……好きにしろ。ただし本当に余計なことはするな」
「心得ております」
廊下を進むと、磨き込まれた床に自分の影が揺れる。
曲がり角の向こうから、年配の執事が一礼して通り過ぎた。
……広すぎて、まだこの屋敷の一割も知らない。明日はもう少し、遠くまで歩いてみよう。
背後で、先ほどの婚約者が短くため息をついた気がした。
けれど、私は足を止めなかった。