3.
「アリシア王女殿下が留学、ですか?」
ルーデンの執務室に出向いたフィリップは、聞かされた情報に思わず耳を疑い、戸惑いの声を上げる。
当然だ。
ついこの間彼女と会った時には、そんな話はしていなかった。
それもそのはず、王命が下ったのが三日前で、この国を発ったのが今朝のことだというのだから、動揺しない方が無理だった。
ルーデンは顎髭を撫でながら言葉を続ける。
「そうだ。将来チェルシー殿下の治世を支えるため、今のうちから他国との友好関係を築くようにとのことだそうだが。チェルシー殿下に疎まれていたようだから、体よく他国へ追い出されたと言った方が正しいだろう」
ルーデンから聞かされた言葉に、体の中がすっと冷えていくのが分かる。
彼女がチェルシーに疎まれている、というのには覚えがあった。
気に入られていないのは変わらずだが、フィリップを伴って出席する夜会での彼女の振る舞いは、彼がうまく手綱を握っていることにより幾分マシにはなっていた。
その夜会で、アリシアの名が出ると、途端に彼女は不機嫌になるのだ。
そのような短期間の準備で王族が留学するなど聞いたことがないし、おそらくそのつもりで、下準備をしていたに違いない。
「……いつお戻りになるのですか」
「少なくとも数年はないだろう。もしかしたらそのまま他国に嫁がせる気かもしれんな」
彼女とのあの時間がなくなることも、いつか誰かのものになり、手が届かないところに行ってしまうことも、覚悟をしていたつもりだった。
それなのに腹の奥から何か黒い塊がせり上がってくる。
これまで呑み込めていていつか消えると思っていたそれは、本当は全く消化しきれていなくて、ずっと彼の中に沈んでいただけだったのだと、やっと自覚した。
何とかいつものフィリップとしてその場に立っている彼を前にルーデンの話は続くが、彼の耳にはもはや何も入らない。
部屋に戻り、ソファに倒れるように深く沈みこんだフィリップは、絶望の表情で天を仰ぐ。
もうすぐカレッジを卒業する。このままいけば一年後にはチェルシーと結婚することになるだろう。
それはアリシアに出会う前の自分なら待ち望んでいたことだったのに、今はその事実に絶望する。
この国が欲しい、という欲求に変わりはない。
変わったのは、それと同じくらいアリシアを欲しているということだ。
彼女がここにはいないという事実に、胸が焼けるように痛む。
強烈な渇きに発狂して、この身を自分で引き裂いてしまいそうなほどだ。
今すぐ追いかけたい。急げばまだ追いつく可能性はある。
だが、追いついてどうする。
自分と一緒に戻ろうとでも言うのか。
そんなこと無理に決まっている。
それに仮にそう言ったところで、彼女がフィリップの手を取ることはないだろう。
「色々面倒になってきたな……」
いっそのことこの国を滅ぼしてしまおうか。
そして彼が新たな王として君臨してアリシアを手に入れ、自分しか入れない空間に閉じ込めればいいと、仄暗い欲望に駆られ、すぐに頭を振る。
国を汚すようなやり方で、このリンデルを手に入れたいわけじゃない。その方法で手に入れたかったなら、とっくにそうしている。
アリシアに関してもそうだ。
籠の中に閉じ込めてしまったら、彼女は二度と、あの瞳でまっすぐ彼を見てはくれないだろう。
そんなのは、彼の欲するアリシアではない。
ではどちらかを諦めるか。
このままチェルシーと結婚し、子を設けた段階で何らかの理由をつけてチェルシーを排除すれば、何の労もなくこの国が手に入る。
だが気持ちに気付いた今、フィリップ・ローズデンの皮を被ってチェルシーに触れられる自信がない。
ならばアリシアを選ぶかと問われても、即答ができない。
妥協したことも、諦めたこともない。
欲しい物は全て手に入れてきた。
どちらかを諦めるかと問われても、それに対する答えをフィリップは既に持っていた。
簡単な話だ。
どちらも選べない。
なら、どちらも手に入れる方法を考えるしかない。
アリシアが女王となり、フィリップがその王配となる。
その為に取り除かなければいけない障害は多い。
チェルシーの王位継承権が剥奪されるよう持っていくのはたやすいことだが、問題は、その下にいるリリアンヌだ。
フィリップに密かに怯え、妹にアホ可愛いと言われる彼女だが、女王足る資質は持っている。彼女をどうにかしなければならない。
それにもう一つ。
二人を排除してアリシアを次期女王として迎えるにしても、何も成果を上げていない今のままの彼女ではただのお飾りで、フィリップのおまけとしてしか認識されないだろう。
