第26話 伸びすぎるサービス
七月八日の早朝。ネクサスの小規模なオフィスには、昨晩から続く緊迫した空気がそのまま澱のように沈殿していた。
夜が明けても、フロアの奥に鎮座するサーバー群から発せられる排熱ファンの高い唸り声と、コンソール画面で点滅を繰り返す赤い警告表示は消えていない。紹介施策による新規流入はその後も加速し続け、容赦なく現行インフラの首を絞め上げている。
成瀬は充血した目で、黒い画面上を滝のように流れていく膨大なログを追い続けている。キーボードを叩く乾いた音が、規則的だったり不規則だったりと、彼の思考の速度に合わせてフロアに響いていた。
「神崎さん」
成瀬が、視線をモニターに固定したまま口を開いた。
「一時的に紹介用URLの発行を停止するか、新規登録自体に制限をかけませんか」
それはシステムを預かる技術責任者として最も安全で、かつ定石通りの合理的な提案だった。手配している追加サーバー群が届くまでの間、マスターデータベースの完全な崩壊を防ぐためには、流入の蛇口を一度閉めるしかない。
悠は成瀬の背後に立ち、警告を発し続けるモニターを見つめながら答えた。
「止めるのは、本当に最後の手段にしたいです」
悠は腕を組み、流れ続けるトラフィックの数値を静かに追った。
「ユーザーが自発的に生み出した熱狂を、こちらの都合で冷ましたくはない。登録を止めずに持たせる方法を、先に潰してください。どこを超えたら物理的に止めるしかないのか、そのデッドラインだけ教えてください。追加機材の搬入は、俺が強引に前倒しします」
成瀬のキーボードを叩く手が、一瞬だけピタリと止まった。
「……止めない、と」
「ええ。最初から、この規模を受け止めるために作ってきたはずです。追加設備は俺が前倒ししますから、成瀬さんはそれまで持たせる方法を詰めてください」
(あの時の話は、これか)
成瀬の背筋を粟立つような感覚が駆け抜けた。
創業前の冬、新宿の老舗喫茶店で悠が口にしていた「数千万人のアクセスを前提にする」という途方もない構想が、今まさに物理的な負荷となって目の前に現れている。
成瀬は深く息を吐き、再びコンソールへと向き直った。
「……分かりました。落とさない前提で、今ある構成を限界まで詰めます。キューの逃がし方とキャッシュの生存時間を再調整して、危険域に入ったらすぐ報告します」
悠は自分のデスクから携帯電話を取り出し、インフラ回線とサーバー機器を卸しているベンダーの担当者へ直接電話をかけた。
「朝早くに申し訳ない。ネクサスの神崎です。以前発注していた追加サーバー群の件ですが、予定の納期を待てません。今すぐ動かせる在庫があるなら、スペックは問いません、すべて買い上げます。搬入とラッキングのスケジュールも極限まで前倒ししてください」
電話の向こうの相手が、常識外れの要求に戸惑いの声を上げるのが漏れ聞こえた。悠はそれを冷徹な言葉で制する。
「費用は緊急対応を含めて、言い値で倍払います。明日、いや今夜からでも動かしてほしい。資金の出し渋りは一切しませんから、御社の動かせる人員をすべてこちらに回してください」
潤沢な事業資金があるからこそ切れるカードだった。最短の搬入スケジュールを強引に取り付けると、悠は通話を切って結城へ視線を向けた。
「結城さん、追加の購入契約とデータセンターへのラック追加申請、すぐに通してください」
「了解しました。稟議は事後承諾の形で、すぐに書類を作ります。支払いのスキームも回しておきます。同時に、ユーザーサポート側へも一時的な遅延の可能性を通知し、問い合わせが爆発する前に先手を打っておきましょう」
結城が手元の資料の束を掴み、流れるような動作で自らの携帯電話へ向かった。
そんな中、フロアの隅の制作スペースでは、雫が不安そうな視線をこちらへ向けていた。自分の描いたデザインがユーザーを熱狂させ、結果としてこのシステムの危機を引き起こしていることに、言い知れぬ引け目を感じているようだった。
悠は雫の視線に気づくと、振り返った。
「天海さん。気にする必要はありません。あなたのデザインがこれだけ多くの人間を引き付け、欲しがらせたという、純粋な成功の証拠です。技術の問題は、技術と資金で解決しますから、あなたは次の季節のアイテムデザインを進めておいてください」
