プロローグ
夜は静かだった。
机の上のランタンだけが、小さな炎を揺らしている。
一人の老エルフが、机の前の椅子に座って、
古びた日記の表紙に指先を置く。
長い銀髪も、白い頬も、生きてきた長い年月を感じさせぬほど美しい。だが目だけは、老人のそれのように柔らかに遠くを見ていた。
擦り切れた革の感触を愛おしむ。
何度も開き、
何度も閉じた本だった。
それでも春になると、
どうしても読み返したくなる。
かさり。
ページをめくる。
もう会うことのできない人々。
灰色の耳を揺らして笑う少女。
誇り高く、少し意地っ張りな金髪の娘。
そして――
答えのない問いを抱えたまま、
最後まで歩き続けた一人の人間。
目を閉じる。
遠い昔の笑い声が聞こえる気がした。
その時、
控えめなノックが響いた。
「失礼いたします。」
別のエルフの女性が扉を開く。緑の髪の美しい少女のエルフだった。
「エルダー?ヴェルナ様?」
老エルフの名だ。
「まだお休みになられていなかったのですか。」
机の上の日記を見て、
困ったように笑う。
「またその本を読んでおられたのですね。」
彼女は何も答えない。
ただ、
古い表紙をそっと撫でる。
「ええ。」
静かな声だった。
「春でしたから。」
若いエルフは意味が分からず首を傾げる。
だが彼女は説明しない。
できるはずもなかった。
あの日々を。
あの旅を。
あの人たちを。
言葉だけで伝えられるものではないのだから。
ランタンの火が揺れる。
窓の外では、
春の風が夜の森を渡っていた。




