第21話 1億円を集める
無機質な呼出音が三回鳴ったところで、通話が繋がった。
「神崎くんか。こんな時間にどうした」
携帯電話の向こうから、西崎の落ち着いた、しかし鋭さを失わない声が響いた。背後にグラスの触れ合うかすかな喧騒が聞こえる。おそらくはどこかの会食の帰りか、あるいは静かな場所へ移動した直後なのだろう。
「夜分に失礼します。以前お話ししていたクローズドテストの、実データがまとまりました。それに加え、この数日間で急遽走らせた少額課金テストのコンバージョン率も出ています。これらをもとに、既存の株主である西崎さんへ、追加の資金調達と今後のバリュエーションについてご相談したいと思いまして」
「ほう……」
西崎の低い声に、明確な興味の色が混じった。未来の予測ではなく、現実の数字が出たということだ。
「分かった。今週中に時間を取ろう」
「ありがとうございます。よろしくお願いいたします」
短い通話を終え、悠は携帯電話をポケットにしまった。夜の窓ガラスには、静かに考えを巡らせる自分の顔が映っていた。
面談の日程が決まると、悠はすぐさまデータの最終整理に取り掛かった。テスト期間中に蓄積された膨大なアクセスログを多角的に分析し、ユーザーがどの時間帯に、どの導線から、どのコンテンツへ最も頻繁にアクセスしているかを可視化していく。それに加え、事前の告知なしに突然ショップへ追加したアバター用のデジタルアイテムに対する少額課金テストの結果も、鮮明なコンバージョン率となって表れていた。画面の向こう側にいる生きたユーザーたちが、ネクサスという新しい遊び場に対してどれほどの熱量を注ぎ込もうとしているか。そのリアルな体温を帯びた数字を、一切の装飾を省いた数枚のレポートとしてまとめ上げた。
数日後。都内のホテルの静かなラウンジには、西崎のほかに見覚えのあるスーツ姿の男が座っていた。
中堅ファンドの担当者である三田だ。彼は数ヶ月前の創業資金調達の際、西崎からの紹介で面談したものの、悠の計画を鼻で笑って出資を見送った男だった。西崎が今回の面談に彼を同席させた意図は明白だ。ネクサスの数字が本物であれば、三田のファンドからも資金を引き出せるという計算だろう。
天井の高いラウンジには、控えめなクラシック音楽が流れ、周囲の席からは談笑する声がかすかに聞こえてくる。重厚なローテーブルを挟み、悠は二人の前に数枚にまとめられた薄いレポート用紙を等間隔に滑らせた。分厚い夢想の束ではなく、紛れもない現実の記録だった。
「これが、現在動かしている試作版の実利用データです。継続率、アクセス頻度、一回当たりの利用時間、そして最後のページが、直近の数日で実施した少額課金テストのコンバージョン率を示しています」
三田は半信半疑の顔でペーパーを手に取った。こんな若者が持ち込んだ資料など、どうせ希望的観測を並べただけのものだろう。最初はそうやって軽く目を通すだけのつもりだったのだろう。
しかし、そこに印字されたグラフと数値を追ううちに、彼の表情から余裕が消え、真剣なものへと変わっていった。指先でページをめくる速度が明らかに遅くなり、同じ数値を二度、三度と見直しているのがわかった。
「なんだこれは……。一回の利用時間は短いが、一人のユーザーが一日にアクセスする回数が異常に多いな」
三田はそう零しつつも、すぐに表情を引き締めて顔を上げた。探るような視線を悠へ向ける。
「だが神崎社長。この数字はあくまで百人規模のクローズドテストの話でしょう。直近で行ったという課金テストの条件はどうなっていますか? もし身内やそれに近いアーリーアダプターだけを集めた結果なら、このコンバージョン率は参考になりませんよ」
「テスト参加者は、事前登録から無作為に抽出しています。身内は一人も含まれていません」
悠は三田の目をまっすぐに見返して答えた。
「課金テストも、事前に告知を行わず、アバター用のデジタルアイテムを突然ショップへ追加する形で実施しました。純粋に、彼らが日常的に訪れる『遊び場』に新しい欲求が提示された時、どれだけの速度で財布を開くか。そのリアルな反応速度がこの数字です」
