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Act20

 それから、斗娜たちはすぐに帰国してしまった。

 大知洙がこれから空港に行くと言う時に、挨拶に来てくれた。

 いろいろ恥ずかしいところを見られているので、気恥ずかしかったが、感謝もしていたので、挨拶出来てよかった。

 それはよかったんだけど

「正直、黒江様は何を考えているのかわからないところがあったのですが、諫早様のことを大事にされているようで安心しました」

 そう言われてしばらく意味がわからなかった。

 だから、その時は曖昧に笑って流していたけど、後から気がついて顔から火が出るかと思った。

 黒江が助けに来た時に、気が緩んで泣いたところとか、抱きついたところとか、甘えて頭を撫でられているところとか、額とかいろいろキスされているところとか、全部監視カメラに写っていたのだ。

 しかも、それは多分凱月とか劉善とか、多分不特定多数に見られている。

 は、恥ずかしい!

 死ねる!

 つか、死にたい!

「何を今さら」

 人が羞恥で悶絶していると、黒江が平然として呟いている。

「アンタには羞恥心ってものがないの、バカクロ!」

 いつもの乾家のリビング。

 いつものごとくクッションを投げつけると、やすやすと受け止められてしまった。

「そんなこといったって、対外的にはオレたちとっくに『婚礼の儀』を済ませてるわけで」

 クッションを抱えたまま、ぼそりと呟く。

「う……」

 それの意味するところをわからないほど、鈍くない。

 要は『いろいろすませちゃってます』って、一族中に触れまわったようなもんなんだから、いまさらと言いたいんだろう。

「で、でも、実際に見られるのとは訳が違うじゃない」

 苦し紛れに言うと、黒江は素直に頷いた。

「それはそうだな」

 フローリングに直接座っている黒江が、クッションを横に置いて顔をあげる。自然、ソファに座っている自分と目が合った。

「お前、あの時もすごい怒ったもんな」

「え?」

「斗娜が決闘を申し込みに来た時、面倒だからここでヤッてみせればいいって言った時、キレてオレの横面ぶん殴っただろ」

「だってクロがヤケであんなこと言ったんだろうと思ったら、頭にきて」

「じゃ、やけじゃなく、真剣に皆の前でみせてやろうっていったら、納得したわけ?」

「……しない」

「だろうなー」

 からかうように口の端をあげて、黒江は立ちあがった。

 キッチンカウンターに立ってマグカップを出しているところを見ると、コーヒーでも入れるつもりなんだろう。

 その背中を恨めしげに眺める。

「まあ、そうだよな。結子は。ただでさえビビりだし、極度の恥ずかしがりだし、痛いの苦手だし」

「なによ……」

「べーつーにー。いいんですよ、オレは。気が長い方ですから、待ちますよ」

「…………別に、私は拒否ってないもん」

「はいはい。最近絶対にウチに泊らないし、マカオで押し倒した時に半泣きだったけど、全然気にしていませんよ」

「泊らないのは偶然だし、マカオの時だって緊張していただけで、……だいたい、あれはクロが途中でやめたんでしょ!」

「あんなガチガチのお前をどうこうしようってのも、なんだか気が引けたんだよな」

 うんうんともっともらしい顔をして頷く。

 ……からかってるんだ。

 普通に、いつもどおりに。

「じゃあ、どうすればよかったの?」

「そうだな、もうちょっとリラックスして首に腕でも回して、抱きついたままでいてくれても、よかったんじゃね?今回の決闘のときだって、オレ頑張ったんだから、労ってくれてもいいよな、『クロ助けてくれてありがとう、大好き!』とかいって、ハグして……っと」

