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猪口齢糖パニック

 薬研堀での用事を済ませると、まだ明るいが、かなり日は傾いていた。俺は買った物を全て腕輪に収納して品川宿を目指した。



「ただいま戻りました」

「おや良太さん、おかえりなさい。もう皆さんお戻りですよ」

「おかえりなさいまし」


 品川宿の蕎麦屋、竹林庵の暖簾をくぐると、店主の伊助さんと奥さんの、おたつさんがが迎えてくれた。


「二階ですね?」

「ええ」


 既に第二の我が家のような店内に入ると、俺は二階の座敷へ向かった。


「ただいま戻りました」

「おかえり」

「おかえりなさい、兄上!」

「おかえりなさいませ」


 座敷に入ると、おりょうさん、頼華ちゃん、胡蝶さんが、お茶を飲みながら寛いでいた。


「良太、正恒の旦那から、荷物が届いてるよ」

「ああ、届きましたか」


 おりょうさんから、藁を編んだむしろに包まれた荷物を受け取った。中から金属が触れ合う音がする。


 開けてみると、正恒さんに依頼した鰻を裂く時に使う目打ちと、俺の趣味で制作して貰った物が出て来た。とりあえずは目打ちだけを取り出して、それぞれを福袋に収納した。


「それはそうと、買い物の方は済みました?」

「ああ。似合ってるだろ?」


 おりょうさんに言われて頼華ちゃんを見れば、別れる前とは着物が違っているのに気が付いた。


「新しい着物も良く似合うね」

「ありがとうございます!」


 頼華ちゃんは、俺が褒めたのが嬉しかったのか。その場で立ち上がってクルっと回ってみたりする。


「……それだけかい?」

「え……」

「……」


 何故か、嬉しそうな笑顔の頼華ちゃんとは対象的に、おりょうさんと胡蝶さんがジト目で俺を見てくる。一体何が……はっ!


「お、おりょうさんも胡蝶さんも、良く似合ってますよ。新しい着物」

「おやそうかい?」

「お世辞でも嬉しいです」


 自分達から俺が褒めるように仕向けたのに、二人とも嬉しそうにしてくれている。なんとか地雷を踏むのは回避出来たようだ。危ない危ない……。


「あ、そ、そうだ! 実は今日買い物をした店で、お菓子を貰ったんですよ。食べますか?」


 なんとか話題を変えようと、俺はドランさんから貰ったお菓子の箱を取り出した。金属製なので、箱よりは罐と呼ぶ方が正しいか。


「お菓子っ!?」

「ぼちぼちいい時間だから、湯屋に行って、夕食の後に頂こうかね」

「うう、お菓子……わかりました、姉上」


 中身の確認もせずに、真っ先に頼華ちゃんがお菓子という言葉に食いついたが、おりょうさんに機先を制されて、おとなしく引き下がった。


「そいじゃ行こうかね」

「姉様、兄様、早く早く!」


 既に頭が、湯屋と夕食をすっ飛ばしてお菓子に行ってしまっている頼華ちゃんに急かされて、俺達は湯屋に向かった。



「ごちそーさまでした! 兄上、お菓子の時間ですよ!」


 なんかお菓子のキャッチフレーズみたいな事を言いながら、夕食を食べ終わった頼華ちゃんが詰め寄ってきた。


 ちなみに夕食の献立は、沖漬けにしたイカを焼いた物と、ゴボウとイワシのつみれ汁で、ワイルドな味わいのイカが特にうまかった。


「はいはい。少し苦いから、口に合うかな?」


 金属の罐を取り出して蓋を開けた。甘く濃厚な香りが広がる。


「なんか、見た目にはおいしく無さそうだねぇ……」

「確かに、この色は……」


 頂いたドランさんが試食して一部が無くなっている以外は、罐の中には二センチ角くらいの大きさの、焦げ茶色の塊、猪口齢糖(チョコレート)が隙間無く詰まっている。


 おりょうさんと胡蝶さんの言う通りで、俺も予備知識がなければ、この色の食べ物には手を出すのを躊躇ったかもしれない。


「大丈夫ですよ。猪口齢糖(チョコレート)という輸入品のお菓子で、ちょっと色には抵抗があるかもしれませんけど、味は甘くて少し苦いだけです」

「甘くて苦いって、あのぷりんとかいうのの、底の黒い奴と同じような味かい?」

「プリンのカラメル……うーん、ちょっと違いますね」


 チョコってチョコ味で、何かに似ていると例えるのは難しいな。ココアだって、原料はカカオだしな。そもそもココアはまだ無いだろうし。


「心配なら、俺が先に食べますよ」


 そう言って、俺はチョコを一片取り出して口に運んだ。む……かなり堅い歯応えだな。お菓子というよりは、製菓材料のチョコみたいだ。でも、少し経つと口の中の温度で溶けて、カカオの濃厚な風味が広がった。


