第19話 最初の100人
成瀬のデスクに置かれたメインモニターには、数日前に開始されたクローズドテストの集計データが、色分けされた鮮やかな円グラフと棒グラフとなって表示されていた。
開発陣の個人的な繋がりや、限られたコミュニティから慎重に選ばれた最初の百人。彼らが検証用の折りたたみ式携帯電話を手に取り、プラスチックの十字キーでどの項目を選択し、どこで決定ボタンを深く押し込み、どのコンテンツに最も時間を費やしたのか。実際のユーザーの行動ログが、開発側の推測ではなく明確な事実として可視化されている。
「予想とは、かなり違う動きをしていますね」
カタカタと小気味良いタイピング音を響かせていた成瀬が、ふとキーボードから手を離して画面の一部を指し示した。
「技術側としては、四分野を横断する導線を作った以上、音楽の楽曲リストを眺めながら漫画を読み、合間にミニゲームへ流れるような、ある程度均等な回遊を想定していました。ですが、実際のデータは特定の箇所に異常なほどのアクセスが集中しています」
画面を覗き込んでいた結城が、手元の集計資料のページをめくり、モニターの数値と交互に見比べて短く息を吐いた。
「アバターの着せ替えと、マイページへの滞在時間が突出していますね。他の機能と比べて一桁違う。ただ、もう一つ顕著な動きがあります。コンテンツを探すための導線です」
結城の指摘に、成瀬も頷いた。
「ええ。音楽の複雑な条件検索や、ジャンルごとの深い階層分けはほとんど使われていません。ですが、マイページから直感的に飛べる『新着一覧』や『関連作品』といった、簡単な作品発見の導線には強い反応が出ています。アバターを通じて自分と他人のページを行き来しながら、その流れで目についた漫画やゲームのサムネイルを次々と開いていく。これが最大の利用動機になっています」
結城が腕を組み、ビジネスの観点からその数値を分析するように目を細めた。
「興味深いですね。私たちはコンテンツそのものの魅力で人を繋ぎ止める設計をしていましたが、ユーザーはまず『デジタル空間で自分をどう見せるか』に時間を使っている。そこが満たされて初めて、直感的な導線に沿って他のコンテンツへ手を伸ばす余裕が生まれるということか。プラットフォームの入り口として、アバターと作品発見の直感的な導線がこれほど強力な求心力を持つとは」
悠は腕を組んだまま、モニターに表示されたユーザーの行動遷移図を静かに見つめていた。
「不要な機能を削りましょう」
悠の迷いのない声に、成瀬と結城が同時に視線を向けた。
「音楽の複雑な検索条件や、階層が深すぎるジャンル分けは今の段階ではいりません。テストデータで利用頻度の低いものは、すべて一度切り捨ててください。今はまだ、あれもこれもと欲張る段階じゃない」
「削った分のリソースはどうしますか」
成瀬の問いに、悠は即答した。
「すべてアバターの表示速度と、直感的に作品を探せる導線周りの画面遷移に集中させます。ユーザーが一番触りたがっている部分のストレスを極限までなくす。技術と人員を、彼らが最も欲しがっている場所に一点張りします」
「分かりました。不要なモジュールの読み込みを停止して、キャッシュの割り当てをアバターとプロフィール、そして新着作品の取得へ回します」
成瀬が即座にターミナルへ向き直り、アーキテクチャの変更に取り掛かる。結城もまた、変更に合わせた権利関係の表示とマイページの紐付けについて再確認するため、新たなメモへ万年筆を走らせ始めた。
★★★★★★★★★★★
その日の夕方。悠はオフィスでの作業を一段落させ、モニターに向かってペンタブレットを動かしていた雫に声を掛けた。
「休憩しませんか」
モニターの光に照らされた雫は、びくっと肩を揺らして振り返った。連日の作業による疲労が窺えるものの、その瞳にはどこか充実感が宿っている。
「あ……はい。キリのいいところまでは終わりましたけど」
「良い報告もあります。外の空気を吸いましょう」
悠に促され、雫は戸惑いながらも立ち上がった。
二人が向かったのは、オフィスから歩いて数分の裏通りにある、こぢんまりとした洋食店だった。夕食時にはまだ早く、店内には穏やかな時間が流れている。木目を基調としたアンティーク調の内装と、厨房から漂ってくるデミグラスソースやバターの香ばしい匂いが、張り詰めていた神経を優しく解きほぐしてくれた。
奥のテーブル席に向かい合って座ると、雫はどこか落ち着かない様子でグラスの水を一口飲み、テーブルクロスの端を指先で所在なげになぞった。
「あの、良い報告って……テストのことですか?」
雫の声音には、期待よりも不安が勝っていた。自分の描いた素材が、実際の携帯端末でどう受け止められているか。一般のユーザーに見向きもされていないのではないか。テストの評価を待つ間、彼女の視線はグラスの表面についた水滴をじっと追っていた。