 そういって、コーヒーを持って笑いながら振り返ろうとする黒江の胸に抱きついた。

「……『クロ助けてくれて、ありがとう……大好きー』(棒読み)……」

 黒江の胸に顔をうずめながら、もごもごという。

 一呼吸の間が痛い。

「お前、コーヒー持ってるのに、いきなり……こぼすぞ」

 呆れたような声に答えずに、ぎゅううと腕に力を入れると、「ぐえ」とクロが呻いた。

「おまえ、それ抱きついてんじゃねえよ、さば折り……」

 どうせそんなに苦しくない癖に。

 鍛えているところなんてみたことないのに、服の下の筋肉は堅いと思う。

「……それから?」

「え?」

「それから、どうすればいいの?」

 顔をあげられずに聞くと、クロの困惑したような気配が伝わってきた。

 それからため息交じりに

「そんなこと自分で考えろよ」と疲れたような声が聞こえてきた。

「わかんないから、聞いてるんじゃん。は、……初めてなんだもん」

 どんな言葉を選んでも、結局恥ずかしいのには変わりなかった。

「キスしたいって思ったのも、触ってほしいって思ったのも、クロが初めてだもん。どうやってわかってもらったらいいの?なんて言えばいいのか、……教えてよ」

 きつく眼をつぶって俯く。

 黒江がどんな顔しているのか、確かめるのが怖い。

 すごく呆れた顔されてたら、どうしよう。

 何言ってんのってからかわれたら、死ぬ。

 つか、殺す。

「じゃあ、結子からキスしてよ」

「え?」

 思わず目を開いて顔を上げると、黒江ともろに視線が合ってしまった。

 ちょっと怒ってるみたいな顔。

「もし、本当にして欲しいなら、まず結子からキスして。オレからは何もしない」

 感情の読めない声でいって、カウンターに寄りかかる。

 なにそれ、すっごくずるい。

 今の言葉を言うのにだって頑張ったのに、これ以上、頑張らなきゃいけないの。

 どれだけ恥ずかしい思いしなくちゃいけないのよ。

 さっきのからかい言葉じゃないけど、泣きそうだった。

 黒江と付き合い始めてから、ぜったいに泣くことが多くなった。

 かろうじて目を閉じていてくれるのは、良心なのか。

 迷っていても、多分、黒江は折れてくれない。それが、いつもと違う雰囲気で分かった。

 こっちからキスしない限り、絶対に触ってもくれない。

「ぅ~…………。」

 意を決して、黒江の肩に手をかけて背伸びする。手が、というか全身がふるえていた。

 情けない、しっかりしろと自分を叱咤して、目を閉じる。

 唇を押し当てる。

 角度を変えて、重ねて離れる。

 目を開いたクロは今にも『で?』って言いそうな表情だった。

 クロのドS!

 やけになって伸びあがり、もう一度黒江の唇に触れた。

 重ねてから、おそるおそる舌を出して黒江の唇を舐める。合わさった唇の間をなぞるようにして、下唇をはさむ。

「ふ……ぅ」

 背伸び苦しいし、これからさきどうしたらいいのかもわからない。

 一生懸命、今まで黒江とキスした時のことを思い出して唇を押し付ける。

 足の力が入らなくなりそうで、クロのシャツを握り直す。

 ちろっとクロの舌が唇をくすぐって、腰に腕が回ってきた。

「んぅ!?……っ」

 急に身体の支えを得て、むしろ引き寄せされて、深く唇が重なった。

 急に、何……!?

 首を押さえられて逃げられず、クロにされるがままにキスをして、やっと離してもらった時には身体の力が入らなくなっていた。

 息も絶え絶えに、苦情を言う。

「クロ……なに、今の……」

「ごめん」

「あ、やまるくらいなら」

「結子があんまりかわいいこというから、意地悪したくなった。悪かった」

 そういって身体を離す。

 照れてと言うより、本当に困ってるみたいな顔。

「今度、凱月に頼んで、儀式用の装具借りてもらう」

「え?」

「結子が本気でしたいと思ってくれてるのは、よくわかったから」

 一瞬、言われている意味がわからなかった。

「ちょっと待ってクロ、……なに?」

「何って、それは」

 黒江が言いづらそうに眼をそらす。

 んん?

