第16話 大手ではなく小さな才能から
四月も下旬に入り、朝の冷え込みはずいぶんと和らいできた。
安アパートで目を覚ました悠は、いつもの冷たい牛乳を飲み干し、ガラス戸を開けてベランダへと出た。春のぬるい空気を肺の奥まで吸い込みながら、ポケットから取り出した煙草に一本だけ火をつける。細く吐き出した紫煙が、霞がかった東京の空へと溶けていく。
頭の中ではすでに、今日オフィスで詰めるべき課題へと完全に思考が切り替わっていた。
共通基盤と課金モデル。器と収益の仕組みは整いつつある。
今日詰めるべきなのは、その基盤へ載せるコンテンツの確保だった。
どれほど優れたシステムを組み上げ、利便性の高い決済手段を用意したとしても、それはあくまで「器」に過ぎない。その中へユーザーを熱狂させ、財布の紐を解かせるだけの魅力的な「中身」がなければ、プラットフォームはすぐにゴーストタウンと化してしまう。
短くなった煙草を灰皿へ押し付け、悠は短く息を吐いた。ジャケットを羽織り、ネクサスのオフィスへと向かう。
★★★★★★★★★★★
「結論から言えば、出版社の役員たちの感触自体は決して悪くありませんでした」
ネクサスの小規模なオフィスに到着するなり、結城は手元の分厚いファイルをデスクに置きながら報告を始めた。その表情は、長年権利実務に向き合ってきた男特有の、感情を抑えた静かなものだった。
「我々が提示したハイブリッド型の収益設計、そして第三者監査を可能にする透明なロイヤリティ分配の仕組み。それらに対しては、彼らも高い関心を示していました。担当者レベルでは、すぐにでも提携を進めたいという熱意を感じたほどです。ただ……」
結城はそこで一度言葉を切り、眼鏡のブリッジを軽く指で押し上げた。
「自分たちが最初の実験台になるリスクは負いたくない。他社の動向や、実際にプラットフォームが稼働し、安全に収益が上がる様子を見てから判断したい、というところです」
大手企業が持つ保守的な力学。それは結城が以前いたレコード会社や出版社で痛いほど味わってきた現実だ。担当者がどれほど新しいビジネスモデルの将来性を理解し、熱意を持ったとしても、役員会を通る段階で「前例がない」「他社がやってからでも遅くない」「既存の流通網への影響が不透明だ」という無難な判断へ落ち着いてしまう。
「想定の範囲内です」
悠は一切の落胆を見せることなく、淡々と応じた。大手が新しい技術やプラットフォームに対して最初は及び腰になることは、未来の歴史が証明している。彼らが本当に動くのは、新しい市場が既存の市場を脅かし始めた時か、あるいは競合他社がそこで莫大な利益を上げ始めた時だけだ。
「大手が動かないなら、今の流通からこぼれているところを先に取ります。インディーズと個人クリエイターです」
悠は結論だけを告げ、デスクの引き出しから数枚のプリントアウトしたリストを取り出した。立ち上がることなく、デスク越しにそのリストを結城と成瀬へ向けて滑らせる。
結城がリストに目を落とした。そこに並んでいたのは、大手とは呼べない中小規模の企業名や、個人名、あるいはネット上のハンドルネームばかりだった。
「なるほど。確かに、そこなら既存流通で十分な収益機会を得られていない人材も多い。大手のような複雑な社内政治の壁もありませんし、新しい収益機会に対してはハングリーでしょう」
「ええ。だからこそ彼らに対して、既存の出版社やレコード会社では絶対に提示できない、圧倒的に有利な収益分配条件を提示します」
「有利な条件、ですか」
「プラットフォームの維持費と決済手数料を差し引いた利益のうち、過半をクリエイターと権利者へ直接還元する。その条件で、独占、あるいは先行配信の契約をもぎ取ります」
結城はわずかに眉を寄せ、鋭い視線を悠へ向けた。
「利益の過半、ですか。それは……既存の業界の常識からすれば、破壊的とも言える数字ですね。権利者にとってはこれ以上ない好条件ですが、我々のプラットフォーム側の取り分が極端に薄くなります」