(チョコレートって、確かインカの食べ物……飲み物だっけ? ドランさんに譲ってもらったじゃが芋も新大陸、ペルー辺りが原産だったはずだから、既にアメリカ大陸は発見されていて、交易とかが行われているという事だな)


「私は頂きます! ん……本当だ! ちょっとだけ苦いですけど、甘くておいしいです! もっと食べていいですか?」


 健康そうな白い歯で、頼華ちゃんはあまり躊躇する事も無く、口に放り込んだチョコを一気に噛み砕いたみたいだ。虫歯の心配は無さそうだな。


「いいけど、おりょうさんもお蝶さんも、味見しないでいいですか?」

「そいじゃひとつ……おや、苦い中に甘い味があって、なんかちょっと、酒にも合いそうだねぇ」


 ウィスキーとかブランデーにチョコを合わせるって話は聞いた事があるな。ウィスキーボンボンなんて物もあったっけ。


「本当ですか? ん……あら、独特の味わいで、意外においしいですね」


 おりょうさんの感想を聞いてから、胡蝶さんも食べてみて驚いている。結果的に、先に食べた二人に毒味をさせているみたいな感じになっているけど、お付きの人の行動としてはどうなんだこれは? あ、でも立場上は、主人より先に食べる訳にもいかないのかな?


「りょうた兄上、もっと食べてもいいですか?」

「あ、うん。構わないよ」


 頼華ちゃんに応えてから、チョコはカレーの味付けにも使えたなとか思ったけど、元々考えていなかった上に、たまたま貰っただけの物だしな。第一、カレーがうまい具合に完成するのかもわからないのだ。


「……ん?」

「……」

「……」

「……」


 味が濃厚すぎるので、俺は二つ目には手を伸ばさないでいたが、気がつけば、おりょうさん、頼華ちゃん、胡蝶さんは、黙々と、そして次から次へとチョコを口に運んでいた。


「あの、もうその辺にしておいた方が……」


 いいんじゃ、と、言い切らないうちに、俺は異変に気が付いた。なんか三人共、妙に火照ったような顔をして、少し呼吸が荒くなっている。


「ん……はぁー……」

「んっ、ふぅー……」


 おりょうさんと胡蝶さんが、妙に色っぽく吐息を漏らしている。一体何が……。


「……」

「頼華ちゃん?」


 頼華ちゃんはと見ると、何か俯いたまま、身体を小刻みに震わせている。


「らい……」

「うぅー……」


 もう一度声をかけようとしたら、何か唸り声のような物が聞こえてくる。


「あつーいっ!!」

「なぁっ!?」


 一声叫ぶと、頼華ちゃんは立ち上がりながら、両手で着物の胸元を掴み、襦袢ごと一気に引き裂いた。


「あ、あにうえぇ……あつい、あついのです……」

「ぐはっ!?」


 既に着物ではなくなった布の切れ端を身に纏った頼華ちゃんが、俺に抱きついてきた。全く加減の無いフルパワーと思われるその行為は回避する間も無く、押し倒された俺の胸を強烈に締め付け、肺の空気が絞り出された。


