第22話 公開前夜
二〇〇四年六月上旬。
東京は本格的な梅雨入りを迎え、街全体が日ごとに重たく湿った空気に沈み込んでいた。窓を打つ雨音と、アスファルトから立ち昇る特有の匂いが、外の世界の気怠さを物語っている。すれ違う人々の足取りもどこか重く、色とりどりの傘の花が駅前の交差点を無機質に埋め尽くす季節だ。
しかし、都心の片隅にある株式会社ネクサス・エンターテインメントの小さなオフィス内だけは、外の天候とは無縁の、乾いた熱気とヒリつくような緊迫感が充満していた。
目前に迫った一般利用者向けのサービス正式公開。
そこへ向けて、多種多様な携帯端末への表示最適化、サーバーの増強と切替、問い合わせ対応フローの構築、そして権利確認など、あらゆるプロジェクトが同時並行で最終段階へと突入している。
フロアの片隅では、成瀬が複数のモニターを睨みつけながら、デスクの上に並べた数機種の折りたたみ式携帯電話を次々と操作していた。パカパカと小気味良い音を立てて端末を開閉し、実機での表示崩れを一つ一つ地道に潰していく。キーボードを叩く音はこれまでになく力強く、リズムに迷いがない。
「ええ、第一陣の機材搬入は確認しました。ただ、各携帯キャリアの端末ごとの表示最適化がかなり骨の折れる作業でして。画面サイズも文字コードもバラバラな上に、画像容量の制限も信じられないほど厳しい。ですが、クリエイターが描いた高精細なアバターの持ち味を殺さないよう、独自の圧縮と表示の振り分けエンジンを噛ませています。ロードバランサの設定もこちらの想定通りです。残りのデータベースサーバー群も、予定通り今週末までにデータセンターへ回してください。ええ、最優先でお願いします」
通話を終えた成瀬が、大きく伸びをして首の骨を鳴らした。そのタイミングを見計らい、悠は彼のデスクへ歩み寄った。
「順調そうですね、成瀬さん」
「神崎さん。ええ、予算が確定してからベンダーの動きが一気に速くなりました。仮押さえしていた機材の正式発注から搬入まで、あちらも夜を徹して組み上げてくれています」
成瀬は手元のキーボードを素早く叩き、モニターの一つに新しいサーバー群の構成図と、トラフィックの分散シミュレーションを表示させた。それはまだ国内では概念すら浸透しきっていない、スケーラブルな構成案だった。
「ただ、一つだけ確認させてください。この構成案ですが……現状の百人規模のクローズドテストから得られたデータをベースに逆算しても、初期の立ち上げフェーズとしては過剰投資ではありませんか? 現在のアクセス数なら、この数分の一のスペックでもお釣りが出ます。もう少しスモールスタートから段階を踏むのがセオリーのはずですが……」
「現在のアクセスには十分な余裕を持たせつつ、利用者が増えた時、機材を追加するだけで横方向へ処理能力を段階的に伸ばせる構成にします」
悠はモニターに映し出された堅牢なネットワーク図を見つめたまま答えた。
「半年後、このプラットフォームは百万人規模の利用者を抱えることになります。彼らが朝の通勤や昼休み、夜のわずかな隙間時間を見つけるたびにアクセスを繰り返し、データを書き込み、デジタルアイテムを売買する。その膨大なデータ通信を安定して処理しつつ、さらに横へ拡張できる基盤が必要です。アクセスが集中してサービスが重くなれば、ユーザーがせっかく築き上げた熱を一気に冷ますことになる。インフラの限界を理由に、事業成長の足を引っ張るわけにはいきません」
成瀬は一瞬だけ目を丸くしたが、すぐに技術者としての獰猛な顔つきになって笑みを浮かべた。
「……分かりました。スケールアウトを大前提とした構成ですね。CTOとしては、最初から拡張性を持たせた基盤を組めるのはありがたい限りですからね。百万規模のトラフィックへの道筋、敷いてみせますよ」
技術的な方針がクリアになったところで、今度は結城が手元のバインダーを開きながら近づいてきた。彼もまた、目まぐるしいタスクをこなしながらも、どこか充実感に満ちた表情をしている。