三田は再び手元の資料へ視線を落とした。警戒心は解いていないが、目の前にある数字の価値を否定することもできなかった。
「……なるほど。この数字が本物なら、前回の評価は改める必要がありますね」
隣で黙って二人のやり取りを聞いていた西崎もまた、手元の資料へ鋭い視線を落としていた。
「単なるコンテンツの販売数や、一過性のページビューなら驚きはしない。だが、この数字が示すのは、ユーザーが完全にこのサービスを日常のサイクルに組み込んでいるという事実だ。これだけ細切れの時間を奪えるなら、他社のサービスが入り込む余地はなくなるな」
西崎は即座に企業価値の視点から数字を評価した。
「ええ。だからこそ、これから招待制を導入してテスト対象を一気に広げます。市場を先取りして競合を置き去りにするための弾が必要です」
「そのトラフィックの激増を捌き切るには、相当なインフラ投資が要る。それで、いくら調達するつもりだ?」
西崎が問う。
「一億円です」
悠は一切の躊躇なく金額を提示した。
「プレマネーはいくらで考えている? これだけの数字が出ているなら、自分の持ち株を不当に薄めるつもりはないだろう」
「プレマネーで十億。一億の調達で、放出する持ち株比率は約九パーセントに抑えます」
三田は手元の資料に落としていた視線を弾かれたように上げ、悠の顔と数字を交互に見比べた。創業からわずか数ヶ月の未上場企業に対して突きつけられた、極めて強気な評価額だった。
「十億か」
西崎は目を細め、資料を指先で軽く叩いた。
「創業数ヶ月の企業としては極めて強気だな。いくつか確認させてもらおう。これから招待制を導入してテスト対象を広げると言ったな。千人、一万人と規模が拡大した時、この異常な継続率がそのまま維持できるという根拠はあるのか?」
「招待制自体が、熱量の高いコミュニティを連鎖させるフィルターになります。それに加え、コンテンツの配信方式を『一括投入』から『高頻度・少量・継続追加』へ切り替えました」
悠は淀みなく答えた。
「ユーザーが毎日ログインする理由を、運営側から意図的に作り出します。規模が拡大しても、彼らが戻ってくる動機そのものは失わせません」
西崎の口元が、わずかに緩んだ。
「……それなら、十億でも筋は通るな」
西崎は手元の万年筆を軽く回し、鋭い視線を悠へ向けた。
「それで、その一億の使い道は? 都内のいい場所に立派な制作スタジオでも構えて、クリエイターを自社で囲い込む気か?」
「いいえ。ハコモノには一円も使いません」
悠は即座に否定した。当時のネットベンチャーといえば、調達した資金で見栄えの良いオフィスを借り、企業価値をアピールするのが常套手段だったが、悠にその気は毛頭ない。
「すべて、目に見えない資産に投資します。乗数的なアクセス増加に耐えるためのサーバー基盤。優秀な技術者やクリエイターへの前払い金、そして権利確保の契約金。見栄えのいい不動産ではなく、プラットフォームの根幹となるインフラと、そこに載せるコンテンツの権利だけを押さえる。それが何よりも強力な防壁になります」
「……いいだろう。その条件で進めよう」
西崎は静かに頷いた。
「私の方でも追加出資の枠を取る」
「この条件なら、社内の稟議に上げます」
三田も姿勢を正し、はっきりと告げた。
「具体的な検討に入りたい。詳しい資料もいただけますか」
「もちろんです。ありがとうございます」
悠は深く頭を下げた。あとは実務的な手続きを残すのみだ。
★★★★★★★★★★★
さらに数日後の昼。
六畳間のアパートに初夏特有の少し湿気を帯びた風が吹き込む中、悠は小さなキッチンに立っていた。
会社は次のフェーズへ向けた準備で激務の中にある。だからこそ、自分の身体と頭を動かすための質の高い燃料補給は欠かせなかった。
まな板の上に置かれたのは、ブロック状のベーコン、みずみずしい長ネギ、そして肉厚な椎茸。
悠は包丁を素早く動かし、ベーコンを少し厚めの短冊切りに、長ネギを細かなみじん切りに、椎茸を均等な薄切りへと手際よく切り分けていく。
使い込まれた中華鍋をコンロにのせ、強火にかける。
鍋肌からかすかに白い煙が上がり始めたところで、少量の油を引き、まずはベーコンを投入した。ジューという小気味良い音とともに、肉の焦げる香ばしい匂いが立ち上る。悠は木べらを使ってベーコンを鍋に押し付けるようにし、中からたっぷりと良質な脂を引き出していく。