「結子はやっぱりオレが狼になってるところも見てるし、いろいろ話に聞いてるから怖いんだろ?オレが途中で獣化して噛み殺されたりとか、この姿のままだったとしても、正気失って牙を立てられながら、めちゃくちゃに犯されたらとか、そんなの考えたら怖いよな。……そういう気持ちもわかるから」

「は?」

「そうじゃなきゃあんなに怖がって半泣きになったり、震えたりしないだろ。たかがエッチするくらいで……」

 こら、ちょっと待て。

「たかがってなによ?」

「は?」

「たかがって言ったわね、今?」

 クロの胸倉を掴む。

「たかがって言ったわね、いま!」

「何だよ、怒鳴るな!」

「うるさい、このバカクロ!馬鹿だ、バカだと思ってたけど、ここまでとは思わなった」

「なんだと、オレはバカじゃないだろうが。お前より成績落ちたことないぞ、オレは!」

「そういうことじゃないのよ、わかってんでしょ!」

 怒鳴り合って、お互いに肩で息をしながら睨みあう。

「今さら最中に狼に変身したらどうしようとか、正気失って噛みつかれながら、めちゃくちゃに犯されたらどうしようとか、そんなのはもうどうでもいいの!……良くはないけど、そんなのどうにでもなるし。クロが一発で正気が戻るぐらい、力いっぱいぶん殴ってあげる」

「……さすがだな、結子」

「うるさい。ともかく、そんなものに対する恐怖なんてとっくに克服済みなの。そこじゃないの問題は」

「じゃあ、何にビビってたんだよ、お前……」

「だから、それは」

 言葉に詰まる。

 これ以上、まだこの男は恥ずかしいことを言わせようっていうの。

 もしかして、なにかのプレイなの?

