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「うーん…………」
バルコニーにテーブルを出させ、風にあたりながら昔の帳簿を調べていた桜子は、めくっていた頁から手を離して背もたれにもたれた。
集中力が途切れたのを見計らい、ひかえていた侍従が声をかけてくる。
「陛下。紅茶はいかがですか」
「いただくわ。銘柄はおまかせする。あと、なにか甘い物。ケーキを足して」
「かしこまりました」
ひかえていた侍女リュゼが一礼して、すばやく部屋を出て行く。
お湯とティーセットはすでに隣室に用意されており、侍従のソヴァールがポットに熱湯を注いだ。スタイルがいいせいか、それだけの仕草がいちいち様になる。
イケメンぞろいの花宮愛歌世界の中でも、この侍従はひときわ目を惹く美形だった。
桜子は、白磁のティーカップに赤茶色の液体を注ぐ青年の、やわらかそうな髪をぼんやり見つめる。すると青年が紅茶をテーブルに置きつつ、遠慮がちに訊ねてきた。
「畏れながら、陛下。私の顔に、なにかついておりますでしょうか?」
「へ? あ、ううん」
桜子はいそいで否定した。しげしげ見ていたのを誤解されたか。
「独特な色だと思って。そういう髪の色を、なんというのかしらね?」
「髪、でございますか? そうですね、人には『ローズグレイ』と言われます」
赤と灰色の中間のような髪色を、持ち主はそう表現した。
「ローズグレイ、か。格好いい表現ね」
桜子は何気なく評してティーカップに口をつける。
ぼんやり思い返した。
(ローズグレイ…………そういや、この漫画のヒロインも、薔薇系の色の髪だった気が。ローズレッドとかローズピンクとか言われてて、カラー表紙もピンクの髪で…………そもそもロヴィーサ王家の特徴が、薔薇系の色の髪…………)
「っ!!」
桜子は紅茶を吹き出しかけた。
とっさに堪え、慎重に口の中の液体を呑み込んで呼吸を整える。
「陛下? なにか…………」
「あなた…………兄弟とか、姉妹はいる…………?」
「兄弟、でございますか? …………妹が一人…………」
「…………妹さんも、ローズグレイの髪なのかしら?」
「いえ。妹はもっと明るく華やかな色合いの――――ローズピンクでしょうか」
「ひゅっ」と喉が変な音を立てて、桜子はカップを落としそうになった。
「陛下!?」
「だ、大丈夫…………気にしないで…………っ」
心配して顔をのぞき込んでくる青年を、桜子は手を挙げて制する。
内心は動揺しきっていた。
(『ローズ』つながりで思い出した…………こいつ、ヒロインの兄じゃないの!?)
呼吸を整えながら、懸命に記憶を引っぱり出す。
ローズグレイの髪の美形、ソヴァール・ラ・エーデル。
表向きはエーデル男爵の遠縁で女王付きの侍従の一人だが、その正体は前々ロヴィーサ国王イルシオン・サーブル・トゥ・オブリーオの結婚前の恋人の子で、ヒロインの異母兄にあたる。
そして『フェリシア~聖なる祈りの乙女~』本来の展開では、悪役女王ことアウラの恋人となるはずのキャラだった。
(しまった…………)
桜子は深呼吸しながら青ざめる。
(コイツ…………アウラを裏切るキャラだ!!)
そう。ソヴァールは最初、ヒロインであるフェリシアの幼い頃の初恋の君として登場する。そしてフェリシアがロヴィーサ王女と判明する前後、彼女と再会して「君を忘れたことはない」「この先もずっと君を想っている」みたいな台詞を残し、ふたたび姿を消す。
フェリシアはリーデルと愛し合うようになりながらも、心の隅にはソヴァールの面影が残る。
一方ソヴァールはアウラ女王と恋仲になり、読者に「この二人どうなるの?」と、やきもきさせつづける。そしてロヴィーサ王宮に聖女・ブリガンテ軍が攻め込んだ時、ソヴァールはアウラを脱出させると見せかけて彼女を捕え「自分はイルシオン王の隠し子で、フェリシアの異母兄」「アウラ女王に仕えていたのは復讐のため」「女王と親密になり、彼女の父に祖国を追われた父王の仇をとるチャンスをうかがっていた」と真実を明かすのだ。
(どうりで、やたら美形なはずよ、モブじゃないんだ! まずい。全然、気づかなかった。てっきり、ただの召使いの一人だと…………ヤバい、どうする!?)
必死に平静をよそおいながらも、背中に冷や汗が滂沱のごとく流れる。
(まさか…………この場で『お命ちょうだい』なんてことは…………!)