カリッとした焼き色がつき、脂が十分に溶け出したところで、椎茸と長ネギの半量を投入する。椎茸がベーコンの旨味を吸い込み、ネギの香りが油全体に移った瞬間を見極め、あらかじめ溶いておいた卵を鍋の中央へ流し込んだ。
卵がふわりと膨らみかけたその刹那、硬めに炊いておいたご飯を迷いなく投入する。
ここからは時間との勝負だった。
鍋をリズムよくあおりながら、木べらでご飯の塊を切るようにほぐしていく。黄金色の卵とベーコンの脂が米の一粒一粒をコーティングし、鍋の中でパラパラと美しく舞い踊る。塩と粗挽きの黒胡椒で味を整え、残しておいた長ネギを加えて、さっと火を通す。
そして仕上げだ。
悠は戸棚から中国産の黒酢を取り出し、熱された鍋肌に沿ってほんの少量を回しかけた。
ジュワッという高い音とともに、黒酢の水分と強い酸味が瞬時に飛ぶ。手早く炒飯を皿に盛り付けると、キッチンには香ばしい匂いが充満していた。
悠は小さなテーブルに皿を運び、スプーンを手にする。
一口運べば、米のパラリとした食感とともに、ベーコンの力強い塩気と椎茸の旨味が口いっぱいに広がる。そして最後に、黒酢のまろやかな酸味が後味をすっきりと引き締めた。素材の脂と香りが生きる一皿だった。
炒飯を平らげ、グラスの冷水を飲み干す。
悠は灰皿を手元に引き寄せ、煙草を一本取り出して火をつけた。
開けた窓から入る初夏の湿った風の中で、ゆっくり一本を吸い終える。
短くなった煙草を灰皿に押し消すと、悠は席を立った。
昼休みは終わりだ。午後の仕事へ戻る。
★★★★★★★★★★★
午後。ネクサスのオフィス。
悠がフロアへ足を踏み入れると、それぞれのデスクで作業をしていた成瀬と結城が顔を上げた。
「西崎さんたちとの話、まとまりました」
悠の言葉に、二人の動きがピタリと止まる。
「一億円の増資が確定します。成瀬さん、先日作ってもらった増強案、そのまま正式発注へ回してください。支払いの決済はすぐにおろします」
「了解しました。ベンダーへの仮押さえを今日中に本契約へ移行して、搬入され次第、順次新しい構成へ切り替えていきますよ」
成瀬の顔に頼もしい笑みが浮かんだ。事前の調整は完璧に終わっており、あとは実弾を撃つだけの状態だった。
悠はそのまま結城へと視線を移した。
「結城さん。確保した資金を使って、クリエイターへの前払い金と最低保証金の枠を大幅に広げます。インディーズの有望な権利者には、うちの条件を飲めば即座にキャッシュが入る仕組みを提示してください」
「分かりました」
結城もまた、冷静な顔つきで深く頷いた。
「規約等の詰めと並行して、リストアップしていた中堅の版元と個人の大手に、新しい保証金の条件を持って一気にアプローチをかけます。これだけの資金があれば、競合が動く前に優良なコンテンツを根こそぎ押さえられます」
二人の迅速な対応を確認し、悠はフロアの奥に設けられた制作スペースへ歩み寄った。そこでは天海が液晶モニターに向かい、新しいアイテムの線画を引いているところだった。画面上にはいくつものレイヤーが重ねられ、彼女特有の緻密な作業が進められている。
「天海さん」
声をかけると、天海はペンを置いて振り返った。
「あ、神崎さん。お疲れ様です」
「今週中に、プロ用の最新の液晶ペンタブレットと、高解像度の大型モニターを含むハイエンドの制作機材一式をここに導入します。それから、大量の資料用に専用の書棚と書籍購入の予算も確保しました。あなたの制作効率を上げるための初期投資です」
天海は目を丸くして、パチパチと瞬きをした。
「えっ……そんな、いいんですか? プロ用の機材って、すごく高価ですよね……」
「遠慮はいりません。天海さんの作品が、ネクサスの価値を作っている。最高の環境で、好きなだけ描いてください」
悠がはっきりと告げると、天海の頬がわずかに赤く染まり、彼女は嬉しそうに、しかし引き締まった表情で力強く頷いた。
悠はオフィスを見渡し、全員に向けてはっきりと宣言した。
「夏に動きます。そのまま一気に、正式公開へ持ち込みます」




