第18話 試作一号
五月の第二週。
ネクサスのオフィスに響いていたのは、いつもの乾いたキーボードの打鍵音ではなく、成瀬のデスクに並べられた数台の検証用携帯端末が発する無機質な電子音だった。
折りたたみ式の端末を手に持った成瀬の親指が、プラスチックの十字キーをリズミカルに弾く。だが、液晶画面の反応は指の速度にまったく追いついていない。画面の右上でパケット通信中を示す小さなアンテナアイコンが明滅を繰り返し、画面下部の細い読み込みバーがじりじりと右へ伸びていく。
カチリ、と決定ボタンを深く押し込んでから画面が一度白く暗転し、次のコンテンツのページが完全に表示されるまでに、確かなタイムラグが生じていた。
「……遅いですね」
背後から画面の遷移を覗き込んでいた悠が、その秒数を数え終えて静かに口を開いた。
成瀬は十字キーを操作する手を止め、小さく息を吐いた。「貸してください」と手を差し出した悠へ、検証用の端末を素直に渡す。
「ええ」
成瀬は手元のノートパソコンへ視線を戻した。黒い背景のターミナル画面には、サーバーとの通信ログが滝のような速度で絶え間なく流れ続けている。
「それぞれ単体のコンテンツとしては、画像もスクリプトも限界まで削って最適化しています。ただ、四つの分野を横断するとなると話が別です。音楽の楽曲リストから漫画のサムネイル一覧へ飛び、そこから共通IDのマイページへ戻って、さらにミニゲームへ遷移する。どうしても画面をまたぐたびに、セッションの確認と再読み込みが発生します。現在の端末のメモリ容量と3G回線の速度では、これが限界に近い」
言い訳めいた響きは一切なく、成瀬の声はインフラストラクチャの限界を数値として正確に報告する技術者のそれだった。
隣でそのやり取りを聞いていた結城が、銀縁眼鏡の位置を少し直し、手元の分厚い資料へ視線を落とした。
「権利者側からの見え方としても、ページが開くまでに数秒待たされるのは印象が良くありません。ユーザーは待つことを嫌う。離脱率が高くなれば、相互送客による収益の最大化という我々の最大の武器が機能しなくなる。権利者へ約束したロイヤリティの分配にも直結する問題です」
数秒後、悠の手にある端末の画面に、ようやくインディーズ出版社から提供を受けた漫画のサムネイル一覧が並んだ。しかし、画像を読み込む間もスクロールはもたつき、軽快な操作とは程遠い。
悠は端末をデスクへ置き、少し離れた席からこちらを真剣な目で見つめていた雫へ視線を向けた。
「天海さん」
急に名前を呼ばれた雫は、少し驚いたように肩を揺らしたが、すぐに背筋を伸ばして悠の方を向いた。
「今、アバターから他のコンテンツへ移動して、また戻ってくる操作を見てもらいました。その時のストレスを、率直にどう感じましたか?」
「……少し、重たいです」
雫はモニターに映る自分の描いたイラストと、実機でのもたつきを見比べて答えた。
「自分の描いたアバターがちゃんと表示されるのはすごく嬉しいんですけど、メニューを行き来するたびに画面が固まるような感覚があると、何度も触ろうとは思わなくなるかもしれません。それに、読み込みの途中で画像が半分だけ表示されている状態が続くのも、少し気になります」
雫の率直な言葉を聞き、悠は迷うことなく成瀬へ向き直った。
「遷移にかかる通信量を半分に落としましょう。トップページに表示する情報量も削る。アバターの画像データも、もう一段階軽くできないか検証してください。機能の豊富さより、レスポンスの速さを最優先します」
「分かりました」
成瀬が即座に手元のキーボードを叩き、アーキテクチャの修正案をテキストエディタへ打ち込み始める。
「画面の階層を浅くして、不要なリダイレクトを省略します。ただ、アバターの画像容量をこれ以上削るとなると、かなり画質が落ちる可能性がありますが……」
成瀬が視線を向けた先で、雫はすでに自分の席のペンタブレットを引き寄せていた。モニターの横には、開かれたスケッチブックが置かれている。
「やれます」
雫はスケッチブックの余白に素早くペンを走らせて計算らしきメモを書き込みながら、はっきりとした声で答えた。