「今は利益率を追う段階ではありません。重要なのは、ネクサスという経済圏に良質なコンテンツを囲い込み、ユーザーのトラフィックを独占することです。コンテンツが集まれば人は集まり、人が集まれば、後から大手も嫌でも頭を下げて我々のプラットフォームに乗らざるを得なくなる」
悠の揺るぎない視線を受け止め、結城は小さく息を吐いた。
「過半という数字の強さは理解しました。ただ、『維持費』の範囲は契約できっちりと固定しましょう。そこを曖昧にして後から不当な経費を引けば、我々が批判してきた不透明な収益分配と同じになります」
「もちろんです。控除項目はすべて明確に開示し、ブラックボックスは一切作りません」
悠が即座に頷くと、結城は手元のリストを綺麗に揃え、確かな手応えを感じたように頷き返した。
「それなら強い条件になります。大手の分厚い壁を崩すための迂回路として、一気に作品群を確保できますね。すぐにリストの前半にある中小レーベルと出版社へ、アポイントの準備に入ります」
★★★★★★★★★★★
それから数日後の夕方。
外出から戻った結城は、ずっしりと重みのあるアタッシュケースをデスクに置き、いつもは冷静な彼には珍しく、静かな高揚感を漂わせていた。
「神崎さんの見立て通りでした。彼らは新しい収益機会に対して、我々が想定していた以上にハングリーでしたよ」
結城はケースの留め金を外し、中からいくつものクリアファイルに収められた契約書と許諾書の束を取り出した。
「利益の過半還元、利用実績のリアルタイム開示、そして控除項目の透明化。これらはまさに、彼らが喉から手が出るほど欲しい環境だったようです。いくつかのインディーズレーベルの社長は、条件を聞いた途端に身を乗り出してきました。既存の流通網では棚を確保するだけでも多大なコストがかかり、売上の実態も数ヶ月遅れでしか把握できない。我々の提案は、彼らの抱える不満をすべて解消するものでした」
結城がテーブルに並べた書類には、多数の署名と捺印が記されていた。
「第一弾として、インディーズレーベル三社から楽曲約八百曲。中小出版社二社から、一部の熱狂的ファンを持つニッチな漫画作品を十数タイトル。さらに、個人制作のFLASHゲームやデジタルアイテム用のイラストなど数十点分の先行配信契約を取り付けました。これで、ネクサスの共通決済と相互送客を回すための『最初の作品群』は確保できたことになります」
結城の報告を聞いていた成瀬が、椅子の背もたれに寄りかかって大きく息を吐いた。
「いや、助かりますよ。ダミーのテストデータじゃなくて、実際の本番コンテンツが入るなら、データベースの正規化もキャッシュのチューニングもずっと具体的な数字で詰められる」
しかし、と成瀬はすぐに画面へ視線を戻し、技術責任者としての懸念を口にした。
「大手数社からまとまった統一フォーマットのデータをもらうのと違い、中小や無数の個人クリエイターから不規則にコンテンツがアップロードされることになる。インディーズのデータなんて、ファイル形式もメタタグもバラバラでしょう。我々が手作業で登録していてはすぐに限界が来る。メタデータの管理や、デジタルアイテムとの紐付け、価格設定をクリエイター自身が行えるような管理画面と、自動化の仕組みを裏側で組む必要がありますね。もちろん、著作権侵害や不適切コンテンツを防ぐ審査プロセスも必須になる」
「できますか?」
悠が尋ねると、成瀬はキーボードから手を離し、モニターを見つめたまま短く答えた。
「できます。もう拡張設計は頭に入っています。最初から完全な自動化システムを全部作り込む必要はありません。まずは手動審査を挟みつつ、必要になったところから段階的にシステム側へ権限を委譲できる構造にしておきますよ」
成瀬はそう言うと、手元にあった大学ノートを引き寄せ、管理画面のデータフローと審査プロセスの要件をボールペンで素早く書き出し始めた。
その頼もしいペンの音を聞きながら、悠は手元に残したリストの最後の一枚に視線を落とした。