そっとソヴァールをうかがうと、彼は普通に女王陛下の具合を案じている風だった。少なくとも「即、暗殺!」という気配は見られない。
桜子もひとまず落ち着くことにした。
いったん気づかないふりをしよう。
「あの、私の妹が、なにか…………」
「いえ…………」
桜子は必死で頭を回転させる。彼と彼の妹は、アウラの父が反乱を起こしたせいでロヴィーサを追われ、王族としての何不自由ない生活を失って、庶民に落とされたのだ。アウラが下手なことを言えば、その恨みが倍増するだろう。
「私には、兄弟姉妹はいないから…………そういう存在がいたら、どういう人生だったのか。――――あなたのようなすてきな兄がいたら、妹は幸せだろう、と思ったのよ」
(これでいいか?)
桜子はソヴァールの顔を盗み見た。
彼は不思議そうな、やや驚いた表情をしている。
「妹が幸せ、でございますか?」
「幸せだと思うわ。こんな、見目麗しくて有能な兄がいるのだから。――――自分で、そう思わない?」
多少、ご機嫌とりのお世辞をまじえて桜子は語る。
しかしソヴァールは広い額に陰りを浮かべた。
「――――どうでしょう。私は妹に、なにもしてやれませんでした。ずっと、遠く離れていて…………」
理由は覚えていないが、彼ら兄妹は離れて育っている。おそらく彼の、国王の隠し子という出自に起因しているのだろう。正統な王女とは扱いが異なるのだ。
「離れていても自分を気にかけてくれる人がいるのは、幸いなことでしょう。私は――――」
桜子はそこで口をつぐんだ。
『私の両親は、どちらも離婚後に別の人と再婚して、その人との家庭に夢中で、前の伴侶との娘である私のことは、思い出したくないみたい。新しい家庭には兄弟姉妹がいるらしいけれど、私は会ったこともないの』と言おうとしてしまったのだ。
アウラは一人娘で、親である前王夫妻も幼い頃に死別した設定になっている。桜子とは家庭環境が異なるのだ。
「気にかけてくれる人…………そうでしょうか」
「そうだと思うわ。少なくとも、私はそうよ」
もの悲しげなソヴァールの問いに答える桜子の声にも、寂しさがにじむ。
(父も母も、大喧嘩の末に決別した。それでも…………再婚までは、定期的に連絡もくれたのに。再婚した途端、まったく音沙汰なくなって――――)
用があって桜子から連絡をとれば、口には出さないが「今の家庭に満足している」「だから前の家庭を思い出す桜子とは、関わりたくない」という空気をひしひし感じた。
(私には気にかけてくれる人はいない。就職のため上京してから、地元の友達と会う機会もなくなったし、短期の派遣をくりかえしているから、仲の良い同僚もできない。挙句に、恋人と思っていた男は既婚者よ?)
「あなたの妹さんは、幸せよ。遠く離れていても、あなたが自分を想ってくれていること、ちゃんと心で感じているはずだわ。それだけで良い兄よ。自信を持ちなさいな」
「自信…………」
実際、漫画を読んだ印象では、フェリシアの中の彼の存在は、小さなものではなかった。リーデルに恋しつつも…………という表現が散見されたし(相手が実の兄でなければ「それはどうなの?」となるが)、読者的にも『目尻が吊りあがり気味の、嫌味と皮肉が様になる知的な雰囲気の美形のくせに、妹はめちゃくちゃ溺愛する兄』というのがポイントだったはずだ。
桜子はソヴァールを励ました。つもりだった。
しかし、ソヴァールは浮かない表情のまま。
「自信など…………持ちようがございません。私は――――嫡子ではありません。父が、結婚前の恋人に産ませた、隠し子です。父の正統な血を引く妹とは――――違います」
眉間に苦しげにしわを寄せ、ソヴァールは目を閉じる。
「私は…………妹の影です。妹が父の栄光をとり戻し、正統を認められて、光の中に出て行く。その手伝いができれば――――妹が光をとり戻す踏み台になれれば、それで満足です」
「やめてよ、そんなの」
桜子は首をふって反対していた。
苦しげ、かつ寂しげな表情も美形は様になるが、その意見には賛同できない。
「どんな親から生まれるかなんて、子供にはどうにもならないことじゃない。嫡子とか非嫡子とか、そんなのは子供の責任じゃないわ。あなたも私も、堂々と生きればいい。兄弟姉妹に遠慮せずにね」
それが桜子の数少ない信念だった。
離婚した親のそれぞれに新しく生まれた子供達。半分だけ血のつながった、桜子の弟妹。
彼らのほうが両親に愛されているからといって。
なんで桜子が遠慮して生きていかねばならないのだ。
「堂々と…………」
ソヴァールは、自身の父と妹を陥れた男の娘の横顔を見つめる。その遠いまなざし。
「ん?」と気づいた。
「あなたも…………私も?」
ぎくっ、と桜子の心臓が跳ねた。
「私はともかく、陛下にご兄弟はいらっしゃらないのでは…………」
「あ、ああの、ええと」
