世界史の授業―地下格闘技大会前夜の緊張感を添えて―
地下格闘技大会前夜。
宿は静まり返っていた。
明日に備え、シフォンとロザリアは早々に眠りにつき、フウもひとしきり遊んで疲れたのか、ターケシの腕の中で大きな欠伸をした。
ターケシは宿の中庭へ出る。
月明かりが石畳を白く照らしていた。
フウを抱いたまま腰を落とす。
ゆっくりとスクワット。
一回。
また一回。
続いて四股を踏む。
大きく足を上げ、静かに地面を踏み締める。
どん。
どん。
一つずつ、念を入れるように。
最後に踏み込み。
大きく一歩。右足を前に出す。
引き戻して、また一歩。
力ではない。
重心。
姿勢。
呼吸。
明日のために、否、これからも生き続けるために、戦い続けるために、体へ刻み込んでいく。
ふと、人の気配を感じた。
ターケシが振り返る。
そこにはフィリアが立っていた。
月明かりを受けた緑の髪が、静かに揺れる。
「眠れないのか?」
フィリアは首を横へ振る。
「そんな訳じゃない。」
「ちょっと体を動かしておこうと思って。」
ターケシは苦笑した。
「俺の台詞なんだが。」
フィリアの口元がわずかに緩む。
「……そう。」
少し間を置いてから続けた。
「聞きたかったことがあるんだけど。」
「どうして私を、明日の地下格闘技大会や、その先の王宮公認闘技大会のメンバーから外したの?」
ターケシは答えず、月を見上げる。
少しだけ視線を逸らした。
「……不満か?」
フィリアは静かに首を振る。
「不満とかじゃない。」
「シフォンとロザリアなら優勝もできる。」
「ただ、聞いておきたかっただけ。」
ターケシはフウの頭を優しく撫でた。
「……あの二人を鍛えたい。」
「伸び代がある。」
「それに。」
「地下格闘技大会も、その先の王宮公認闘技大会も、あの二人だからこそ勝ちたい理由がある。」
「その気持ちは、強さになる。」
「……それじゃ、だめか?」
フィリアは腕を組み、静かに微笑んだ。
「だめじゃない。」
「納得した。」
そして少し首を傾げる。
「でも。」
「聞きたいこと、あるんでしょ?私に。」
ターケシは苦笑した。
「……かなわないな。」
夜風が木々を揺らす。
やがてターケシは意を決したように口を開いた。
「フィリア。」
「何で奴隷になった?」
フィリアの表情から笑みが消える。
「お前ほどの戦闘能力、判断力…そして統率力。ただで奴隷商や盗賊団如きに捕まるとは思えない。例え相手が赤牙でも。」
すぐには答えがなかった。
夜空を見上げる。
しばらく月を見つめてから、小さく息を吐いた。
「……その質問に答えるには。」
「百五十年前から話さなければならない。」
ターケシは黙って頷く。
「今では滅んだ旧白聖王家。」
「かつて、大陸の半分近くを支配した帝国。」
ターケシは目を見開く。
「そんな国があったのか。」
「あった。」
「今は跡形もないだけ。」
夜風が二人の間を吹き抜ける。
「帝国は、多くの国を飲み込み、多くの民族を従え、多くの商人を抱えていた。」
「人間。」
「獣人。」
「ドワーフ。」
「帝国に従ったエルフの氏族すらいた。」
「そして帝国の拡大は、既存の世界との軋轢を生む。」
「世界樹。」
「鉱山。」
「森。」
「魔力。」
「大陸中が、それぞれ譲れないものを抱えていた。」
ターケシが静かに呟く。
「……まるで世界大戦だな。」
フィリアはゆっくり頷く。
「世界そのものが戦場だった。」
「帝国は多くを奪った。」
「エルフ側も多くを奪った。」
「勝者も敗者も傷ついた。」
「戦争奴隷。」
「難民。」
「数え切れない命が失われた。」
ターケシは何も言わない。
フィリアの声だけが静かな夜へ溶けていく。
「やがて戦争は終わった。」
「和平会議が開かれた。」
「捕虜交換。」
「戦争奴隷の返還。」
「故郷を失った難民。」
「積み上がった賠償。」
「複雑になった国境。」
「寸断された交易。」
「互いを疑う監視。」
「全部、やり直した。」
少しだけ間を置く。
「でも。」
「終戦と平和は違う。」
ターケシは何も言わず、黙って耳を傾ける。
戦争が無くとも平和とは限らない。
この十年で骨身に染みて知っていた。
「二度と同じ戦争を繰り返さないため。」
「人間とエルフは、定期的な人的交流を始めた。」
「互いの国へ人を送り合う。」
「和平の証として。」
ターケシは静かに息を吐く。
「……なるほど。表向きは人的交流。」
「実際は、人質交換か。」
フィリアは頷いた。
「その後、旧白聖王家は滅びた。」
「当時の王都も失われた。」
「国境もいくつもの国へ分かれた。」
「でも。」
「帝国が築いたものは、全部は滅びなかった。」
少しだけ考える。
「神話に、多頭の怪物がいる。」
「首を一つ落としても、別の首が生きていれば、心臓は鼓動を続け、体も手足も動き続ける。」
ターケシは黙って耳を傾ける。
フィリアは続けた。
「帝国も同じ。」
「頭の一つは姿を隠した。」
「流通網。」
「商人集団。」
「裏社会。」
「奴隷商。」
「帝国そのものは滅んでも、彼らは生き残った。」
「そして今も。」
「怪物の体と手足を動かし続けている。」
ターケシはゆっくり呟く。
「……赤牙とか。」
フィリアは静かに頷いた。
「赤牙も、その一つ。」
「百五十年前に滅んだ帝国の。」
「最後まで生き残った頭。」
ターケシはその言葉を反芻する。
廃教会。
死霊術の書。
王国が異様なまでに霊廟へ神経を尖らせていた理由。
巨大スケルトン討伐に莫大な報酬を出した理由。
地下で見つけたドワーフの街。
黒蛇。
赤牙。
今まで別々に見えていた出来事が、一つの線でつながっていく。
しばらく沈黙が流れた。
やがてターケシはもう一度尋ねる。
「それで。」
「フィリアは?」
フィリアは月を見上げたまま、小さく笑う。
「……私、も。」
「その戦後が生んだ一人。」
少しだけ自嘲するように笑う。
「……怪物の残滓なのかもしれないわね。」
ターケシは眉をひそめた。
「……ん?」
フィリアは首を横へ振る。
「いいえ、何でもないわ。」
ターケシを見て、ほんの少しだけ微笑む。
「おやすみ。」
「寝坊しないでね。」
そう言って宿の中へ戻っていった。
ターケシはしばらく、その後ろ姿を見送る。
聞きたいことは、まだあった。
だが、それ以上は聞かなかった。
話せることと、まだ話せないこと。
その境界を、フィリア自身が選んでいることを感じ取ったからだった。
月だけが静かに二人を照らしていた。
ターケシの腕のなかでは、何も知らないフウが静かな寝息を立てていた。
「明日は勝つぞ。」
誰に言うでもなく、呟いた。