雫は少しだけほっとしたように小さく頷き、再び手元のペンタブレットへ向き直った。
そこから数日、ネクサスのオフィスの灯りが消えることはほとんどなかった。
デスクの上には空になったコーヒーカップや栄養ドリンクの瓶が乱雑に積み上がり、フロアの空気は排熱ファンの熱気と人の焦燥感でどんよりと重くなっている。それでも、キーボードを叩く音と短い報告の声だけは、一度も途切れることがなかった。
成瀬はコンソールから離れず、トラフィックの分散とデータベースのチューニングをリアルタイムで行い、不要なログ出力を削りながら処理の優先順位を分単位で見直し続けている。結城はユーザーからの問い合わせへの迅速な対応と、ベンダーへの追加契約の実務を的確に捌く。悠もまたデータセンターとオフィスの間を往復し、資金決済と現場での最終的な判断を即座に下し続けていた。
ギリギリの均衡状態を保ちながら、システムは膨大な新規登録とアクセスをなんとか飲み込み続けていく。
そして、七月十三日の夜。
前倒しで確保された大量の追加サーバー群がデータセンターに搬入され、成瀬の構築した分散処理の枠組みへと組み込まれた。
ロードバランサの設定が更新され、新しく追加された広大なリソースの海へ、これまでせき止められていたトラフィックが勢いよく流れ込んでいく。
オフィスのモニターに表示されていたグラフの線が、危険水域を示す赤から、一気に安全圏の緑へと急降下した。
限界まで滞留していたデータベースの書き込みキューが、凄まじい速度で処理され、完全にゼロへと張り付く。
「……抜けました」
成瀬が、椅子の背もたれに深く寄りかかって言った。
「追加基盤、正常に稼働。現在のトラフィックなら、まだまだ余裕で捌けます」
オフィスにいた結城の口から、ふっと深い安堵の息が漏れる。
悠はモニターの正常な数値を確認し、成瀬の肩を軽く叩いた。
「見事な対応でした。成瀬さんも、結城さんも。これでネクサスは、一段上のフェーズに耐えられる体力を手に入れた。今日はもう上がりましょう」
深夜。
悠はいつもの安アパートへ帰り、熱いシャワーを浴びて数日分の張り詰めた疲労と汗を洗い流した。
バスタオルで濡れた髪を拭きながら、狭いが整頓された部屋を見渡す。
会社は急激に成長し、潤沢な事業資金も確保した。だが、生活の拠点を豪華にするのは今ではない。見栄ではなく、今はすべてを事業の速度へ変換する時期だ。
悠は小さな冷蔵庫から手頃なブルゴーニュの赤ワインを取り出し、グラスに注いだ。
まずは冷えた赤ワインを一口飲む。酸味が疲れた口に心地よかった。冷たい液体が食道を通って胃に落ちる感覚が、無事に山場を越えた安堵感を引き立てる。
ワインを半分ほど空けたところで、悠は戸棚からアイラ産のシングルモルトウイスキーを取り出し、別のロックグラスにストレートで注いだ。続いて、デスクの引き出しの奥に保管していた旧在庫のボリバー・ロンズデールを取り出し、手早く吸い口を切り落とすと、マッチで火をつける。
煙を吐き、モルトを一口含んだ。
静寂の中、琥珀色のグラスを傾けながら、悠の頭の中はすでにインフラの安定という事実を通過し、次なる数字の最大化へと切り替わっていた。
翌日の午後。ネクサスのオフィス。
十分な休息をとって出社した悠を、成瀬と結城が少し興奮した面持ちで待ち構えていた。
「神崎さん、インフラが安定したことで、面白い数字が出ています」
結城が手元の資料を悠のデスクに置いた。
「課金面での反応です。紹介アイテムの配布によって、ユーザー間の見せ合いが活発化し、それに合わせるように有料アバターの商品ページへ進むユーザーが急増しています。ミニゲーム側でも、行動力回復のアイテム詳細を開く回数が跳ね上がっている」
成瀬がモニターのログを指差して言葉を継ぐ。
「ただ、問題はその先です。購入画面まで来て、決済を完了せずに離脱している割合が異常に高い。特に十代から二十代前半の若い利用者層です。システムが軽くなったことで回遊率は上がりましたが、いざ買おうとした瞬間に弾かれています」
悠は結城の資料と成瀬のモニターを交互に見やり、静かに口角を上げた。
「アクセスが安定したことで、今まで見えていなかった次のボトルネックが見えてきましたね――決済です」