「境界のアンチエイリアス処理をもう一度見直して、同系色のパレットを統合すれば、パッと見の印象を変えずにデータ量をまだ削れます。着せ替えのたびに読み込む差分データも、私が最初からレイヤーの分け方を工夫しておけば、もっと減らせるはずです。ベースになる素体と衣服の重なり部分の透過処理が重いなら、あらかじめエッジを馴染ませた別パーツを用意します。すぐにテスト用の素材を作り直します」
「……助かります。それなら、技術側のキャッシュ処理と合わせて、遷移時間を劇的に短縮できるかもしれない」
成瀬が安堵したように息を吐き、モニターへ向かって具体的な数値の計算を始めた。技術的な制約を押し付けているにもかかわらず、創作側からそれを補って余りある具体的な解決策が即座に返ってくる。その連係の速さに、結城もわずかに口角を上げていた。
「頼みます」
悠は短く応え、モニターに向かい直った二人の背中から静かに視線を外した。オフィスには再び、問題解決に向けた無数のタイピング音と、ペンがタブレットを滑る小気味良い摩擦音だけが響き始めた。
★★★★★★★★★★★
その日の夜。
ネクサスのオフィスから安アパートへ戻った悠は、コンビニのレジ袋から夕食を取り出した。窓の外からは、遠くの国道を走るトラックの低い走行音が微かに響いてくる。
初夏の少し湿った空気が漂う部屋の中で、悠はネクタイを緩め、ローソンで買ってきた弁当を電子レンジへ入れた。牛肉に大根おろしを合わせたシンプルな弁当だ。
規定の時間きっちり温め、電子レンジの電子音が鳴ると同時に取り出す。プラスチックの蓋を開けると、熱気とともに肉の匂いが立ち上った。付属の小袋からポン酢を回しかけ、割り箸を割る。脂の乗った牛肉の重さを、大根おろしのさっぱりとした酸味が中和し、長時間の議論と画面の注視で疲労した胃にも無理なく収まっていく。
手早く食事を済ませて空き箱をゴミ袋へ放り込み、ペットボトルのゴーヤー茶を口に含む。冷たく独特な苦味が舌を洗い流し、口の中をさっぱりとさせた。
悠は窓際の小さなテーブルに移動し、木箱からシガーを取り出した。
サン・ルイ・レイ・ペティ・コロナス。
なめらかな薄茶色のラッパーの感触を指先で確かめ、金属製のシガーパンチを手に取る。丸い刃先を吸い口の中心に押し当て、静かに回転させながら小さな穴を穿つ。切り取られた丸い葉の破片を落とし、マッチを擦った。
硫黄の匂いが完全に消えて木の軸へ穏やかな火が移るのを待ち、葉巻の先端へゆっくりと熱を含ませていく。焦がさないように均等に火を回し、フットが赤く熾るのを確認してから、一口目を静かに引き込んだ。
ハバナ産特有のウッディな甘みと少し土の香りがする煙が、静寂に包まれた部屋に広がっていった。
深く煙を吸い込みながら、悠は今日の試作版の挙動を頭の中で反芻していた。
成瀬のインフラ構築能力と、雫のクリエイターとしての柔軟な対応力。二人の修正が入れば、動作の重さは間違いなく解消されるだろう。現在の端末と回線速度に合わせて最適化された、軽快なプラットフォームが出来上がる。
だが、それだけでは足りない。
どれだけ身内で「サクサク動くようになった」「画質が保たれている」と評価しても、それは作り手側の理屈でしかない。
実際のユーザーが、そのサービスに時間を使い、お金を払う価値を見出すか。毎日ログインしたいと思うか。雫の描くアバターに、自分の分身としての愛着を抱くか。それこそが、事業の成否を分ける。
技術的に優れていることと、人がそれを欲しがることは同義ではない。
(器はできた。中身の調整も終わる)
悠は灰皿の縁にシガーを置き、ノートパソコンの画面を開いた。
暗い部屋の中で、青白い液晶の光が悠の整った顔を照らし出す。
身内の評価で満足している時期は終わった。
完成したばかりのこのプラットフォームを、作り手の想定を超えた動きをし、容赦のない評価を下す「実際の利用者」へ試す時だ。
悠はキーボードに手を置き、成瀬へ向けた短いメールを打ち込み始めた。
『クローズドな環境での、一般利用者による初期テストの準備に入ってください』
送信ボタンを押す。小さな駆動音が鳴り、メッセージがネットワークの向こうへ飛んでいく。悠は再び葉巻を手に取り、静かに煙を吐き出した。