「ら、頼華ちゃん、くるし……え、おりょうさん?」


 頼華ちゃんに抱きつかれたままの体勢の俺の目に、ゆらりと立ち上がったおりょうさんが映った。


 おぼつかない足取りで歩み寄り、すぐ横に膝をついたおりょうさんは、濡れたような瞳で俺を見下ろす。


「ああ……りょうたぁ……か、からだがほてっちゃって……な、なんとかしておくれよぅ……」


 泣きそうな顔で懇願しながら、おりょうさんは少し着物がはだけた胸元に、俺の頭を抱え込んだ。熱く柔らかい物を、頬に直に感じる。


「お、おりょうさん、頼華ちゃんも……いったいどうしたって……ん?」


 この世の物とは思えない柔らかい感触の魔力になんとか抗い、顔を少しだけずらすと、辛うじて自由になっている左腕が何かに掴まれ、手のひらに柔らかい物が押し付けられた。


「ん……はぁぁ……もっと……もっと、強く……」

「胡蝶さん!?」


 見間違いであって欲しかったが俺の手のひらは、想像よりも遥かに豊かな胡蝶さんの胸に、グイグイと押し付けられている。


(い、いかんっ! おりょうさんと胡蝶さんはなんとかなるけど、頼華ちゃんをどうやって振りほどく!?)


 美女二人と美少女に迫られるという男の夢のような状況だが、一度に三人からという考えられないシチュエーションのおかげで、逆に頭の中に冷静な部分が発生してしまった。これが三人のうちの誰かと二人っきりとかだったら我慢出来たのかは相当に怪しい。


(……流されちゃってもいいかな?)


 なんて、一瞬だけど思ったのは内緒だ!


 頼華ちゃんの膂力は、柔道やレスリングのメダリスト以上だろう。だとすると現状のままで、とりあえずはおりょうさんと胡蝶さんをなんとかするしか……ここは心を鬼にして、非常手段を取ろう。


「ん……」

「ああんっ!?」

「ひやぁんっ!?」


 俺は罪悪感を感じながらも、伸ばした手でおりょうさんの形の良いお尻の辺りを一撫でし、胡蝶さんの胸に押し付けられている手に、少しだけ力を込めた。すると、二人の拘束する力が緩んだ。


「いまだっ!」


 怪我をさせないように、出来るだけ穏便におりょうさんと胡蝶さんを振りほどくと、頼華ちゃんを身体に抱きつかせたまま床に置かれていた福袋を掴み、窓の外へ身を躍らせた。


「良太ぁっ! 行っちゃいやぁっ!」

「良太様ぁっ!」


 切なげな女性二人の呼び声に後ろ髪を引かれながら、俺は通りを挟んだ家の屋根へと飛び移る。


(なんかもう間男か夜這いに失敗した奴みたいで、凄く情けない図だな……しかもボロボロの着物の美少女をまとわりつかせてるって、どういう状況だよ!)


 心の中でツッコミを入れながら、懐いている猫みたいに身体のあっちこっちを俺にこすりつけてくる頼華ちゃんを極力意識しないようにし、屋根から屋根へと飛び移りながら浅草の方角、開店準備中の嘉兵衛さんの店を目指した。



「誰もいない、な?」


 俺達が夕食を終えて一段落したくらいの時間なので、当然のように嘉兵衛さんの新店舗には誰もいなかった。俺は店の裏口の方に向けて、横の路地を歩く。


 裏口から木戸を開けて中に入ると、既に大工さんや左官屋さんの作業は終わったようで、広いだけだった裏口付近の構造が変わっていた。入ってすぐ左手に、新たに小部屋が出来ていたる。


 音を立てないようにしながら店の奥に進み、階段下の隠し扉から地下室へ下りる。相変わらず頼華ちゃんは俺に抱きついたまま、嬉しそうな顔で身体をスリスリさせてくる。参るなぁ……。


「さて、ちょっと手荒になるけど……ごめんね、頼華ちゃん!」

「っ!?」


 首に回されている頼華ちゃんの腕を、目一杯の力で引き剥がそうとするが、離されまいと対抗してくる。


「くっ……」

「ぐぬぬ……」


 物凄い膂力な上に、懸命にしがみついてくる頼華ちゃんは、服に覆われていない露出している俺の首や背中に、容赦なく爪を立ててくる。


 (エーテル)の護りがあるはずなのに、それを突破して爪が皮膚に食い込んだ。


 しかし俺は痛みは無視して、爪痕が残る事など気にせずに、ジリジリと力任せに拘束を解いていく。


「ううー……」


 なんとか両腕から逃れると、頼華ちゃんが悲しそうな顔で唸った。往生際悪く、両脚で俺の身体を離すまいと締め付けてくる。


「まさか早速、出番が来るとはな……」


 身体を前に押し倒すような姿勢になり、なんとか片手で頼華ちゃんの両方の手首を押さえた俺は、福袋から正恒さんへの依頼品の入ったむしろを取り出すと、中には金属製の鎖が入っていた。