それは彼の本意ではない。
少なくとも二年は欲しい。
それだけあれば、必ず彼女は成果を上げると確信していた。
チェルシーのスペアでもリリアンヌの代わりでもない。
誰もが納得する形でアリシアを次期女王へと押し上げたい。
彼女が留学してしまったのは、ある意味好機でもある。アリシアが次期女王としてふさわしいと存在感を示せるような成果を上げられればいい。
そのための時間を稼がなければならない。
フィリップは一刻も早く彼女を手に入れたいと負の感情に引きずり込まれそうになる己を必死に押し留め、望む未来の為、頭の中で綿密に計画を練り始めた。
●●●●
「フィリップ・ローズデン! お前は公爵家という立場を利用して、ここにいるリーフに嫌がらせをしたり、刺客を送り込んで彼を殺そうとしたわね!? お前は私の婚約者としてふさわしくない。今この場でお前有責で婚約破棄をし、そして私は真実の愛で結ばれたこのリーフを夫とするわ!」
アリシアが旅立ってから、二年と数か月が経った。
チェルシーが意気揚々と婚約破棄を宣言する様を目の前にし、遂にここまできたとフィリップは内心笑いが止まらなかった。
この夜会には最近になって交友を深めたダマル帝国の皇子の姿もある。
そんな中、リーフの証言のみでチェルシーがこのような婚約破棄の宣言を出したのは、当然フィリップの誘導によるものである。
事の発端は、リリアンヌの婚約者であった男が、真実の愛を見つけたと書置きを残し、市井の女性と駆け落ちをしたことだ。
『真実の愛』という単語はチェルシーには大変魅力的なものに映ったらしく、結婚目前になって婚約者を代えろと騒ぎ立てたのだ。
娘に甘い両陛下もさすがにそれはと宥めたが、これまで散々甘やかされてきたチェルシーは一向に聞かない。
とうとうチェルシーではなく、王配はフィリップそのままに、リリアンヌを女王候補にしようと考えていたところで、操りやすい傀儡がいなくなるのは困るとローズデン家が待ったをかけた。
ローズデン家は、フィリップがチェルシーに心を傾けてもらえるよう力を尽くすので、とりあえず結婚を先延ばしにしてほしいと進言し、チェルシーをなんとしても王座に就けたい両陛下はそれを受け入れた。
しかし、フィリップの尽力も及ばず、いつの間にか急接近していた男爵家のリーフという男に夢中になり、二人は人目も憚らず愛し合うようになった。
ちょうど世間では、爵位の低い令息と高貴な令嬢が、様々な苦難を乗り越え結ばれるという物語が流行っており、それを参考にしたチェルシーが、フィリップがリーフを虐げたという苦難を捏造し、このような暴挙に出たのだ。
場が騒然とするのを肌で感じながらも、フィリップはここで一度気を引き締め直し、この場にふさわしいフィリップ・ローズデンを演じ対応する。
常より王家に忠誠を尽くし、周囲からの評価も高いフィリップと、元より好感度が地中に埋まるほどで愚かだと噂されているチェルシーとどちらに軍配が上がるかは、明白だった。
チェルシーが婚約者であるフィリップを蔑ろにしているのは有名な話だったし、しかもあのフィリップがそのようなことをするはずがないと誰もが彼を擁護した。
娘の暴挙を目にした両陛下は、夜会を即座に中止せざるを得なかった。
参加者たちは、さすがの両陛下も、自国の人間だけならともかく、大陸で最も発言力のあるダマル帝国の人間がいる中でお粗末な言動を誇らしげに行うチェルシーを女王に据えさせることはもはや不可能だろう、そう口々に言いながら会場を後にした。
「何と言うことだ! このままではリリアンヌが次期女王に指名されてしまうではないか!」
帰りの馬車の中で、ルーデンが憤ったように声を荒げる。
「あの馬鹿王女を裏から操る計画が台無しではないか! フィリップ、せっかく猶予をやったというのに、なんでその間にあの女を引き留められなかったんだ!?」
「私の不徳といたすところです、申し訳ありません」
フィリップは怒り狂うルーデンに対し、頭を下げる。
「くっ、こんなことなら、あの馬鹿王女が婚約解消と騒ぎ立てた時点で革命でも起こして国を乗っ取っておくべきだったな。お前がなんとかすると言うから、その言葉を信じて任せたというのに。使えん奴め!」
その後も怒りをぶつけるように罵るルーデンの言葉を、顔では真摯に受け止めるふりをしながら、頭の中では全く別のことを考えていた。
