薬研堀
「あ、鈴白さん」
萬屋を出て、数歩歩いたところで、俺はドランさんに呼び止められた。
「なんでしょうか?」
「いやぁ、いかんいかん。お渡ししようと思っていた物があったのですが、他の事に気を取られているうちに、すっかり忘れておりました。ちょっと取ってきますから、少しだけお待ち頂けますか?」
「ええ」
店内に入ったドランさんは、すぐに戻ってきた。何か金属の箱を持っている。
「これなんですけどね。お菓子です」
ドランさんは、多分英語だろう文字が表面に書いてある、金属の箱の蓋を開けて中身を俺に見せた。独特な甘い匂いが広がる。
「鈴白さんはどうかわかりませんが、先日一緒にいらしたお嬢さんなら、こういうのは好きなんじゃないかと思いましてね」
「それはありがとうございます。でもこれ、高いんじゃないんですか?」
箱の文字からして輸入品のこれは、石鹸の例もある通り、決して安くは無いはずだ。
「まあ、買えばそれなりにするんですが、知り合いの商人が、保存が効くから味見しろって持ち込んできたんですけど、私の口には合いませんでね。ですから食べかけですが、それでも良ければ」
ドランさんに言われて、箱の中身の一部分が無くなっているのに気がついた。
「ありがとうございます。食べてもらって、もし口に合わなかったら、俺が頂きます」
おりょうさん以外に、頼華ちゃんや胡蝶さんもいるので、誰かの口には合うかもしれない。
「それでは、足を止めてしまいましたが、改めまして、本日はありがとうございました」
「こちらこそ、また何かありましたら、宜しくお願いします」
最後にお互いに深く頭を下げ合って、俺は萬屋に背を向けて歩き出した。
萬屋には二時間ほど滞在した。
「ここまで来たから、お参りしておくか」
嘉兵衛さんの店からも遠くないのだが、なんとなく行きそびれていた浅草寺へ詣でる事にした。授かった権能を使っているのに、すっかり不義理をしてしまっている。
手水舎で身を清めてから参詣をする。お賽銭は銀貨一枚と、自分にしては高額だが、それくらい権能にはお世話になっている。
「ん?」
もう何度か経験している、周囲の音が消える現象が発生した。
「高額の寄進、感謝するぞ」
「いえ、お世話になってますから」
降臨した観世音菩薩様が単刀直入に語りかけてきたので、俺の方も応じた。一応、参詣の作法を守って手を合わせた後なので、失礼にはならないだろう。
「それにしても、源に八幡神とまで縁を結ぶとは、お主は本当に面白いのぉ」
「ひょっとして、あまり良くない事だったでしょうか?」
夢の中にまで出てきたという事は、何か不都合があったのかもしれないと思い、念の為に訊いてみた。
「いや。特に問題は無いが、あの源の娘、邪気は無いのだが、お主へ揉め事を抱え込んでくるぞ」
「それは、おりょうさんの持つ幸運とは反対の物を持っているという事ですか?」
「そうではない。あの娘も八幡神の手厚い加護を受けているので、とてつもない強運の持ち主よ」
八幡神様は、勝利や開運の御利益は後付の物だと言っていたけど、頼華ちゃんを始めとする源の一統は、ちゃんと守護されているのだろう。
「だが、強過ぎる八幡神の寵愛は、娘を護る代わりに周囲の護りが疎かになる事がある」
「……頼華ちゃんが誰かを不幸にするのですか?」
頼華ちゃんが強運だから、周囲の人間が悪運に見舞われる?
「そうではない。源の武人も八幡神も、あの娘を愛しておる。だから、例えば戦場で娘が倒れるくらいなら自分がと、ごく自然に考え、八幡神もその願いに応えしまう」
「それは……」
「あの娘の隣に並ぶには、同じくらいの戦闘力を持って神仏に愛されるか、強運が必要という事よ。例えばお主のような、な」
観世音菩薩は、実に愉快そうに笑っている。
「あの、仮にですが、俺が頼華ちゃんの側に付いて、八幡神様を崇めるようになるのは問題無いんですか?」
頼華ちゃんには好意を持って貰っているみたいだし、俺の方でも嫌いじゃない。というか、恋人になって欲しいとかいうレベルでは無いが好きだとは思う。だから、念の為に訊いてみた。
「最初にお主に説明したはずだが、例え我に仇なす存在になったとしても、それは全く問題無い」
「そう、ですか。でも、もしかしたら奉じるのをやめる事があっても、敵対をしない事だけはお約束します」
将来的に、自分が仏敵になるような事は無いだろう……無いよね?