桜子は高速で頭を回転させる。
「ものの例えじゃ! どのような親のもとに生まれるか、それは子供には選びようがない! ならば、どのような親であれ、その点については己が宿命とあきらめ、受け容れる他ない。そのうえで、己の望む未来へ進む。それが妾のやり方、生き方じゃ!」
誤魔化そうと焦るあまり、口調が変化した。
が、桜子の本音ではあった。
あの親から生まれたことはくつがえしようがない。
が、親とは関係なく、自分で自分の人生を歩んでいくことはできるはずだ。
「私は、私の生き方をする。親も兄弟も関係ない。あなたも自分のやりたいことを、やりたいように生きなさいな。堂々とね」
言って、ティーカップ内の残りに口をつけた。
我ながら、くさい台詞を吐いてしまった気がする。
ソヴァールからはなにも返答がない。
気恥ずかしさを誤魔化したくて、桜子は不自然に帳簿を手にとった。
「ずいぶんと熱心であらせられますが、何をお調べになっておられるのですか?」
ソヴァールが訊ねてくる。侍従が女王陛下の執務内容を探るのは越権行為だ。
しかし耳がうっすら赤いところをみると、彼も動揺していたのかもしれない。
女王陛下は咎めず、鷹揚に答えてやった。
「ちょっとね。昔の支出に、気になる数字を見つけたものだから」
「また不正でございますか?」
「それとは違うけど…………」
桜子は数字を一つ一つ指さしていきながら、あえてソヴァールに説明していく。
ソヴァールはだんだん困惑の色を深めていく。
「まあ、この件については、まだ推測の域を出ないわ。それより、こっちよ」
桜子は『気になる数字』の話を打ち切り、帳簿を閉じて、何枚ものメモ書きをひろげる。
「それは?」
「税制改革案。累進課税を導入したいのよ」
「るいしん…………?」
「累進課税。平たく言うと、収入が多い人ほど、高い割合で税金を払う制度。対象はもちろん、貴族。裕福な貴族ほど多く税を払うことになるから、国庫の収入はぐんと増えるはずよ。試算上はね」
ソヴァールは驚いたようだった。
「奢侈税に加え、さらに貴族に課税するのですか?」
「そう。貧しい庶民に重税をかけるより、たくさん持っているところから、たくさんとったほうが早いでしょう?」
「ですが、これ以上の課税は、貴族達も反対するでしょう」
「問題はそこなのよね…………」
奢侈税はどうにか承諾させた。が、これ以上の課税となると、大臣達も「是」とは言わないだろう。彼らも貴族なのだから。
「色々考えてはいるのよ。一番いいのは、多額の税金を払うことが自慢になるような風潮を作ること、でしょうね。貴族達は叙勲とか大好きだから、高額納税者ランキングを作って、上位者は国への貢献者として表彰する、とかね」
桜子はメモ書きを見下ろす。
「――――恐れながら、少々いそぎ過ぎでは? 奢侈税をはじめて、まだ半年も経っておりません。これでさらに課税となると、貴族達も…………」
「でも、のんびりはできないのよ」
処刑まで、残り一年半。
貴族からの反発をくらっても、とにかく国民への減税を進めて、アウラ女王への支持をとり戻さなければ『異国から戻った正統なロヴィーサ王女』による断罪が待っている。
「何故、陛下がそこまで…………」
「死にたくないからよ。それと…………今は、私が女王だもの。だったら、女王として全力を尽くすべきでしょう?」
我ながら格好をつけたものだ、と思う。
でも本心だった。
処刑は嫌だから、そしてロヴィーサ国民が苦しんでいるのも気分が悪いから、できることをやっている。
一介の平民なら、桜子にできることはないので「気の毒だけど、がんばってね」で終わる。
しかし今の桜子は女王だ。できることが色々ある。
ならば試してみるべきと思うのだ。
少なくとも、自分も生活には苦労させられた身。
「ロヴィーサ国民は重税にあえいでいる」と聞けば、なにもせずにはいられなかった。
「陛下…………」
バルコニーに沈黙が流れる。
その隙をついて第三の声が割り込んできた。
「お待たせして申し訳ありません、女王陛下。ケーキをお持ちしました」
先ほど退室した侍女のリュゼが、ケーキを乗せた盆を持ってたたずんでいる。ずっと出るタイミングを計っていたのだ。
ソヴァールは我に返ったように表情を消して「失礼します」と、テーブルの上にひろげられていた帳簿やメモの位置をずらし、空いたスペースにリュゼがケーキを置く。
本日のケーキは、白い粉砂糖をたっぷりふったガトーショコラ。
桜子はほろ苦いしっとりしたスポンジを口に運びながら、つかのまの息抜きを味わった。
その数日後。
「ブリガンテ軍がロヴィーサ国境に接近!
『ロヴィーサの正統な王女』を名乗る娘が『アウラ女王を倒して、正統なロヴィーサ王家を復活させる』と宣言しております!!」
という一報がもたらされた。
「ドゥーカ公爵、謀反!!」
の知らせと共に。