「神崎さん、法務と権利周りの進捗です。利用規約とプライバシーポリシーの改定版は、外部弁護士の最終チェックをパスしました。問い合わせ対応フローも構築済みです。コンテンツ確保の交渉についても、提示を始めたところ、予想以上に反応が良いです。これまで門前払いだった中堅の音楽レーベルや、ネットへの警戒心が強い個人の版元も、初期費用ゼロで最低保証がつくという条件を提示した途端、目の色を変えました。すでに複数の有力な権利者と具体的な契約協議に入っています」
結城は眼鏡の位置を押し上げ、淡々と成果を口にした。
「ええ、その調子で一気に進めてください」
悠が頷くと、結城はバインダーのページをめくった。
「それから、正式公開に向けて提携先の事務所や権利者から、こちらの露出方針について問い合わせが来ています。マス媒体まで一気に広げるのか、それとも当面はネット側に絞るのか、先方への回答を統一しておきたいのですが」
結城の確認に、悠は短く頷いた。
「当面はネット側に絞ります。テレビCMなどのマス広告はまだ打ちません。初期のプラットフォームに必要なのは、薄く広い認知ではなく、狭く深い熱量です。デジタル上で自分を表現すること、他者と繋がることに飢えている層をピンポイントで狙い撃ちにする。彼らがネクサスの中に熱狂的なコミュニティを作り上げた後で、一般層を迎え入れます」
「承知しました。ターゲットを絞り込んで確実に取りにいく旨、各所へ回答しておきます」
結城が手元の資料に万年筆で素早くメモを書き込む。
二人の報告を聞き終えた悠は、フロアの奥に新設された制作スペースへ向かった。
そこでは雫が、導入されたばかりのプロ用ハイエンド液晶ペンタブレットに向かい、驚異的な集中力でペンを走らせていた。フリルの影一つ、ボタンの光沢一つに至るまで、小さな液晶画面でも見栄えがするようピクセル単位での調整が施されている。傍らには高解像度の大型モニターが設置され、緻密な色味の確認が瞬時に行えるようになっている。背後には真新しい大型の書棚が置かれ、購入したばかりの国内外の画集やデザイン資料、写真集がぎっしりと収まっていた。
「新しい機材の調子はどうですか」
悠が声をかけると、雫はハッとして顔を上げ、すぐにパッと花が咲くような明るい笑顔を見せた。
「神崎さん! これ、本当に凄いです。画面に直接描けるから直感的に線が引けるし、細かい描き込みをしても処理落ちが全くありません。作業スピードがこれまでの倍以上になりました」
「それは良かった。正式公開に向けて、アイテムの需要は一気に跳ね上がりますからね」
「はいっ。予定していたラインナップ、公開日までに全部間に合わせてみせます。私の描いたアバターや服が、もっとたくさんの人の携帯で動くのが楽しみで仕方ないんです」
彼女はモニターへ向き直ると、キャンバスの上に新しい衣装の装飾を鮮やかな手付きで描き込み始めた。彼女の頭の中にある広大な幻想世界が、最新の機材という最強のパイプを通って、驚異的な速度で現実のデータへと出力されていた。迷いのない線の連なりが、液晶画面の上で次々と形を成していく。
★★★★★★★★★★★
数日後の夜。
悠は銀座の裏通りにある、知る人ぞ知る老舗の天ぷら屋のカウンターに座っていた。
「お待たせ。遅くなってごめんなさい」
引き戸が静かに開き、つばの広い帽子を被った女性が店内に入ってきた。紗瑛だ。彼女は周囲の視線を警戒しながら悠の隣に座ると、小さく息を吐いて帽子を取った。仕事を終えたばかりの私服姿で、どこかほっとしたような表情を浮かべている。
「仕事終わりですか。お疲れ様です」
「ええ。雑誌のインタビューが長引いてしまって」
悠は彼女を過剰に特別扱いすることなく、自然な所作で冷たいお茶を勧めた。