 まだ初めてもしてないのに。

「…………恥ずかしい、から……」

「は?」

 やけになって、クロの腕を引っ掴む。

成すがままのクロの掌を、思い切って自分の胸に押し当てた。

 鳩豆って顔のクロの顔を恐る恐る見上げる。

「……どうよ?」

「どうと言われましても、これで何を判れと……」

 わかることなんて一つじゃないの。

「だから……、あんまりないでしょ?」

「は?」

「だから、胸よ胸!少なくとも、クロが好きなグラビアアイドルの歩ちゃんとか、あきちゃんほどはないわ」

 黒江が『ああ、そういうこと?』と言わんばかりの顔に、無性に腹が立つ。

 何をとぼけた顔をしているんだ、こっちは本気で悩んでいたのに。

「いや、あっちはFカップとかGカップの、普通にありえない巨乳……」

「その巨乳が好きなんでしょ、アンタは」

「癒し系でもいいけど」

「どっちにしろ巨乳でしょ!?」

 胸に黒江の手を押し当てたまま、わめきたてる。

「どうせあたしはBカップよ。つまんない癒されない胸で悪かったわね!」

 ヒステリックに怒鳴るのに、クロがだんだん呆れたような表情になってきた。

「つまりは、何が言いたいわけ?」

「だからそれは!……つまり……」

 白々としたクロの視線に、口ごもる。

「つまり?」

「……こんな、ぺったんこで。……もし、クロに、…………がっかりされたら、死ぬ」

 声が徐々に小さくなるのに、クロのため息が聞こえた。

「彼女がグラビアアイドル並みのスタイルじゃないから、あからさまにがっかりするとか。オレはお前の中でどんなサイテー野郎なんだ?」

「そーじゃないと、思いたいけど……、ひゃぁ……っ」

 押し当てていただけの手が、急に持ち上げるようにして胸を揉み始める。

「だいたい、言うほどなくないじゃん。ちゃんとあるよ、胸」

「や、やん、ちょっとクロ」

「柔らかい」

 意識しないのに、身体が小さく跳ねる。

 顔が熱くなって、息があがる。

「ちょっと……クロ……待って……そん……」

 円を描くようにして揉んでいた手の指が食い込む。

「痛……っ、や」

 下着のワイヤーが歪んで当たって、顔をしかめると徐々に熱に浮かされたような目をしていた、クロの表情が変わる。

「ごめん、痛い?」

「ちょっと……えっと、クロのせいじゃなくて、下着のワイヤーが……」

 言うと、抱きしめられてキスされた。

「もう、ダメだ」

 お互いの唇に唾液の糸が伝って切れる。

「限界。していい?」

 舌がうまくまわらなくて、頷いた。

 長くキスして酸欠のせいなのか、身体の奥の熱のせいなのか。

 ともかく頭がぼうっとしていて、気持ちよかった。

「結子、首に腕回して」

 言われたとおりにすると、軽々と抱き上げられてそのまま寝室に運ばれた。


***


 目が覚めた時、部屋は真っ暗だった。

 隣にクロが裸のまま眠っていたので、あれは夢じゃなかったと思い、身体を起こす。

 時計を見ると、もう夜中だった。

 家に連絡してない。

「結子?」

「クロ、起きてたんだ」

「んー……さっきいっぺん起きて、お前んちに電話したけど」

「あ」

「ゲームしながら寝ちまったから泊めるって言っておいた」

「ありがと」

「超きまずかった」

「あはは」

 思わず笑ってしまった。

 気がつくとじっと顔を見られていたので、なんとなく居心地の悪い気分になる。

「ええっと」

「風呂入るか」

「え?」

 唐突過ぎて、一瞬何をいわれたかわからなかった。

「気持ち悪くないか?べたべたして」

「あ……うん」

「風呂入ろう」

 クロがベッドから出て、立ち上がった。

 慌てて視線をそらす。

 なんにも着てないって、……私もか。

 そう思いながら、毛布を改めて胸のあたりまで引き上げていると、横から身体を攫われた。

「きゃ!?く、クロ?」

「お前、毛布離せよ」

「な、なんで」

「風呂入るっていっただろ」

 だってそれは、クロが入って、その後に……順番ってことじゃないの?

 そう言おうとしたが、身体を易々と持ち上げられて、ベッドから毛布もずるりと引きずり出される。

「結子……」

「だって……っ、クロ先に入ってよ」

「やだ、一緒に入る」

 そういった毛布を引きずったまま、部屋から出る。

「や、ちょっと待って待って!本当に、後から一人で入りたいの!」

 そのままリビングを通って、脱衣所まで来てしまった。

 ここにきて、クロが改めて見下ろしてきた。

「一人で?」

「うん」

「一人で?入れるの?本当に?」

 なんで、そんなに念を押すかわからずにいると、クロが意地悪い笑みを浮かべた。

「立ってみ」

 そういって腕の中からおろされる。

 毛布を持ったまま、足を突こうとして

「……あれ?」

へたりと床に座り込んでしまった。

 なにこれ?