始めから今まで、全てが彼の思うまま順調に事が運んでいた。
この後の流れとしては、おそらくチェルシーにはなんらかの処分が下る。
処刑はないだろうが、一番厳しい修道院に生涯幽閉辺りが妥当だろうか。
噛ませ犬のリーフにも相応の罰が下るだろうが、もはや使い終わって落ちていく駒の未来など、フィリップにはどうでもよかった。
リリアンヌの元婚約者に関しても同様だ。
あれの処分は既に終えている。
そしてそのリリアンヌだが、夜会が始まる前に種は蒔き終わっている。
リリアンヌについては、婚約者がいなくなる前から、彼女を国内から追い出す為、リンデルにとって最も益となる彼女の嫁ぎ先を探していた。
いくつかの集まりに参加し、候補を絞り、最終的に狙いを定めたのがダマル帝国だった。
側近と近付き彼を介して皇子と接触し、関係を築いた。
帝国との縁を手に入れるのには時間がかかったが、リリアンヌとの対面を果たした皇子の態度から見るに、そちらも滞りなく進みそうだ。
その後、チェルシーは生涯幽閉されることが決まり、新しく女王としてリリアンヌが指名されたが、この婚約破棄騒動を理由に、公爵家の中には王家へ反旗を翻すべきだとの声を上げる者が数名出てくる。
その筆頭は当主のルーデンだった。
しかし、フィリップは言葉巧みにルーデンを宥め、その動きはすぐに沈静化する。
そうこうしている間にダマル帝国から使者がやってきて、リリアンヌがダマル帝国の皇子に求婚されるという、フィリップ以外誰も予想していなかった事態が起きる。
断れば軍を差し向けることも厭わない、逆に受け入れればリンデル王国の後ろ盾になると言われれば、従うほかなかった。
そうなると、女王になれる人間は一人しか残されていない。
国を離れて以来一度も帰国することなく、いくつもの国を渡り歩いている王女アリシア。
これが二年前なら、優秀であったと評判のリリアンヌの後釜としては、いささか物足りず、お飾りの女王にしかならないと思われていただろう。
しかし彼女は着実に成果を出していた。
誰であっても物怖じせず、それでいて相手の本質を見極める能力に長けた彼女は、癖のある各国の要人たちを瞬く間に虜にし、リンデル王国と縁を結びたいと申し出る国が増えていた。
それにより、今までに見たことがなかった文化や食材がリンデル王国にも入ってきており、また自然が豊かで過ごしやすく、季節の移ろいを感じられる美しい国を訪れたいと、他国からのリンデルの人気も高まっている。
そんなアリシアと、国の為に忠義を尽くすフィリップが共に上に立つなら、リンデル王国の未来は明るいと人々は考え、アリシアの女王就任を歓迎する流れが広まった。
「リリアンヌではないだけマシか。ローズデン家がこの国を支配する……その悲願達成のため、お前がすべきことは分かっているな、フィリップ」
彼のすべきこと。
それは目の前でふんぞり返るこの男を、近い将来当主の座から引きずり落とすことだ。
既に兄は——ローズデン家はフィリップの掌の上にある。
勿論ルーデンだけではない。
引きずり落とすのは、今の両陛下も一緒だ。
逃がしはしない。それまでせいぜい、栄華を極める夢でも見ておけばいい。
ルーデンの言葉に頷きながら、フィリップは仮面の下で静かに嗤った。
そして、リリアンヌが婚姻のため、帝国へ旅立った数日後。
遂に両陛下から、アリシアを次期女王とし、その王配をフィリップにすると正式に王命が下された。
●●●●
何かが髪を優しく撫でる感覚にそっと目を開けると、すぐ目の前にアリシアの顔があった。
彼女はフィリップが見ていることに気付かず、とても楽しそうな表情で、片手に持った手紙を読み進めている。
相変わらず綺麗な彼女の瞳をぼんやりと眺めていると、ふと目が合う。
「あ、起きたんですね」
そう言って便箋を丁寧に折り畳み封筒にしまうと、にこりと微笑む。
「……どういう状況だ、これ」
フィリップの記憶では、さっきまで彼女とラベンダーの花を見ていたはずだ──正確には花を見る彼女の顔に目を奪われていたのだが。
しかし、その後がどうもはっきりしない。
靄のかかったような頭の中で記憶を手繰り寄せていると、もう一度、アリシアが幼子を撫でるような手つきで頭を撫でた。
「疲れてたんじゃないですか? フィリップ様、いつの間にか木に寄りかかって寝ていたんですよ」
「木を枕にしてるにしては柔らかくないか」
「それは、体勢が辛そうだったので勝手に膝枕したからです。ついでにずっとそのふわふわの髪の毛を触りたかったので、この機会にしっかり堪能していました」