「……そして、ここに挙げた数人の個人クリエイターには、俺が直接会いに行って話をまとめます」
★★★★★★★★★★★
四月三十日の午後。
悠は都内の落ち着いたルノアールの奥の席で、ブラックコーヒーを口にしながら待っていた。
静かなクラシック音楽が流れる中、約束の時間に少し遅れて、一人の若い女性が姿を現した。
天海 雫。この春に都内の大学へ入学したばかりの十八歳の新入生であり、悠が自ら直接交渉に出向いた才能の原石だ。
ボーイッシュで活発な印象を与える少し短めのショートボブヘア。肩からは大きなキャンバス地のトートバッグを提げ、少しサイズの大きいカーディガンを羽織っている。本来ならはつらつとした愛嬌のある顔立ちなのだろうが、周囲を気にするような足取りで店内を見回すその表情には、どこか自信なげな影が落ちていた。
悠の姿を見つけると、躊躇いがちに近づいてきた。
「あの……神崎さん、でしょうか?」
「ええ。天海さんですね。お待ちしていました。どうぞ」
悠が立ち上がって向かいの席を勧めると、天海は小さく頭を下げ、ソファの端に浅く腰を下ろした。
悠はウェイターを呼んで彼女の飲み物を注文し、丁寧な口調で切り出した。
「大学の授業の後にわざわざお時間をいただき、ありがとうございます」
「い、いえ……その、私のような無名の人間に、なんの御用かと、少し不安で……」
天海は自分のバッグの持ち手を両手で強く握りしめながら、伏し目がちに答えた。その声は微かに震えている。無理もない。突然見知らぬベンチャー企業の代表から連絡を受け、こうして呼び出されたのだから、警戒するのは当然だった。
悠はテーブルの上に、天海がウェブ上で公開している作品をプリントアウトした資料を静かに置いた。
緻密で幻想的な世界観と、どこか切なさを帯びたキャラクターの造形がそこには色鮮やかに印刷されている。
「天海さんの作品を拝見しました」
彼女の肩が、びくりと跳ねた。
「その……恥ずかしいです。ただの趣味で描いているようなものですから」
「趣味、ですか?」
「はい……。以前、いくつか出版社へ持ち込んでみたことはあるんです。でも、今の流行の規格に合わない、ストーリーの見せ方が商業誌向けじゃないって、全部断られてしまって。一部の人がネットの辺境で見てくれているだけで、私には、商業で通用する才能なんてないんじゃないかって……」
自嘲するように呟く天海の表情の奥には、長年の持ち込みや拒絶によって蓄積された焦燥感と、諦めの影が落ちていた。
だが、悠は知っている。
天海が描くこの緻密な世界観が、数年後のデジタルコンテンツ市場において熱狂的な支持を集め、巨大なトレンドの源流となることを。未来のゲームやアニメーションにおいて、彼女の生み出したデザインと物語がどれほどの莫大な価値を生み出すかを。
既存の出版流通という狭い「規格」に収まらなかっただけで、彼女の才能は紛れもなく本物だ。そしてネクサスが作ろうとしているのは、まさにそうした規格外の才能が、世界中のユーザーと直接繋がり、正当な対価を受け取れるインフラだった。
未来の巨大な才能を秘めた原石を前に、悠はゆっくりと口を開いた。
「流行の規格に合わないのではありません。既存の器が、あなたの描く世界を収めきれないだけです」
悠の静かで力強い声に、天海はハッとして顔を上げた。
「俺はこれから、新しいエンターテインメントのプラットフォームを立ち上げます。そこには、ページ数の制限も、編集者の個人的な好みによるダメ出しもありません。天海さんの作品を、世界観をそのままの形で、それを欲しているユーザーへ直接届ける場所を作ります」
彼女の瞳が、僅かに揺れた。
「……私の作品を、欲している人たちが、いるんでしょうか?」
「必ずいます。俺がそれを保証します」
悠は真っ直ぐに天海の目を見据えた。そこにあるのは単なる励ましではない。未来の歴史を誰よりも正確に把握している者だけが持つ、絶対的な確信だった。