悠はメニューをテーブルの端に置き、まっすぐに雫の目を見た。
「テスト参加者が一番時間を使っていたのは、天海さんのアバターでした」
雫の瞳が微かに揺れた。俯いて、膝の上で両手をきゅっと握りしめる。
「機能の豊富さや利便性より、天海さんの作った世界観がユーザーを動かしました。だからこそ、使われていない機能を削って、天海さんのアバターをもっと快適に表示できるようにシステム側を修正しています。天海さんの作品が、今のネクサスの中心です」
雫はゆっくりと顔を上げ、ほんのわずかに目元を赤くして微笑んだ。
「……信じられません。私の絵を、そんな風に使ってくれる人がいるなんて」
「これが現実のデータです。天海さんはご自分の才能を、もっと信じていい」
悠の言葉に、雫は強く頷いた。
「ありがとうございます、神崎さん。……私、もっと頑張ります。せっかく神崎さんが用意してくれた場所なんだから、皆がもっと欲しくなるようなアイテムを、たくさん描きたいです」
雫の言葉に、悠は満足げに頷いた。
やがて食事が運ばれてくると、仕事の緊張が解けたのか、二人の間には穏やかな空気が流れ始めた。悠が頼んだオムライスを静かに崩しながら食べる様子を見て、雫がふと不思議そうな顔をした。
「神崎さんって、そういう普通の洋食も召し上がるんですね」
悠はスプーンを止め、おかしそうに笑った。
「俺をなんだと思っていたんですか?」
「えっと……いつも難しい顔をしてデータを見ていて、食事もサプリメントとか、すごく高いお店のコース料理しか食べないような、隙のない人だと思っていました。でも、普通のオムライスを美味しそうに食べてるのを見ると、なんだか不思議な感じがして」
「普通にコンビニの弁当も食べますよ。家では、自炊でうどんを茹でることも多いですし」
悠が何気なく答えた言葉に、雫はくすりと笑い声を立てた。
「ふふっ、家でうどんを茹でる神崎さんなんて、想像できません。でも、本当の神崎さんを知ることができた気がします」
雫はフォークを置き、真面目な顔になって悠を見た。
「神崎さんは、ずっと遠くから全部を見透かしているような、どこか別の世界の人みたいに見える時があります。でも、今こうして話していると、私と同じように笑ったり、普通のご飯を食べたりする。……なんだか、それがすごく嬉しいんです。神崎さんが、近くに感じられて」
窓の外では、夕暮れの光が街をオレンジ色に染め始めている。
★★★★★★★★★★★
深夜。
悠は安アパートの六畳間に戻り、一人きりの静寂の中にいた。
ネクタイを外し、シャツのボタンを開ける。薄暗い部屋の中で、悠はまずブルゴーニュの赤ワインをグラスに注いだ。熟成された果実の香りを嗅ぎ、一口含んで喉の奥へ流し込む。雫との夕食や、オフィスでの議論の余韻を味わうための時間だった。
グラスが空になると、悠はノートパソコンのモニターを開いた。
続けてモルトウイスキーのボトルを引き寄せ、琥珀色の液体を別のグラスに注ぐ。木箱からコイーバ・シグロ・シックスを取り出し、手慣れた所作で火を回した。
ウイスキーのグラスを片手に、悠はその日のクローズドテストの最新ログへアクセスした。
成瀬の迅速な対応により、アバター周りの動作は数時間前よりも劇的に軽くなっている。ストレスが減ったことで、着せ替えの頻度と他者のページへの訪問回数はさらに加速していた。それに連動して、新着一覧や関連作品のサムネイルを開く回数も順調に伸びている。数字の動きが、テスト参加者たちの熱狂を如実に物語っていた。
悠はログデータとは別にまとめられた、テスト参加者からのフィードバックのリストへ目を留めた。細かい機能への要望や不満が並ぶ中、ある一つの書き込みの群に止まる。
『自分のアバターを、他の友達にも見せたい』
『一緒にゲームをしたいから、学校の友達を呼べないか』
『新しく参加するための、招待枠が欲しい』
ただの機能の集合体であれば、人はここまで熱狂しない。自分のアイデンティティとなるアバターがあり、それを見せ合う場所があるからこそ、人は他者を巻き込みたくなるのだ。
閉鎖されたテスト環境に生まれた熱量が、外へ向かおうとしている。
悠はマウスのホイールを回し、フィードバックの件数を正確に把握した。この熱を逃さず、一気に市場へ広げるための導線が必要になる。
ただ無秩序に開放するのではない。「招待された者しか入れない」という限定感が、初期の熱狂をさらに煽るはずだ。
悠はウイスキーのグラスを置き、キーボードへ両手を乗せた。招待機能の具体的な仕様要件と、予想されるトラフィック増大に耐えうるサーバー増強の緊急計画を、明日の朝一番で成瀬と結城に提示するためだ。
タイピングの音が、深夜の静まり返った六畳間に響き始めた。