「こんなのいつでも触れよ」
言いながら、ようやく頭がはっきりしてきた。
道理でいつもとは違う角度でアリシアが見えるわけだ。
折角一緒にいる時間だったのにそれを睡眠にあてるなんてもったいないことをしたと思う一方で、こういうのも悪くないと、フィリップは彼女の顔に手を伸ばし、頬に触れる。
「……夢を見ていた」
「どんな夢ですか?」
アリシアはそれを拒否せず、自身の手を上からそっと重ねる。
触れ合える幸せを噛みしめながら、彼女の質問に答える。
「アリシアと初めて会った時から今までの記憶だ。いい夢だったよ」
「……本当ですか?」
「なんでそんなこと聞くんだ」
「だってあなた途中、結構な頻度で難しい顔していましたし、特に最後の方なんてひどかったですよ。体調が悪いのかって思って起こそうかと思ったら急に嬉しそうに笑ったのでそのままにしましたけど」
確かに、全てが楽しい記憶だったかと問われると、即答できない。
むしろ想いを言葉として告げられなかった時の彼の感情はぐちゃぐちゃに塗りつぶされるほどに重く苦しかったし、彼女がいなかった最後の二年はまさに地獄だった。
アリシアの侍女として共に出立していたエリーに連絡を取って、彼のアリシアへの本音を全て打ち明け協力者に引き込み、他にも数名彼女に張り付かせる要員として送り込んだが、定期的に来る報告書は、彼女の近況が分かって嬉しい反面、非常に悩ましいものだった。
やれ東の国の辺境伯の子息やら伯爵家の当主やら宰相やら、果てはその国の王子まで。
留学先を変えても毎回曲者だと有名な者達に気に入られるのだ。
彼女が先ほどしまった手紙だって、差出人として書かれていたのは、彼女が二つ目に訪れた国の、頑固で偏屈だと有名だった先王の名だ。
彼らとの繋がりができたことは喜ばしいことだったが、アリシアを結婚という形で取り込もうとする人間も一定数いたため、その度にフィリップはすぐにでも連れ戻しに行きたい衝動に駆られるほどに、強く嫉妬心を煽られた。
彼女を渡すなど冗談じゃない。
当然そうならないよう手を打ったが。
しかしその想いがあるから結果として今、彼女が手を伸ばせば届く距離にいる。
なら彼にとって、気が狂いそうなほどに辛い感情が付きまとっていたあの数年間は、アリシアを知り、彼女を愛し、最後に手に入れることができたとても大切な記憶だ。
そう答えると、アリシアの頬がわずかに緩む。
婚約者となってからの彼女との関係は、以前と同じように見えて少しずつ変わってきている。
今のような表情は、過去だったら絶対に見せなかったものだ。
まだフィリップが彼女に抱いているほどの強さはなくとも、ゆっくりとそれには近付いていると感じる。
何かをねだるような目でじっとアリシアを見つめ、フィリップはゆっくりと親指で彼女の唇をなぞる。
「なぁ」
「駄目ですよ」
「……まだ何も言ってねぇけど」
「駄目です」
「今まで持ってきた菓子もお前好みだっただろう。嬉しそうに食べてただろうが」
「あなた、私がお菓子で陥落するようなちょろい人間だと思ってます?」
「違うのか?」
「……確かに甘いものは好きですけど」
心外だと言わんばかりに頬を膨らませ、アリシアはフィリップの手を顔からゆっくりと外すと、その手は握ったまま、ふわりと笑った。
「私が嬉しかったのは、あなたが私のために選んでくれたものだったからですよ。今も、昔も」
どくりと、心臓がひときわ大きな音を立てて鳴る。
彼の気持ちは一方的なもので、あの頃の彼女には義理の兄への感情しかないと思っていた。
けれど。
「いつからだ」
動揺からか、緊張からか、こぼれた言葉は声が震えていた。
けれどそんな彼とは対照的に、アリシアはあっけらかんと答えた。
「分かりません。だって恋って、気付いたら落ちているものなんでしょう?」
「っ……!」
これまで他人を意のままに動かしてきたのはいつだってフィリップだったのに、アリシアといると翻弄されるのはいつも彼の方だ。
けれどこの関係が、苦しいのにたまらなく心地よい。
「アリシア、愛してる」
「私も、好きですよ」
悔しいが、まだ彼と同じ言葉は引き出せない。
一年どころか、一生かかっても彼女には勝てないかもしれないが、それでも約束をした。
だから。
握られていた手を引き寄せ、今の彼に許されている手の甲に口付け、彼は挑むように笑いかけた。
「必ずお前を俺のところまで堕とす。だから逃げるなよ」