 腰が立たない。

 見上げると、クロがにやにやしながら見下ろしていた。

 悔しくなって、ぷいっと顔を背けると、とうとうクロが噴き出した。

「ほら、いい加減、毛布離せ」

「ぅ……」

「また、『恥ずかしい』か?」

 ……わかってるなら、聞かないでよ。

「お前が一人で風呂に入って、身体を洗えるっていうなら、放っておくけど。四つん這いで風呂入るつもりか」

「ばか、意地悪!」

 そういってしぶしぶ毛布を離すと、再びクロに抱きあげられた。

 浴室に入るとシャワーで身体を流す。

 クロから身体を洗ってやると申し出があったが丁重にお断りして、なんとか自分で洗って浴槽に浸かる。

 その間も、なんだかクロの視線を感じて、居心地が悪かったが我慢するしかなかった。入れ替わりにクロが身体を洗って、再び浴槽に戻ってきた。

「詰めろよ」

「ぅ……うん」

 背後からだっこしてもらうようにして、浴槽に浸かる。

 狭いし、近い。

 こんなにぴったりくっついて、二人でお風呂に浸かったりして、今までと比べて距離感が近すぎて困る。

 あまり熱い湯でもないのに、すぐにのぼせそうだ。

 でも、少しぬるいくらいの温かい湯は気持ちよくて、だんだんクロに身体を預けるようにして身体が弛緩していく。

 腰に回った手に支えられて、少し後ろを振り返る。

「クロ」

「ん?」

「いつのまにお風呂の用意したの?」

「お前んちに電話した後、入ろうかと思って」

「どうしてすぐに入らなかったの?」

 その方がお湯も冷めなかったろうに。

「どうせなら、結子と入ろうと思って」

「…………あっそ」

 ニヤケた顔をして答えるのに、聞くんじゃなかったと思って顔を背ける。

「……、ちょっと」

 密着した腰にあたるものが熱を帯び始めたのに気がついて、身じろぎする。

さりげなく身体を離そうとすると、腰に回った手に強引に引き戻された。

「クロ」

「ん?」

「なんか、あの……ちょっとくっつきすぎ……ぁ、当たってるからっ」

「だってお前がもぞもぞ動くから」

 お湯の中でじたばたと暴れようとしたけど無駄だった。

 胸に抱きこまれるようにされて、首筋に顔をうずめられて、ぞくりと甘いしびれが走る。

「っ……クロ……やだってば」

「あ、勃ってきた」

「ちょ……っ、やだ!」

 入口にあてがわれて、びくりと腰を震わせる。擦りつけるようにされて、息を飲んだ。

「……なぁ、入れていい?」

「いいわけないでしょ!?……だめ……っ」

「なんで」

「ぁ、当たり前でしょ、そのままなんて……っ、何もつけないでなんて、ダメ!」

 悲鳴のようにいうと、肌を滑っていたクロの指が悪戯を止めた。

 あまりにも唐突に指が止まったので、思わず肩越しにクロを見ようとした。

「……?」

「絶対ダメ?」

 妙にねだるような、声。

 その声音に、戸惑う。

「だ……って、そのまましたら、赤ちゃんできちゃう……し」

 言い終わる前に、クロの額が肩に触れた。

「…………さっき」

「え?」

「さっきしてた時も……」

 くぐもった声は途中で聞きとれなくなった。さっきまでのふざけた感じがなくなっていて、もがくのをやめる。

「……クロ?」

 改めて声をかける。

 背後から抱きしめられて、肩に顔をうずめているから、どんな表情をしているのか全然わからない。

「さっきさ、ゴム探しながら、このままつけずにやっちゃおうかなって一瞬思ったんだよな」

 聞き捨てならない言葉だった。

 冗談にしたら悪質だし、本気ならもっとひどい。

「このまま生でやって、いっそ結子に子供ができればいいなって」

「……クロ?」

「ひとつでも多く、結子を縛り付ける理由になるものが、増えればいいと思ったんだけど」

 ぼそぼそとしゃべる声はお風呂の中で反響して、いつものクロじゃないみたいだった。

 そんなことしなくても、傍にいるっていうのは簡単だった。

 けど言えなかった。

 すごく薄っぺらくて、嘘じゃないのに嘘っぽい感じがしたから。

 代わりに、別のことを聞いた。

「クロ、子供欲しいの?」

 肩越しに振り返りながら聞くと、顔を上げたクロは少し驚いたような顔をしていた。

 まるで予想していなかった質問のようだった。

「子供、は、どうだろ……考えたことなかった。さっきのも子供が欲しいって言うより、そうすればお前が、オレの傍から離れていけない理由が、ひとつ増えると思っただけだったし。父親になりたいとか、考えてなかった」