「おお、それは重畳。その言葉だけで十分じゃ」
少し不安が無くも無いが、観世音菩薩様は喜んでくれているようだ。
「ところで、今日詣でたのは、何か願いがあっての事であろう?」
「はい」
図星だった。さすがに神仏は全てお見通しのようだ。
「実は、授かっている権能を……」
俺は観世音菩薩様に、考えていた事を説明した。
「特に問題は無いであろう。お主が使う時よりも、手順が面倒になっておるしな」
「そうですか」
一先ずは、考えていた事が実行出来そうなのでホッとした。まだ用意しなければならない物はあるが。
「何か適した物はありますか?」
「その辺の石ころでも問題は無いと思うが……お主、金貨を持っているであろう?」
「はい」
「金は錆ぬし、用途的には丁度良いのではないか?」
「ああ、そうですね」
一枚百万円の価値の硬貨の使い途としては、適当なのかどうかは難しいところだが、何か代替品を思いつくまでの間は構わないだろう。
「お別れする前に伺いたいのですが」
「何か?」
「あの、先日参詣した時に、おりょうさんに加護を授けて下さいましたよね」
「左様。それが何か?」
「その割には、おりょうさんはトラブ……騒動というか、不運に見舞われているような気がするのですが」
短い間に、山道で猪に遭遇して、入浴中に熊に遭遇して、頼華ちゃんに斬り付けられたのだ。
「それはなぁ、お主の無意識が作用しておるんじゃな」
「……は?」
(どどど、どういう事なんだろう……俺か? 俺のせいなのか!?)
観世音菩薩様の言葉に、俺は激しく動揺する。
「猪は、お主の肉が食いたいという思いが、『たまたま猪が近くにいた』という状況を作り出したのじゃ」
「そ、それは……」
空想具現化の能力なんて、俺にあったの!?
「まあ落ち着け。お主自身にもあの、りょうという娘に負けないくらいの運の良さがあるのじゃ」
「俺にも、ですか?」
ついていると思う時もあるけど、ついていないと思う事も結構ある気がするんだけどな。
「猪の肉は、お主の願いに対して、多少の苦労に対しての報いのような物だ」
「苦労への報い、ですか?」
「うむ。猪を見逃す事も、出来なかった訳ではあるまい? その場合は当然、肉は手に入らない」
「それは、そうですね……」
危険を考えれば、観世音菩薩様の言う通り、見逃す事も出来たのだ。
「そして熊は、あの時のお主は、『この場をなんとか打開したい』とは考えなかったか?」
「あー……」
あの時は、おりょうさんに迫られて……やばい。心当たりがあり過ぎる。
「そこで、たまたま猪を処理した時の血が残っていて、熊が通りかかったのであろう」
「そ、そんな……」
撃退出来たから良かったけど、おりょうさんを危険に巻き込んだのは俺って事になるのか?
「まあ自分をそれ程責めるでない。何も全てがお主のせいという訳では無いのだ。たまたまだと言ったであろう? それに、お主の手に余る事態は起きておらんのだから、良く考えれば決して運が悪いとは言えまい?」
「そう、ですね……」
てっきり自分が凶運放射の能力にでも目覚めたのかと思ってしまったが、確かに正恒さんや嘉兵衛さんが不運に見舞われたって事は無さそうだから、ちょっと考え過ぎだったのだろう。それに、全てを運、不運で考えるのは、それはそれで都合が良過ぎるというものだろう。
「最後に、りょうという娘と源の娘の事に関しては、最終的には我が授けた加護よりは、八幡神が源の娘に授けた加護の方が上回ったという事であろうな。しかし、一族郎党で奉じている源の、それも次期頭領の受けている加護と比べられても、な」
全くもって観世音菩薩様の言う通りで、おりょうさんと頼華ちゃんを比べること事態が無茶だった。
「失礼致しました。今後は受けている加護、権能に関して、疑うような事はしません」
「よいよい。我を奉じる者全てが、お主くらいに信心深い訳でも無いしな」