白木のカウンター越しに、職人が無駄のない手付きで衣をつけ、熱された油の中へ食材を滑らせていく。心地よい油の弾ける音が、周囲の静けさに溶け込んでいた。一人一万円のコースが静かに始まる。
最初に提供されたのは、薄衣を纏った活き車海老だった。塩を少しだけつけ、サクッとした音を立てて口に運ぶ。海老の甘みと油の香ばしさが口いっぱいに広がる。
「……美味しい」
紗瑛の表情から、仕事モードの張り詰めた緊張がふっと解けた。
「それは良かった。最近の仕事の調子はどうですか?」
二つ目の鱚の天ぷらを箸で切り分けながら、悠は尋ねた。その後も、肉厚な椎茸、初夏のアスパラガス、そしてフワリと揚がった穴子と、絶妙な間合いで食事が進んでいく。
「相変わらずよ。前に話したのと何も変わってないわ。目の前の仕事を一つずつこなしていくしかないわね」
熱々の天ぷらを上品な所作で口に運びながら、紗瑛は少しだけ自嘲気味に笑った後、ふと真剣な眼差しで悠の横顔を見つめた。
「でも、あなたが作ろうとしている新しい場所の話を聞いてから、私自身の表現の幅をもっと広げられるんじゃないかって、そう思えるようになったの」
「それは良い変化ですね。あなたの才能は、もっと自由に世界へ届くべきだ」
「ふふ、ありがとう。……ねえ、あなたの方はどうなの?」
紗瑛は冷たいお茶を一口飲み、少しだけ小首を傾げた。
「あなたって、何をやっても迷わないように見えるけど、たまに少し疲れているように見える時があるわ」
その指摘に、悠はわずかに目を瞬かせた。
連日の増資交渉やサーバー切替の調整、そして誰とも共有できない確信を一つ一つ現実の形にしていく作業は、確かに神経を削るものだ。だが、それをことさら他人にひけらかすつもりはない。
「何でも迷わずこなす超人に見えているなら、買い被りですよ。普通に疲れることもあります」
悠は涼やかな顔で静かに答えた。自分を表面的な強さだけでなく、等身大の人間として観察しようとする彼女の視線は、心地よい鋭さを持って伝わってきた。
食事を終え、二人は同じ銀座にある落ち着いたオーセンティックバーへと席を移した。
照明の落とされた静かな店内。蝶ネクタイを締めた初老のバーテンダーが、音もなくグラスを磨いている。マホガニーの重厚なカウンターには、琥珀色の液体が入ったロックグラスが置かれている。
悠は酒を一口飲むと、ポケットから煙草を取り出し、カチリとライターで火をつけた。ジッポーの冷たい金属音が響き、オレンジ色の炎が吸い口を焦がす。
細く吐き出される紫煙が、薄暗い照明の中で静かに立ち上り、換気扇の気流に乗って消えていく。
紗瑛はグラスの縁を指先でなぞりながら、隣に座る悠を静かに見つめていた。
彼女の切れ長の瞳は、普段の強い光を潜め、どこか安心したような、あるいは新しい何かを探り当てるような柔らかさを帯びている。煙草をくゆらせる彼の横顔には、普段の鋭い経営者の顔とは違う、ふとした私的な隙と大人の男の落ち着きが同居していた。
「プレッシャーがないと言えば嘘になります」
不意に、悠が煙草を灰皿に置きながら口を開いた。グラスの氷がカランと心地よい音を立てる。
「でも、やるべきことははっきりと見えていますから。こうやって、あなたと仕事以外の話ができる時間は、悪くないですね」
その飾らない、等身大の言葉に、紗瑛はふっと肩の力を抜き、本当に嬉しそうな、年相応の柔らかな笑顔を見せた。
「……そう。なら、たまには私のことも頼っていいのよ」
紗瑛はロックグラスにそっと触れながら、真っ直ぐに悠の目を見つめ返した。その声は普段の凛とした響きより半音低く、仄かな熱を帯びている。
薄暗い照明の中、彼女の指先がグラスの縁をなぞり、溶けかけた氷がカランと小さな音を立てた。
★★★★★★★★★★★
翌朝。
出社した悠は、オフィスの中央に立ち、成瀬、結城、そして雫を前にして静かに告げた。
「六月十五日」
悠の声が、フロアに響き渡る。
「この日を、ネクサスの一般向け正式公開日に設定します」




