1.
リンデルは現在雨期に入っている。
その日も朝から雨が降っていたため、それまでは外で行うことの多かった中庭でのお茶会は、最近はもっぱら室内で済ませることが多い。
今日ももらったお菓子を美味しく平らげた後、私はフィリップ様にあることを願い出た。
「はぁ、ふわふわで気持ちいい。幸せです……」
横向きになったフィリップ様の頭を膝の上に乗せ、私は彼の髪を存分に堪能していた。
特にこんな雨の日は、湿気のせいかいつも以上にくるんとなっていて、それが更にふわふわ感を増している。
「……確かにいつでも触っていいとは言ったが」
ご機嫌な私とは反対に、ソファに横たわるフィリップ様の声はどこか不満げだ。私は慌てて手を止める。
「もしかして私の触り方が嫌でした? 一応、髪に指に絡んであなたが痛い思いをしないように、注意はしてたんですけど」
「嫌じゃない。むしろ気持ちいい」
「じゃあなんでそんなに不満そうなんですか」
「いい加減壁を見続けるのに飽きたんだよ」
そう言って、横向きだった態勢をごろりと変え、仰向けになる。
「せめて顔が見たい」
「……分かりました」
さっきの方がたくさんもふもふできたけど、仕方がない。
手の動きを再開させまたしばらく触感を楽しんでいたら、じっとこちらを見上げていたフィリップ様が、ふっと笑う。
「なんですか? 急に笑って」
「いや、お前がえらく嬉しそうな顔で触ってるから。そんな顔を見られるなら、雨の日は面倒だがこの髪も悪くないなと」
「だって本当に気持ちいいんですよ」
その後も私は飽きもせず彼の髪に触れていると、フィリップ様がおもむろに口を開く。
「もうすぐ雨期も終わる。そうしたら、一緒に出掛けないか」
「ええと、それってつまり」
「お前が言ってただろう? もっと俺を知るため、デートの一つでもしたいって。考えてみりゃ、これまで二人でどこかに出かけたことは一度もないしな。行きたいところがあればどこでも連れて行ってやる」
フィリップ様は本当に私との約束を守ってくれるらしい。私の意志を尊重し汲み取ってくれるところは、彼の好きなところの一つだ。
だけど行きたいところ、と言われても、すぐには思い付かない。
強いて言うなら、王都だろうか。昔と比べ、この国は王都を中心として、いい意味でかなり雰囲気が変わっているらしい。
そう伝えたら、彼は了承したとばかりに軽く頷く。
「ちょうどよかった。俺も一度お前に今の王都の姿を見せたかったんだよ。最後に行ったのは、もう何年も前だろう?」
「はい。リリアンヌ姉様と二人で王女だってばれないように変装して、遊びに行ったっきりですね」
「ならどこを回るか考えとく。お前も行きたい店でもやりたいことでも思い付いたらいつでも言ってくれ」
「分かりました」
ということで二週間後、私とフィリップ様は初めてのデートに臨むことになった。
○○○○
そして迎えた当日。
その日は快晴で、気温もちょうどよく、お出かけ日和である。
あくまでもお忍びでのお出かけだ。王女だとばれないよう、普段着用しているようなドレス姿ではなく、一般の人たちに混じっても違和感のない服装に身を包む。派手な顔立ちではないので、それ以外特に変装しなくても私が王女だとばれはしないのは、以前の姉様とのお出かけで実証済みだ。
それはフィリップ様も同様で、普段の誠実そのものな仮面を取っ払い素面になった彼は、正直人相も雰囲気もがらりと変わり過ぎて、フィリップ・ローズデンだと誰も気付けない。
そんな、軽く服装を変えただけの私達がまずやってきたのは、たくさんの行商のお店がひしめき合う場所だった。
ここは中心地から少しだけ離れた、王都内で最も広い敷地面積を持つ公園である。昔から様々な催し物が行われており、毎月末に開催される行商の市もその一つだ。
そこでは私の好きな甘いお菓子は勿論のこと、ごはん系などの屋台や、食べ物以外にもアクセサリーから日用品、雑貨に書籍に絵画や怪しげな薬まで、とにかくあらゆるものが売られており、私と姉様が以前二人で遊びにきたのも、そこに行きたいからというのが理由だった。
多くの人でごった返す市はものすごい熱気に溢れていた。ぼんやりしていると人波に流されてはぐれてしまいそうなほどだ。
でもそうなる前に既にフィリップ様が、私の手をしっかりと指まで絡めて握っているので大丈夫だろう。
「アリー、気になるものはあるか」
「なら……あ、フィル、あれが食べたいです!」
念のため、外での名前の呼び方は変えようという話はしていた。当然、様付けは禁止である。
アリー、なんてリリアンヌ姉様にしか呼ばれたことがない。愛称で呼ばれるのもフィル呼びするのも慣れなくて少しむずむずするけど、フィル、と呼んだ時の彼がちょっぴり頬を緩ませているので、まあいいかと思えてしまう。