「ん……」


 鎖の片方の端は忍者が使う苦無(くない)のような刃物が付いていて、もう片方には手のひらに収まるくらいの長さの棒状の金属のパーツが付いている。


 俺は頼華ちゃんを傷つけないように刃物が先になっている方を手に持つと、(エーテル)を鎖に込めた。


 俺の意思に従って操作された四メートルほどの長さの鎖は、蛇のように頼華ちゃんの腕の上から螺旋状に巻き付き、首から下の自由を奪った形で拘束した。


「んーっ! んーっ!」


 鎖に自由を奪われた頼華ちゃんは、為す術もなく床に転がったが、まだ興奮状態で思考能力も落ちているのか、思い通りに言葉も出ない様子で目を見開いて歯を食いしばり、なんとか拘束を振り解こうともがいている。


「な、なんとかなったか……っててて」


 手から鎖に(エーテル)を送りながらだが、少しだけ心に余裕が出来ると首や背中が爪でズタズタになっているのを自覚して、今頃になって痛み出した。だが、そんな事は後回しだ。


「なんとか出来ないものか……」


 俺は寝ている頼華ちゃんの身体を見ながら目を凝らす。すると頭の辺りとお腹の辺りに、ぼんやりと赤っぽい色の揺らぎが見えた。


「この場合は、(エーテル)を送り込むんじゃなくて、散らしたり吸収する方向で……」


 俺は頼華ちゃんの頭の揺らぎの辺りに手のひらを近づけ、その揺らぎを自分の中に吸い込むイメージを描く。


「くっ……」


 手のひらから、頼華ちゃんの状態をおかしくしている成分が入り込んでくるのを自覚し、カッと身体が熱くなる。


 元々美少女の頼華ちゃんが、この世の物ではない程に美しく見えて理性が吹き飛びそうになるが、意志の力を総動員して必死に堪える。


(こ、これはきつい……)


 ただでさえ熱くなっている身体の中でも、更に頭と腹の辺りがぼんやりと熱くなってくる。俺は眼の前の頼華ちゃんを抱きしめたくなる衝動に抗いながら、取り込んだおかしな成分を、自分の中の(エーテル)と練り合わせて体内に循環させていく。


「ふっ……ふぅぅ……」


 まだ少し息が荒いが、頼華ちゃんの火照ったようになっていた表情と顔色が少し落ち着いてきた。同時に、俺の方も衝動が収まり、取り込んだ成分の違和感は徐々に薄れていき、やがて完全に無くなった。


「ふぅ……頼華ちゃん、大丈夫?」


 落ち着いた様に見える頼華ちゃんを鎖の拘束から解き放ったが、ぼんやりとした表情で虚空を見つめたまま動かない。


(あれ、消耗するほどは(エーテル)は吸収しなかったはずだけど、やりすぎちゃったか?)


 ほどいた鎖を腕輪に収納した俺は、まだ力加減が下手くそな自分の(エーテル)の操作で、ダメージを与えてしまったのかと心配になり、上半身を抱き起こす。


「頼華ちゃん?」

「ふ、ふぇぇぇ……」

「ら、頼華ちゃん!?」


 頼華ちゃんの瞳がゆらゆらと揺れていると思ったら、次の瞬間に一気に涙が溢れた。


「ごめんなさい……ごめんなさいぃぃぃ……」

「ごめんなさいって……俺は怒ってないよ?」


 声が聞こえているのか聞こえてないのか、俺の胸に顔を埋めて、頼華ちゃんは泣きじゃくる。


「あ、あんなはしたないことをしてしまって……そ、それに、あにうえを、きずつけてしまいました……」

「はしたないって……まあ、うん……」


 おそらく、頼華ちゃんを始めとする三人がおかしくなったのは、チョコが原因だろう。かつては媚薬としても使われたチョコは、刺激の少ないこの世界の日本人には、効果覿面だったようだ。


