3.
けれど『それ』が無くなったわけではなく、姉様と別れて一人になると、不快にも思える謎の感情は私の頭の中をどんどん占めていく。
それは時間が経てば経つほど大きくなり、おかげでベッドに入ってもまったく睡魔が襲ってこない始末で。
原因はおそらく、姉様との会話の中で感じた二つの疑問。この悩みを解消しないと眠れそうにない。
そしてその答えを持っているのは、どう考えてもあの男だ。
というわけで、妙な苛立ちが収まらない私は、眠ることを諦めて体を起こし、夜着の上に薄手のカーディガンを羽織り寝室を出る。
すぐ近くにある部屋の前まで移動し、扉の隙間から光が漏れ出ているのを確認してからノックすると、部屋の主が姿を現した。
「アリシア様……!?」
婚約が決まってからはローズデン家からではなく、王城のこの一室に居を移したフィル。
けれどこんな夜更けに訪問するのは初めてだからか、素で驚いた表情を見せている。そのことにどこか喜びを感じつつ、
「少しだけ聞きたいことがあるんです。解が分からないと眠れないほどで。とりあえず中に入れてもらってもいいですか?」
「あ、いや、さすがに……」
けれど彼の返事を待たず、開いた隙間から強引に中へと体を滑り込ませる。
それが閉まったと同時に、フィルは一応纏っていたらしい対外用の空気を霧散させると、いつもの見慣れた彼になった。
「お前、こんな時間に男の部屋に忍んでくるとか、意味分かってんのか?」
呆れたようにため息をつき、勝手に椅子に座っていた私を抱きかかえると、そのままぽいっとベッドに放り投げる。
そのまま私の上に覆いかぶさり、顔を唇同士が触れそうなほどの限界ギリギリの距離まで近付け、言った。
「で、夜這いに来たって認識でいいか?」
「違います。聞きたいことがあるって言ったじゃないですか」
「夜遅くにそんな格好でここまで来ておいて、そりゃないだろう。どんだけ警戒心がないんだ」
「信用していますから。約束が果たされていない今、フィルは絶対に手は出さない。そうですよね?」
すると彼はふっと笑みを浮かべ、私の上から体をどかす。
そのまま椅子に座り直したフィルはどうも一人で晩酌中だったらしく、白いラベルの付いたボトルからグラスに半分ほどワインを注ぐとぐっと煽り、ここに来た目的を尋ねる。
「何を聞きたいんだ」
私も彼に倣い隣に座り直すと、感じていた疑問を、単刀直入に口にした。
「フィルって、もしかしてリリ姉様のことが実は昔は好きだった────なんてことはありますか?」
この時私は無意識に期待していたのかもしれない。
リリ姉様は元よりフィルのことを鼻持ちならない胡散臭い人だと思っていたが、本性を見せられた後は実は怖い人だったと恐れていたし、あの当時フィルと話していて、リリ姉様に特に好意を抱いているようには見えなかった。
むしろ二人とも口を揃えて険悪な仲だったって言っていたくらいだから、きっぱり否定すると。
だけど私の予想は大きく外れた。
「……まあ、そうだな。アリーよりも先に、俺が取り繕っていることに気付いたのはリリアンヌだけだからな。正直気にはなっていた。あん時あいつが逃げ出さなきゃ、俺はどんな手を使ってでもリリアンヌを手中に収めようとしたと思うぞ」
空になったグラスを指で弾き、少しだけ切ない表情を浮かべたフィルから返ってきた答えは、私の持っていた疑問を全て解決するものだった。
フィルが本性をちらりと垣間見せたのは、姉様が言っていたような牽制のためなんかじゃない。
結果的にそうなったっていうだけであって、彼はあの時、自身を受け入れてもらえるのか、リリ姉様を試したかったのだ。
そしてもしも姉様が彼を受け入れていたら、ここにいたのは、私じゃなかった。
「そう、ですか……」
別に今のフィルの気持ちを疑ってはいない。
それでも過去に少しでも姉様に対してそんな想いを抱いていたことに、妙に感情がざわつく。
心が痛いとか傷付いているとか悲しいとか切ないとか、そんなんじゃない。それとは全く別の、もっとこう、お腹の底から沸々と湧き上がるような。
けれどフィルは、突然黙ってしまった私が悲しんでいるとでも思ったのか、ポンと頭を撫でると安心させるように笑いかけた。
「アリー、言っておくが全部過去の話だ。今俺の心にいて、全部を手に入れたいと思っているのはお前だからな。そこは疑うなよ」
「分かっています」
そう、分かっている。なのにどうしてだか、胸のひりつきが消えないし、妙に苛立つ。
心が何かでぐちゃぐちゃに塗り潰されそうだ。考えても答えの出ない、こんな訳の分からない気持ちを抱くのは生まれて初めてだ。
悩みを解決する為にここにやってきたのに、結局余計に眠れなくなっただけだった。
が、いつまでもこの部屋にいるわけにもいかない。
「……戻ります。遅い時間に邪魔してすみませんでした」
「もういいのか? 眠れないくらい気になることがあるって言っていた割に、それが解決したようには見えないがな」
「いいんですよ、もう。多分これ以上考えてもどうしようもなさそうなので」
「なんなら添い寝でもしてやろうか」
冗談めいた口調で放たれた言葉に、普段だったら適当に断りの台詞を返すのに、その日はなぜかできなかった。
それどころか彼の提案が甘美な響きに聞こえ、私はそれもいいかもしれないなと小さく呟くと、そのままベッドに寝転んだ。
「おいおい、マジかよ。本気でここで寝るつもりじゃねぇだろうな」
自分から言っておいて、私がそれを実行したら明らかに狼狽したように声を上げる。それを見ていると不思議と苛立ちが軽くなっていくのを感じる。
「ほらフィル、早く来てください。あんまり遅くなると明日の朝に差し支えます」
「……お前、生殺しって言葉知ってるか?」
「勿論です。だけど誘ったのはフィルの方ですからね」
「…………」
ぐうの音も言えず、そのまま固まっているフィルは、もう一人の自分と葛藤するように無言で頭を抱えていたが、やがて決着がついたのか、非常に大きなため息を溢しつつようやくこちらへと向かいながら、部屋の燭台の炎を全て消し、隣に並ぶ。
ぼんやりとした暗闇の中で浮かぶフィルの顔は、非常に複雑な色が浮かんでいた。
「覚えてろよ、アリー。この借りは必ず返す」
熱の籠もった掠れた声が私の耳をくすぐる。
けれど約束を違えない彼は後ろから私を抱きしめただけで、それ以上は何もしなかった。
「フィル、好きですよ」
「知ってる」
「大好きです」
「……あと少しだな」
けれど胸に巣食った黒い塊が小さくなったおかげで既にうつらうつらと夢の世界へ片足を踏み出している私は、最後に彼が愉しそうにポツリと漏らした言葉を聞くことはなかった。