「そっか」

「……あ、でも、父親か……」

 うわ言のように呟いて、クロの腕に少し力がこもった。

「全然気がつかなかったけど、お前とこのまま結婚して子供ができれば、オレが父親ってことで、家族になるんだな。……想像もしなかった、今さら家族とか」

 感心したような声、本当に今気がついたのだろう。

「でも、いいな。お前と子供と、掟や狼の血に縛られるんじゃない。本当の家族」

 少し嬉しそうな響きが、直接肌に触れた。

「なあ、結子。オレの子供、産んでよ」

 それが心からの言葉だということは、疑うまでもなかった。

 柔らかで哀しい響き。

 クロの両親が亡くなったのは正確にはいつか知らないけど、随分小さい時だったと、以前、凱月さんに聞いた。

 その話を聞いてから、何度か両親を失ったクロの小さな頃を考えた。

 想像しようとして、出来なかった。

 そんな寂しさや孤独を、知らなかったから。

 クロの表情が見えないように、自分の表情も見えなくて本当によかった。

 乱暴にお湯を掬って顔を洗う。

「うわ、なんだよ、お前急に?」

 お湯がはねたのか、クロが言う。

「あのね、クロのこと好きだよ」

 腕の力が緩んだので、身体を反転させた。

「でも今は子供を産むなんて無理。……まだ学校も卒業してないんだから、当たり前だけどね。……それに約束もしない。」

 向かい合って、目を丸くしている黒江に微笑む。

「もしこのままクロと結婚して、子供を産むとしても、もっとずっと先の話だし。すごく大事なことだから、今は答えられない」

 半年前。

 あの運命の日。

 その時は、覚悟をしたつもりだった。

 限られた時間でたくさん考えて出した結論……のつもりだった。

 でも結局、その場の勢いで婚約をして、嘘をたくさんついてしまった。

 それが事実だ。

 たくさんの人に迷惑をかけて、これからも多分かけるだろう。

 だからせめて同じ失敗はしたくない。

 そう言って頬に口づけると、黒江は一呼吸の間考えてから、ため息をついた。少し拗ねたように口をとがらせる。

「…………そーかよ」

 とても愛おしかった。

 将来、黒江の子供を産みたい。

 そう思って、初めて婚約者という、どこかお仕着せの、おさまりの悪い言葉が、すとんと自分の中に落ちてきた。

 黒江が今まで失ってきたものを、また自分が与えてあげられたら、どんなにいいだろう。

 なんにもできない、何のとりえもないと思っていた自分にも、できることがあった。

 嬉しい。

「えへへ」

「……なんだよ、にやにやして、気持ち悪いな」

「クロ、好き。大好き」

「……『好き』の大安売りだな」

「だってクロ、言ってたでしょ。『好き』って言ってほしいって。だからいっぱい言ってるんだよ」

 そういうと身体を抱き寄せられた。

「あぁ、そう。じゃ、そんなに好きなら、もう一回ヤラせ……」

「それとこれとは別問題」

 そう言って、キスしようと寄せられた顔を無情に押しのける。

「さ、あがろ。あんまり浸かっているとのぼせるし」

「……結子ぉ、てめ」

「そういえば、お腹空いたね。喉も乾いたし、早くお風呂上がって、何か食べよー」

「ゆい……」

「ピザが食べたい。ねえ、注文しようよ。あ、この時間って大丈夫なのかな?」

 にこにこと笑いながら言うと、クロは結局、諦めたのか、ため息をついて

「……~はいはい、わかりましたよ!」

 そういうと勢いよく立ちあがる。

 浴槽に取り残されて盛大に水しぶきをかぶった。

 乱暴に浴槽から抱きあげられて、タオルにくるまれたのが幸せだったので、文句は言わなかった。

 抱きあげられて運ばれるのも、慣れればなかなか楽チンだった。

 もちろん身体を隠すものがあればの話だけど。


***


 あの騒ぎが嘘のように、その後、凱月や劉善からも連絡はなく、無事に春休みが来ようとしていた。

 黒江は、連日休んでいたことで、多少担任に注意されるべく、職員室に呼び出されていた。

「お前の場合は成績がいいから、多少考慮できると言っても、限度があるぞ」

「すいません」

「家の事情もあるだろうが、以後気をつけるように。以上」

「はーい、失礼します」

 神妙な顔をして聞いているふりから、やっと解放されると黒江が肩の力を抜いた時、担任が何かに気がついた。

「そうだ、乾。ちょうどいいから、お前これ、諫早に渡してくれ。再提出な」

「?はい」

 そういってプリントを受け取る。