気になるお店を見つけては、そこの前で立ち止まり、串に数種類の肉が刺さったものを受け取ってその場で食べたり、顔より大きなふわふわの綿あめにかぶりついたり。
特に私が一番気に入ったのは、この国の砂糖よりももっと甘い、他国の植物を甘味料として使った色付きの炭酸水だった。留学先で訪れた国でよく飲んでいたもので、まさか自国で楽しめるとは思わなかった。
私が好きな物といえば甘いものだけど、そういえばフィリップ様の好物がなんなのか、あまりよく知らない。
……と思っていたら、今回のデートの最中に早速知ることができた。
意外にもお酒が好きなようで、特にワインがいいんだと。リンデルはワインの生産に適しておらず、昔はあまり流通していない上にとんでもなく高価な代物だったけど、今は交易の間口が広がったことで色んな国からたくさん入ってきているため、比較的安価なものが多く並ぶようになったとか。
「思考力が低下するからな。仕事上の付き合い以外ではあまり飲まないようにしているが」
選んだ二本のボトルを悩ましげな顔でじっくりと見比べ、そのうちの一本を買うことにしたのか真っ白のラベルのワインを手に取ったフィリップ様の言葉に、じゃあ他にどんな時に飲むのかと尋ねれば、何かいいことがあった時だという。
────彼の言う『いいこと』というのは、客観的に見て果たして本当にいいことなんだろうか。具体的にそこの部分を掘り下げてもよかったのだが、なんだか怖いのでやめておいた。
その後も二人でぶらぶらと、気の赴くままにいくつかのお店に立ち寄り、ぐるりと一周しかけたところで声をかけられる。
「そこのお二人さん、ちょっと寄っていかないかい?」
にこにこと人の良い顔で手招きする初老の女性は、髪の色や顔立ちからしてリンデル出身の行商人ではなさそうだった。
「何を売ってるんですか?」
聞くと、ダマル帝国で採掘された石を加工し、腕輪やネックレスなどの宝飾品にして売っているという。
「今、ダマルの恋人たちや夫婦の間で流行ってるものがありましてね」
そう言って女性が取りだしたのは、小指の爪ほどの大きさの宝石がついたピアスだった。赤や青や黄色、茶色や黒などがあり、その上、例えば同じ青でも色んな種類の青が取り揃えられている。
流石は良質な石が取れるダマルのものだけあって、この大きさでも、太陽のわずかな光を集めてキラキラと輝いている。それなのにお値段はかなり良心的だ。
「そういやそんな話、前に聞いたな。国民全員が穴を開ける風習のあるあの国らしい」
フィリップ様の言うように、ダマルには厄払いのため、生まれてすぐに子供にピアスをつける風習があるのだ。
「自分の瞳と同じ色を相手に贈り合うんですがね。女性は右耳に、男性は左耳につけるんですよ。かくいう私も旦那からもらったものをここにつけていましてね」
ぽっと頬を染めた女性の右耳には、確かに彼女の瞳とは違う、淡い赤色のピアスが輝いていた。
そういえばリリアンヌ姉様からの手紙にも、夫となった帝国皇子ことアドラー様に、彼の瞳と同じ青のピアスをもらったとあった。お返しには勿論姉様の目の色の物を贈ったと。
お揃いの物をつけるのは、なんだか恋人っぽくていいなと思う。
しかしここで一つ問題がある。
が、私がそのことを伝える前に、既にフィリップ様はさっきのワインのお店よりも真剣味を帯びた表情で商品を選んでいた。
「あの、フィル?」
戸惑いの声を上げた私に気付き、一旦こちらへと顔を向けたフィリップ様は、不思議そうに首を傾げる。
「なんだ、欲しいんじゃないのか?」
「いいなとは思いましたけど。でも……」
手を伸ばし、髪の隙間からわずかに覗く彼の左の耳朶に触れる。
ダマルのような風習はないが、この国にもおしゃれを楽しむために開けている人は多くいる。だけど少なくともフィリップ様はそれに該当しない。
するとこちらの意図を汲み取った彼も同じように私の右耳に触れる。
「それならアリーだって同じだろう」
「私が開けるのはまあ、いいんですけど。フィルに強制するのはなんだか申し訳ないなと思いまして。ピアスにこだわらなくても、別のお揃いのものでもいいのかなと」
「お前が嫌じゃないなら、俺はこれがいい」
ものすごく真剣な顔ではっきりと断言されてしまった。どうも彼もお揃いのものが欲しかったみたいだ。同じ気持ちなのは嬉しい。
それならと私も一緒に選ぶことにした。互いの瞳の色と照らし合わせながら、ほとんど同じ色の物を見つけ出して購入する。
帰ったら早速つけてみよう。いや、その前に穴を開けるのが先か。自分で針を突き刺すのは怖いから、エリーにでも手伝ってもらおう。
「なあ、ここ、俺が開けて直接つけてもいいか」
