07:淀みはじめた心
「あ、そういえば。こういう場合、お祝いの品を渡した方が良いですよね。後日持ってきますね」
再び膨らんだ腹を撫でさせてもらいながら、アルゼンタムはマライアを見上げた。椅子に座ったマライアの前に跪いて会話しているので、なかなか誤解を生みそうな体勢である。マライアはさほど気にせず、アルゼンタムの言葉に考えるそぶりを見せた。
「そこまで気を使っていただかなくとも良いのですが……できれば、形が残らないものにして欲しいですね」
「そんなに嫌ですか……」
「女性からも旦那からもやきもちを妬かれますから」
実に徹底した予防線だった。既婚者だというのに甘えず、その辺りは抜かりなく埋めてくる。アルゼンタムは苦笑を浮かべて言う。
「分かりました。甘さを控えたお菓子でも持ってきます」
「分かってくれれば嬉しいです」
くす、と笑みを零すマライアに、アルゼンタムは戸惑いとともに焦燥を覚えた。その笑顔がとても好ましいものに思える反面、焦らなければならないような義務感に襲われる。
「……アルゼンタムさん、その、そんなに見られても困るのですが?」
「あ……、すみません。あまりに笑顔が綺麗でしたから、見蕩れてしまいました」
「…………あなた、いつか刺されますよ」
「え?」
自覚が無いのか、それともこの言い回しはアルゼンタムの通常なのか。整った顔立ちに柔らかな笑みを乗せてそんな台詞を吐くなど、勘違いをしろと言っているようなものだ。そのうち、この平和な街で傷害事件が起こるかもしれない。マライアはよく分からない不安と責任感を込めて、アルゼンタムに言った。
「アルゼンタムさんは、自分の言動に責任を持ちましょう」
「よく分かりませんが……嘘を言っているつもりは無いですよ?」
子供のように無邪気な笑顔で。そんな台詞を。敵は強大のようだ。むろん、女性の敵である。
アルゼンタムは何やら決意を新たにするマライアに首をかしげ、妊婦特有のマタニティーブルーというやつだろうかと聞きかじりの知識で誤解していた。
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屋敷に、香ばしい香りが漂っていた。グローリーは時計を確かめ、おやつの時間にはまだ早いだろうと首をかしげた。昼過ぎであるならともかく、今は午前中。先日、買い物に行ってからやたらといろいろなお菓子を作るようになっていたので、その影響だろうか。
なんにせよ、お菓子が食べられるのは嬉しいし、出来立てはもっと嬉しい。読んでいた本を閉じて放り出し、グローリーはキッチンに向かった。
「アル、おやつ?」
「俺はおやつじゃありません……っと、グローリーさん、熱いですから気をつけてください」
オーブンから取り出したばかりの鉄板を示して、アルゼンタムは言葉をかけた。グローリーはぴしっと姿勢を正して、そろそろと近寄る。
「タルト生地を焼いたんです。クリームをつめて冷やして完成なので、まだ食べちゃだめですよ」
「う、ちぇー」
唇を尖らせると、アルゼンタムは苦笑しながら手を動かした。狐色に妬きあがった生地を手際よく鉄板からおろしていく。
「これにクリームを入れるの?」
「熱いとクリームがだれてしまうので、荒熱をしっかりととってからですね」
「わたしもやっていい?」
グローリーの言葉に、アルゼンタムは手を止めてグローリーを見た。どうしてそんなことを言うのか分からない、と言いたげな、怪訝な顔。グローリーは迷いながら、丁寧に言葉を紡いだ。
「えっと、アルがいつもやってること、わたしもやってみたい。自分でやってみたいの」
アルゼンタムは視線を手元に戻し、無言で最後の生地を鉄板からおろした。シートを畳んで捨て、鉄板をグローリーの手の届かないところに置き、ようやく振り返る。
「……クリームつめるだけですよ」
「やったぁ!」
満面の笑顔を浮かべるグローリーに、アルゼンタムは苦笑してエプロンを外した。グローリーは駆け寄って、アルゼンタムの腕を取って見上げる。
「ね、どんな味なの? 甘い?」
「うーん、グローリーさんにはちょっとすっぱいかもしれませんね。レモン風味なんです」
「すっぱい? ……わたしには?」
ぴたりと立ち止まり、グローリーは笑顔を引っ込めた。困惑を浮かべるグローリーに、アルゼンタムは安心させるように頭を撫でる。
「街でいつもお世話になっている方に、お祝いの贈り物です」
「お祝いの贈り物……」
アルゼンタムの言葉を繰り返し、グローリーは再び笑みを浮かべた。アルゼンタムに内緒で行っている刺繍を思い出したのだ。あれもお祝いの贈り物だ。祝うのがこんなに楽しそうならば、祝われるのもきっと喜んでくれるだろう。
贈り物は、貰う人が欲しいもの、好きなものを贈るのだと学んでいる。グローリーはアルゼンタムを見上げ、考えながら口を開いた。
「その人はすっぱいものが好きなの?」
「いえ、特に好みは聞いていませんが……妊娠中はすっぱいものが食べたくなるって聞いたことがあったので」
「妊娠、中? ……女の人なの?」
グローリーは声が聞きとれないほどわずかに強張るのを感じた。自分が今どんな表情をしているか、分からない。アルゼンタムは柔らかく笑みを浮かべている。優しい声が聞きたくない結論を急ぐ。
「はい、マライアさんって方で、よくパンを買いに行くんです。グローリーさんも好きな……グローリーさん?」
「……わたし、やっぱりいい」
「え?」
「お手伝いできなくてごめんなさい。部屋、戻るね」
アルゼンタムの顔を見ずに、きびすを返して部屋へと戻る。ふらつくようにゆっくりだった足は、急かされるように駆け足になっていた。ドアを閉めてその場に座り込み、激しくなった動悸の中に思考が沈んでいく。
アルゼンタムと同じことがしたかった。手伝いたかった。見知らぬ誰かを祝おうと思った。それらの気持ちに偽りはなく、本心から思っていたことだった。
しかし、その対象が女の人だと知って全ての気持ちが吹き飛んだ。優しい声で女性の名前を呼ぶアルゼンタムに腹が立った。グローリーを撫でる手は子供にするそれでしかなかった。楽しそうに、自分以外の存在へと贈るものを用意する彼に、腹の底が重く淀んだ。
「アル……アルゼンタム……」
彼の名前を繰り返し呼ぶ。急に、慣れ親しんだこの屋敷が窮屈に思えた。広く狭いこの世界の中で、たった一人で過ごした時間を思い出した。彼はいつでもここから出て行くことができるという現実が、氷解した冷たい水が染み入るように思考に馴染んでいく。
「いや、いやだよ……わたしには、アルしかいないんだから」
だから奪わないで、と。小さな身体をかき抱いて、グローリーは耐えるように身を縮こまらせた。随分と久しぶりに、独りぼっちになった気がした。