「えっ!? 失礼ですが、自分がそれ程信心深いとは思っていないのですが?」
現代日本人の感覚程度にしか神仏を敬っている気がしていない俺が、そういう風に言われるとは思っていなかった。
「そうは言うが、出家して仏門に入った全ての者が信心深くない事くらいは、お主にもわかるであろう?」
「それは……」
信教している人間同士でも派閥争いはあるし、平等を謳っていても、階級みたいなものは存在する。帰依しているのに欲にまみれている者がいるのは否定できない。しかし、はいそうですねと答えるのもはばかられる。
「よいのだ。これは我の意地が悪かったの」
「いえ、決してそういう事は……」
そこまで口に出したが、俺は言葉を続ける事が出来なかった。
「さて、そろそろ他の者の相手もせねばならないので、今日のところはお主とはこの辺で別れるとしよう」
「色々とありがとうございました」
「うむ。毎度会えるかどうかはわからぬが、また来るがいい」
音と、時間の流れが元に戻ったのを自覚した。
まだ日が暮れる迄には余裕があるので、ドランさんに教えてもらった薬研堀に行ってみる事にした。
「何が入っているかと申しますと♪」
歌うような売り口上で、「七色唐辛子」という文字の染め抜かれたのぼりを立てた屋台の男性が、客の目の前で調合をしている。元の世界の縁日とかでも見た光景だ。
「すいません」
「へいらっしゃい!」
「七色じゃなくて、唐辛子だけを売って欲しいんですけど」
威勢のいい店主に声を掛け、注文を伝える。
「そりゃ構いやせんが」
「じゃあ、そうだな……二キロほど下さい」
「あいよっ!」
店主は大きなヒョウタンに漏斗を差し込み、升から唐辛子を流し込んでいく。量が多いのでヒョウタンは二つだ。
「お待ち遠さん! 多目に買ってくれたんで、そうさな、銅貨二十枚のところを、十五枚でいいや!」
「どうも。それじゃ」
俺は代金を払った。
「毎度あり。また来てくんな!」
最後まで威勢のいい店主の言葉を背中に受けて、俺は次に向かった。
特にアテは無いので、取扱量が多いだろうと思って、一番大きな店構えの「長崎屋」という店の暖簾をくぐった。
「すいません」
「いらっしゃいませ。どのような御用でしょう?」
座って帳面らしい物を見ていた、品の良さそうな初老の店員が、立ち上がって俺を迎えてくれた。
「あの……こちらでは、こういう物の取扱はしていますか? まだ乾燥させていないんですが」
俺は鎌倉で手に入れた竜涎香を取り出し、店員に手渡した。おりょうさんに渡した、残り半分だ。
「こ、これは……しょ、少々お待ち下さい!」
店員は震える手で俺に竜涎香を戻すと、小走りで店の奥の方へ向かった。
待つ程の事も無く、慌ただしい足音と共に、身なりの良い人物を先にして店員が戻ってきた。
「大変失礼を致しました……当店の店主でございます」
店主という事は、この人が長崎屋さんか。商人というよりは、役者のようにキリッとした顔立ちの人物だ。
「あの、それで……」
「はい。話は伺っております。それでは私に、お見せ頂けますか?」
「はい」
長崎屋さんは、色々角度を変えて見たり、匂いを嗅いだりしている。
「失礼ですが、お量りしても宜しいですか?」
「ええ」
俺に確認した長崎屋さんは、天秤で竜涎香の計量をすると、ほぅ、っと、溜め息をついた。
「ありがとうございます。大変結構な品なのですが、当店ではお扱い致しかねます」
「えっ!? あの、何か問題が?」
「ええ。と、申しましても、問題があるのはお客様の方でも、その竜涎香の方でも無く、当店の問題です」
「……あの、それは?」
もしかして、竜涎香って、御禁制品とかなんだろうか? でも、そういう反応でも無かったな。
「これを買い上げるだけの現金が、当店にはございません」
「ええっ!?」
おりょうさんに、同じ重さの金よりも高価とは聞いていたけど、そんなにか!?