お店の人の包装が終わるのを待っていると、再度フィリップ様が私の耳に指を這わせる。くすぐったさにちょっとだけ身を捩っている間にも、彼は更にお願いを追加する。
「代わりに俺の方はアリーがしてくれよ」
「フィルがやってくれるのは全然構わないです。でも、あなたの方は私でいいんですか? 失敗しちゃうかもしれないですよ」
「それでもいい」
「…………」
「頼む」
責任重大なので嫌なんだけど、こんなに熱っぽい瞳を向けられお願いされたら、断れない。
「分かりました。だけど上手にできなくても恨まないでくださいね」
そう答えたら、目を細めて嬉しそうに笑った。
その後は特に買うものもなく、そこからあまり遠くないところにある王立劇場に行き、フィリップ様が私好みの演目だろうと、予め取ってくれていた席で歌劇を鑑賞した。
二時間たっぷりと楽しんだら、劇場に併設されているカフェテリアに移動する。そちらも予約していたみたいで、奥の個室に通され、お茶とお菓子を存分に堪能する。
「フィル、これ食べてみませんか?」
甘いものが得意ではない彼でも食べられそうなコーヒー味のシフォンケーキを勧めるが、信用してくれないのか訝しげな表情で見つめるだけなので、切り分けたものをフォークでさし、フィリップ様の口の近くまで持っていく。
「はい、どうぞ」
ここまでされたらさすがに断れないようで、私の腕を掴んで少し引き寄せ、そのままぱくりと口に入れると、驚いたように声を上げる。
「……美味いな」
どうも気に入ったらしい。もっと寄越せとばかりに口を開けるが、首を横に振って拒否の意志を示す。
「これは私のです。もうあげませんからね」
「あと一口くらいいいだろう」
「嫌です。フィルも頼めばいいじゃないですか」
「そんなには入んねぇ」
「仕方がないですね。なら、あなたのそのお茶請けを一口くれるならいいですよ」
「お前これ食えるのか? 言っとくが全然甘くないし、アリーの好みとはかけ離れてるぞ」
彼が食べているのは板状の小さなチョコレートだ。甘党派ではない彼には美味しく食べられる代物らしい。早くくださいと手を差し出したら、彼は持ったチョコレートをそのまま私の口元まで持っていく。
「ほら、口開けろ」
「……なんだか少し恥ずかしいですね」
「何を今更。自分だってさっき似たようなことを俺にしただろうが」
それもそうかとぱくりと口を開けて濃茶の塊を中へ入れると、何とも言えない渋みのようなものがじわりと広がる。
「なんですかこれ、苦いぃ……」
「この苦さがいいんだよ。にしてもなんて顔してんだ。折角の可愛い顔が台無しだぞ」
口直しがしたいとカップに入った紅茶で残ったチョコを押し流している私に、フィリップ様は苦笑交じりに柔らかい視線を向けてきた。
それを見ながら、昔に似たようなことがあったことを思い出す。
これとは逆の状況で、津波のように甘みが押し寄せるお菓子を少し切り分けて渡したら、あまりの甘さにフィリップ様は思いっきり顔をしかめていたっけ。
その頃の彼から向けられていた瞳には、どこか苦しそうで体がひりつくような、それでいてもっと胸を真っ黒に焦がすほどに強烈な劣情の炎が宿っていた。
けれど今目の前にいる彼からは、それとは真逆の────演じている時のフィリップ様とも違う、もっと優しくて甘さの籠った熱を感じる。
そこそこ長い付き合いなのに、改めて婚約者という立場で彼と接していると、これまで知らなかったフィリップ様が少しずつ見えてくる。
彼の視線を正面から受け、見つめ返した私は、手にしたフォークを置く。
「今日のあなたは、随分と優しい目をするんですね。知らなかったです。欲しい物にはどこまでも貪欲で、欲望に忠実に従う黒い獣を心に飼っているようなあなたが、そんな穏やかな顔をするなんて」
「人を節操のない獣みたいな言い方するんじゃねえ」
「だって本当のことじゃないですか」
そう本心を溢せば、フィリップ様は少しだけ笑って言った。
「あのなぁ、俺だってそんな顔ができるなんて知らなかった。それを引き出したのはアリー、お前だぞ。────正直、いつもなら別の方法でとっとと堕としてる。だけどこうしてちゃんとお前と向き合って、普通の恋人みたいに出掛けたりして過ごすのも、案外悪いもんじゃないと分かったんでな」
分かってはいた。それでも、改めて思う。
私はフィリップ様にとても大切にしてもらっているんだということを。
まだまだ彼の持つ深さまでは届かないけど、少しずつ、ゆっくりと彼への想いが積もっていくのを感じる。
「あなたのこと、好きですよ」
早く同じだけの愛情を返せるようになりたい。そう思いながらも、これが今の私に伝えられる精いっぱいの気持ちだ。
それでもフィリップ様は、今はそれでいいと満足気に微笑んでいた。