「きらいに……きらいにならないでください……あにうえにきらわれたら、よは……」

「嫌いになんかならないよ。こんなに可愛い頼華ちゃんの事を」

「ふぇっ!? か、可愛いって、本当ですか!?」


 急に泣き止んだ頼華ちゃんは、涙まみれの顔を起こして俺を見た。


「ああもう。綺麗な顔が台無しだ」


 俺は手拭いを取り出して、頼華ちゃんの顔から涙その他をなるべく優しく拭き取る。少し鼻の辺りが赤いが、改めて至近距離で見る頼華ちゃんは、本当に美少女だ。


「……余は、綺麗ですか?」

「うん。とっても」

「嫁にしたいくらいに、ですか?」

「そ、それは……」


 真っ直ぐに見つめてくる頼華ちゃんに問いかけられ、俺は言葉に詰まる。


「あんな、はしたない姿を見られて……もう、余は、兄上に娶って頂くしか……」

「いや、気持ちはわかるけどね……」


 竹林庵から今の時点までの出来事を、全て覚えているのかはわからないけど、ボロ布を身に纏ったあられもない姿で迫るのを見られたんだから、気持ちはわからなくもない。でも、被害者は俺なんだけどね。


「余が嫌いですか?」

「嫌いな訳無いよ。でも、頼華ちゃんの気持ちに答えを出す前に、おりょうさんにも出さなきゃいけないんだ」

「姉上にもですか?」

「うん」


 実はもう一人いるんだけど、後回しでも問題無いだろう。


(問題ありますぅ!)


 幻聴が聞こえるとは、今日は疲れてるな。


「余は側室でも構いませんよ?」

「側室って……まだ正室もいないからね?」


 頼華ちゃんの常識では、側室とかは当たり前なんだろうか? 一夫多妻とか、俺には自信無いなぁ。


「わかりました。姉上の件が決着しましたら、必ず余にも答えをお聞かせ下さい。でも、もしダメだったら……」

「なんでそんな、世を儚んだみたいな顔してるの!?」


 厭世観たっぷりの表情をした頼華ちゃんは、フッと小さく溜め息をついた。これって脅迫だよな?


「あー……頼華ちゃん、汚れちゃったから、お風呂に入ろうか?」


 なんとか話題を変えようと、俺は頼華ちゃんに提案した。地下室も掃除はしてあったけど転げ回ったし、髪の毛なんかボサボサになっちゃってる。


「風呂ですか? でも、この格好で湯屋に行くのは……」


 既にボロボロだった着物は、ここに来てからの取っ組み合いもあって、既に衣類としての役目は終えてしまっている状態だ。


 俺の方も傷からの出血なんかで少なからず汚れているが、服の方は付与のおかげで破損も汚れも大丈夫だ。


「実は嘉兵衛さんにお願いして、ここで風呂に入れるようになってるんだ」

「ここで、ですか?」

「うん。とりあえず、上に行こうか」


 俺は萬屋で買ったばかりの灰色の外套を取り出して、頼華ちゃんに渡した。頼華ちゃんが着ると丈が長過ぎて地面に引きずりそうだが、まるで暴漢にでも襲われたような見た目の全身を覆い隠してくれる。


 俺も目のやり場に困っていたので、頼華ちゃんが外套を羽織った姿を見てホッとした。なんか可愛いてるてる坊主みたいで和む。


「兄上」

「ん?」

「だっこして運んで下さい」


 少し恥ずかしそうに、頼華ちゃんが両手を広げて俺を待ち構える。もう、チョコの毒は抜けたんだよな?


「いいよ。ほらっ」

「ひゃあっ!?」


 自分から言った事なのに俺が抱えあげると、頼華ちゃんは驚いたみたいな声を出した。


「しっかり掴まっててね」

「はい……」


 苦しくない程度にだが、頼華ちゃんが俺の首に回した腕に力を入れるのを確認し、急な階段を上がっていく。


 裏口の脇のスペースまで歩き、新たに設けられた扉を開けると、そこは小さな部屋になっていた。


 部屋の中には腰より少し低い高さの大きな木桶と小さな桶、木製のすのこが立て掛けられていて、壁の一部には灯り取りと、換気用に小さな窓が設けられている。


 部屋の内部は土壁だった部分と、緩やかな傾斜のついた床は漆喰でコーティングされ、流した湯を壁の下側に開けられた小さな穴から店の裏に排水出来る構造になっている。


「ちょっと準備するから待っててね」

「はい」


 一度、頼華ちゃんを座敷の方に座らせると、俺は裏口を出て井戸から水を汲み、何往復かして小部屋の大きな桶に半分くらい水を溜める。


(うーん。家風呂ってだけで贅沢なんだけど効率悪いな。手押しポンプとか手に入らないかな? ドランさんの店なら、もしかして扱ってるかな)