「ちょっと言葉が足りませんでしたね。正確には、お支払いするには帳場の現金が足りないという事です」
「では、買取が出来ないという事では無いんですね?」
「ええ。本当のところを申し上げますと、現金の用意があれば、是非ともお譲り頂きたいです」
大きな問屋さんだから、俺から買い取っても売り捌く事は出来るんだろう。最初に扱えないと言ったのは、長崎屋さんの誠意だな。
「あの、でしたら、一部を引き取って頂いて、こちらの商品を売ってもらえませんか?」
「当店の商品をお求めで? それで、一部と仰いますと?」
長崎屋さんは、俺の申し出に興味を示してくれたみたいだ。
「そうですね……何か刃物を貸してもらえますか?」
自前の包丁もあるが、いきなり取り出したら驚かせてしまうだろう。
「刃物ですか……」
長崎屋さんが目配せすると、店員の男性が店の奥に入り、包丁とまな板、他に切り出しみたいな刃物を持って帰ってきた。
「とりあえずは、これくらいを……」
俺はまな板の上で、借りた刃物を使って竜涎香を一センチ幅くらい切り取り、長崎屋さんに渡した。
「この量でしたら……熊の胆や人参などを除く和漢薬の類でしたら、好きなだけお持ち下さい」
「そんなに!?」
「ええ。それでも少ないくらいですが……」
「えっと……とりあえす、必要な物を上げますので、それを用意してもらえますか?」
「はい」
俺は頭の中で、カレーに使われているスパイスを、可能な限り思い出しす。
「えーっと……黒胡椒、小豆蒄、茴香、丁字、鬱金、馬芹、胡荽、肉荳蔲、肉桂」
俺が和名を思い出せない物も、翻訳されて長崎屋さんと店員の男性には伝わっているみたいだ。そういえば萬屋でドランさんと話した時も、特に意識してなかったけど伝わってたな。
「現在、当店にあるだけお出ししましたが、この程度では、とても竜涎香に見合うものでは……」
長崎屋さんが心苦しそうに言う。商売人としてはどうかと思うが、なんか正直な人みたいだ。
「あの、それでは、今言った物を量ったり、すり潰したりする器具なんかを譲って貰う事は出来ますか?」
「それは勿論です。薬研や天秤などの道具も、当店では扱っておりますので」
「では、和漢の材料と、その道具類を一式でお願い出来ますか?」
「と、仰いますと?」
「ですから、先程の竜涎香と、和漢の材料と道具類一式で取引したいんですが」
「い、いえ! そ、それでは当店が、一方的に利益を得てしまいます!」
なんだろう。こういう商取引で利益を得過ぎても、神仏からのバチが当たったりしてしまうんだろうか?
「あの、俺が手元に置いていても、役に立つ物じゃありませんから、こちらで引き取って貰って、薬として世の中に出回る方が良いと思うんですよ」
「しかしですね……」
「どうしてもと仰るなら、またこちらを利用する時に、少し値引きでもして頂ければ結構ですから」
長崎屋さんは表情を引き締めると、重々しく溜め息をついた。
「わかりました……それでは今回は、お客様が仰る内容で取引をさせて頂きます」
長崎屋さんは店員の男性に指示をして、小さな木箱に梱包した和漢の材料を、大きな木箱にひとまとめにした。調合のための器具類は、別の木箱にまとめられた。
「宜しければですが、今後も当店で竜涎香を買取りたい事があるかもしれませんので、お客様の連絡先を教えておいて頂きたいのですが」
「品川宿の蕎麦屋の竹林庵か、まだ開店していませんが、大川の近くの鰻の店に連絡を下さい。俺は鈴白良太と言います」
「鈴白様でございますね。私は長崎屋源右衛門と申します。この長崎屋の店主は代々、源右衛門の名を継いでおります」
大きな店だし歴史もあるみたいだから、店主さんが名前を継承したりしているのか。あまり考えないで店に入ったけど、誠実そうな対応をしてくれたし、大当たりだったな。
「あの、大変失礼とは存じますが、竜涎香はどのようにして手に入れなさったので? お拾いになったのでしょうか?」
竜涎香はマッコウ鯨が自然に排出して、波打ち際に流れ着いた物を拾うのが一般的な入手法だと、鎌倉で頼華ちゃんのお父さんの頼永さんに教わった。拾う以外には生きた鯨を仕留めれば、運が良ければ俺のように、体内で生成された竜涎香を入手出来る事もある。
「実は行きがかりで、鯨を仕留める機会がありまして……あの、江戸で言うと問題があるのかもしれませんけど、入手経路に不安があるようでしたら、鎌倉の源の頭領様に問い合わせて頂ければ、はっきりします」
もしかしたら盗品と疑われているのかもしれないと思い、正直に入手経路を説明した。
「み、源の頭領様ですか!?」
(あ、これは失敗したかな?)
見るからに町人の俺のような人間が、源の名を出しても、よけいに信用出来ないかもしれない。長崎屋さんは目に見えて驚いた顔をしている。
「失礼致しました。取り乱しまして……こほん」
落ち着きを取り戻すかのように、長崎屋さんは、少しわざとらしく咳払いをした。
「疑うような事を申し上げましたが、私自身の商人の目で、お客様、鈴白様の事を信用させて頂きます。何卒、今後も良い商いを、お願い致します」
怒らせてはいけない相手と認識されたのか、姿勢を正した長崎屋さんが深々と頭を下げると、店員の男性も続いて頭を下げた。なんか源の権威を借りて振りかざしたようになってしまったけど、まあいいか。
「鈴白様、またの御利用をお待ちしております」
「お気をつけてお帰りを」
大きな木箱を抱えて歩く俺に、長崎屋さんと店員の男性は、ずっと店先で頭を下げたままだ。
なんか気の毒だし居心地も良くないので、帰り道とは違う方向になるが、俺は小走りして角を曲がり、二人から姿が見えないようにした。なんだかな。