「この間、お前が休んでいる時に回収した進路希望なんだけど、もうちょっと真面目に考えるように言っておけ。お前、確か、諫早とつきあってんだろ?」

「はあ」

「どんなつき合いしているかとかは、あえて聞かないけど。いくら将来結婚する気でも、お前が養えるとは限らないんだからな。最近は共働きが当たり前だから」

「…………。」

 担任の小汚いおっさんは、口うるさいが意外に生徒思いで評判で、黒江も嫌いじゃない。

 そのおっさんに、だから結子のことをどうこう言われても、そこまで腹は立たないが。

 あのバカは、一体何を書いて出したんだか。

 何気なく、プリントを見る。

「……ぶっ」

「笑い事じゃないぞ。お前」

 苦々しくいう担任をよそに、黒江は必死に口を押さえる。

「っすね……はい、本人にちゃんと渡しておきます」

「明日提出だぞって、言っておいてくれ」

「了解でーす!」

 未だに笑いの虫がおさまらず、腹を抱えて職員室を出た。

 教室に戻ると、結子はまだ残っていた。

 他には誰もない。

 どうやら、心配で待っていたようだ。

「あ、クロ。私今日は部活でるから……何笑ってんの?」

「いや、進路希望再提出だってよ」

 ひらひらとプリントをさせると、最初なんだったっけという顔をした結子の顔が、はっとなりみるみる赤く染まる。

「み、見た?」

「見ました」

 きっぱり答えると、プリントを奪い返される。

「忘れて」

「無理だろ」

「今すぐ記憶喪失になればいいのよ」

「無茶いうな」

「じゃあ、あたしが頭打って忘れる!」

 壁に突進していこうとするのを、慌てて腕を押さえる。

「おいおい、そこまで恥ずかしいと思うなら、なぜ書いた?」

「だって……」

 ふてくされたようにして、後ろからはがいじめにされる結子を見下ろして、本当にかわいいなあと思う。

「進路希望に、将来の夢を書くなよ」

「ううう……」

「ま、オレは別にいいけど」

「……クロにとっては、他人の赤っ恥だもんね」

「は?何言ってんの。他人じゃないだろ」

 結子が不思議そうな顔で見上げてくる。

「お前、それじゃこれ、誰の『嫁』になるつもりで書いたわけ?」

 進路志望のプリントには、進学・就職に丸をするところがあり、進学希望の生徒は、第一志望から第三希望まで書く欄を埋めなければならない。

 結子のプリントには、クラス名前を書いた後に、記載はなく問答無用で第一希望に『嫁』と書かれていた。

「いや、それにしても。これは、ひどい」

「放っておいてよ、あの時はどうかしていたのよ」

 じたばたと腕の中で暴れる結子を、逃がさないように抱きしめる。

「明日までに再提出すればいいんでしょ!?」

「オレはこのままでもいいけどね」

「絶対、明日ちゃんと書いて提出する。なんなら、今書き直してもいい!」

「はいはい、ともかく進路希望の紙は新しくもらってきて、これくれよ、記念に」

「絶対いや!っていうか、何記念!?」

「結子の阿呆な所業の足跡として、他の思い出の品々と一緒に、オレが大事に保管するから」

「やめて!っていうか、他の思い出の品々って何よ!」

 結子がわめきたてるのに、構わず進路希望はポケットに入れた。

 取り返そうとして詰め寄り、勢い余ってこけそうになる結子を、笑いながら抱きしめた。

 その耳元に囁く。

「なあ、もしこの進路希望に就職するにしても、進学するにしても、その先はオレと結婚するんだろ?」

 それまで野良猫のように暴れていた結子が、途端に頬どころか、耳まで真っ赤にして腕の中で大人しくなった。

「それは……婚約しているわけ、だから、まあ……」

 いきなり何を言い出すのかと言いたげに、軽く睨み上げてくる。

「じゃ、オレの奥さんになるんだ?」

「ぅん……。いまは……そのつもりだけど」

「子供は?」

「……そんなのまだ、わかんない」

 もごもごと答える結子の耳朶に囁く。

「オレはあれから、ちゃんと考えたよ」

「え?」

「ちゃんと考えて、結論としては、やっぱり早く家族欲しいと思った」

 そういうと、結子はただでさえ丸い目をさらに丸くした。

 にっこりと笑って見せてやる。

「ダメ?」

「……!ずるい、そういう言い方されたら……っ」

 顔を真っ赤にして、目をうるうるさせながら、ふてくされたように呟く。

 可愛くて、愛おしくてたまらなかった。


これで終わりです。お疲れ様でした。

最後まで読んでいただき、ありがとうございました!

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