 そんな事を考えながら、金貨を一枚取り出して手のひらに載せ、不動明王の権能を込めるようにイメージする。


 機能としては温度調整で、流し込む(エーテル)の量に応じて温度を上げ、または下げ、持続時間もエーテルの量で決まる。


「多分、大丈夫だよな?」


 一応は観世音菩薩様に確認したので大丈夫なはずだ。俺は権能を付与した金貨に(エーテル)を流し込み、温度を上昇させていくイメージをする。


「うん。熱くなってきてるな」


 狙い通り、火傷しそうに熱くなった金貨を大きな桶に落とし込むと、更に水を汲んで溜めていく。


「こんなもんかな?」


 桶の八分目くらいまで水を溜めた時点で、金貨の発熱で入浴に丁度いいくらいまで湯温が上がった。流し込んだ(エーテル)が切れた金貨を桶の中から取り出して、床にすのこを置いた。


「頼華ちゃん、お待たせ」

「はい」


 座敷から歩いてきた頼華ちゃんは、羽織っていた外套を脱いだ。


「ら、頼華ちゃん!?」

「はい?」


 外套の下から出て来た頼華ちゃんの身体には、一糸も纏われていなかった。灯りの無い暗闇の中でも眩いくらいの裸身が俺の目を強烈に射たので、慌てて後ろを向く。


「き、着物は?」

「鬱陶しいので、座敷で脱ぐというか、外しておきました。いけませんでしたか?」

「いけなくはないけど……あの、一応俺も男なんで……」

「湯屋ではお互いに裸を見ているではないですか?」

「そりゃそうなんだけどね……」


 湯屋は混浴だから、一緒に行けば必然的に見る事にも見せる事にもなるんだけど……。


「あの、兄上」

「な、何かな?」

「その、まだ私は自分でうまく身体を洗えませんので、一緒に入って下さいませんか?」

「あー……」


 お姫様の頼華ちゃんは、鎌倉の実家ではお付きの女性達に身体を洗ってもらうのが当たり前の生活をしていて、江戸に出てきてからも基本的には、胡蝶さんやおりょうさんが手伝ってたんだった。


「はぁ……わかった。手伝うよ」

「お願いします」


 俺も服を脱いで、手拭いと萬屋で買った石鹸を用意して小部屋、浴室に入った。


(平常心、平常心……)


 変に恥ずかしがると余計に頼華ちゃんを意識してしまうので、俺は堂々とした態度で小さな桶から湯を汲んで、自分と頼華ちゃんの身体を流した。


「……」


 大きな桶の縁を跨いで、俺が身体を湯に浸けようとしても、今更恥ずかしくなったのか、頼華ちゃんは入ってこようとしないでいる。


「どうしたの?」

「あの、兄上……あ、脚を開いて入るの、恥ずかしい、です……」

「っ!?」


 言われてみれば、湯屋の湯船は沸かした湯を流し込む、構造的に低い位置に設けてあるので、跨ぐような動作は必要無い。


「えっと……じゃあ、失礼するね」

「あっ!?」


 さすがに正面は恥ずかしいので、頼華ちゃんの背中側から脇の下に手を入れ、持ち上げて桶の中に降ろした。


「あ、ありがとうございます……」

「ど、どういたしまして。さ、浸かろうか」


 嘉兵衛さんに手配してもらったこの桶は本来は漬物用で、一年分くらいをまとめて漬け込めるサイズの桶の縁を低く誂えてもらったので、並べば二人でも浸かる事が出来る。


「はい……」

「う……」


 肩が触れ合うくらいは覚悟していたが、頼華ちゃんは俺に寄り添うように身体を預けてくる。さっきの「だっこ」といい、甘えたくなる心理状態なんだろうか?


「あ、あったまったかな? じゃあ洗おうか」

「はい……」


 いつも素直な頼華ちゃんだが、今は素直と言うよりは俺の言うがままになっている。


「新兵器を用意したから、驚かないでね」

「新兵器?」


 俺は萬屋で買った石鹸を手拭いに擦り付けて泡だて、先ずは頼華ちゃんの腕から洗い始めた。


「おお!? 凄い、泡々です!」

「そうでしょ? 汚れも良く落ちるんだよ」

「なんか気持ちもいいです!」


 少しいつもの調子に戻ってきた頼華ちゃんの身体を、なるべく意識せずに作業的に洗っていく。腕や背中を洗い終わったら当然のようにこっちを向いたので、前も……。


「凄くさっぱりした気がします! でも、ちょっと髪の毛がキシキシします……」


 身体の後に、髪の毛も石鹸で洗ったが、泡と共に汚れを湯で流すと、頼華ちゃんの言うように少し手に抵抗があった。


「やっぱりそうなっちゃうか……ちょっと待っててね」

「はい」


 俺は扉を開けて厨房に出ると、勝手知ったるで調理用の酢を持って浴室に戻った。


「確か石鹸シャンプーの後で、酢でリンスするって聞いたから……」


 好きな漫画家さんの日記漫画にそんな記述があったのを思い出して、俺は持ってきた酢をほんの少し、小さな桶に汲んだ湯で薄め、頼華ちゃんの髪の毛に馴染ませてから流した。少し酢の匂いは気になるけど、髪の毛の指通りが凄く良くなった。


「はい、おしまい。俺も手早く洗っちゃうから、頼華ちゃんは先に出ててね」


 お肌ツルツル、髪の毛はツヤツヤになった頼華ちゃん。すっかり作業に没頭し、その姿に何とも言えない達成感を得た俺は、絞った手拭いで仕上げに頼華ちゃんの身体を拭いた。


「兄上、あの……お、お背中流させて頂きますっ!」

 

 半ば無理矢理、俺から手拭いを奪い取った頼華ちゃんは、見様見真似で石鹸を泡立てると、力いっぱい俺の背中を擦った。


「いっ!?」

「!? も、申し訳ありませんっ!」

「うん……もう少し、力は抜いていいからね」

「は、はいっ!」



 自分で洗う時の数倍の時間を掛けて洗ってもらい、ようやく頼華ちゃんが開放してくれた。乾いた手拭いを取り出し、自分と頼華ちゃんの身体を拭く。


 特に頼華ちゃんの長い髪は丁寧に水気を拭き取り、藤沢で買っておいた櫛で念入りにブラッシングする。


「頼華ちゃんの髪の毛は綺麗だね」

「兄上に洗ってもらって、もっと綺麗になったと思います!」


 髪を(くしけず)られながら、無邪気に頼華ちゃんが微笑む。こういう素直なところは本当に可愛い。


「あの、兄上……」

「なにかな?」

「首周りと、お背中の怪我は大丈夫ですか?」

「ああ。大丈夫だよ。もう殆ど気にならない」


 実は頼華ちゃんから変質した(エーテル)を吸収して練り直していた時点で、自分の身体の修復も行われていた。傷が出来た箇所にまだ少し違和感はあるが、殆ど気にならないレベルだ。


「こんなもんかな? じゃあ服を着て……って、頼華ちゃんは、竹林庵までは外套を着ていくしか無いか」


 俺の服と違って頼華ちゃんの着物には自動修復の付与なんか無いから、着替えがある竹林庵までは外套を着ていくくらいしか無い。俺の予備の着物では、サイズ的に無理があるしなぁ。


「あ。頼華ちゃんは履物も無いんだよね……」


 俺も竹林庵に鵺の靴を脱いできてあるが、福袋にこの世界に来た時に履いていた草鞋があるので、問題は無い。


「じゃ、じゃあ兄上に、だっこして連れてってもらえますね!?」

「まあ、そうなるかな」


 元の世界の日本と違い、アスファルトで舗装されたりしている訳じゃないから、それ程足には負担は掛からないだろうけど、短くは無い距離を頼華ちゃんに裸足で歩かせるのは可哀想だ。


「えへへ……」


 何故か頼華ちゃんが嬉しそうだ。風呂の湯を捨てて桶を洗い、外套にくるまった頼華ちゃんを抱き上げると、俺達は品川宿に向けて歩き始めた。



 さて、竹林庵はどうなっているやら……。

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