18. 優しさが残した傷跡
潮騒の音だけが、夜の甲板に響いていた。
先ほどまで過去の地獄を語っていた悠馬は、何かに憑かれたような虚ろな目で水平線を見つめている。
海に投げ捨てた紙コップの代わりに、今はただ、冷たくなった自分の両手を見つめていた。
「……悠馬お兄さん」
静寂を破ったのは、アリスの震える声だった。
彼女は、悠馬が何度も口にした不吉な響きを、恐る恐るなぞるように問いかける。
「その……『アレ』とは、一体何なのですか? お兄さんがすべてを捨ててまで求め、そして……絶望したという、そのモノは」
悠馬は、手すりに置いた自分の指が、当時の記憶に呼応するように白く強張るのを感じた。
「……『アレ』とは、『魂の帰還石』のことだ」
悠馬の声は、夜の海風に溶けて消えそうなほど低かった。アリスとノーラは、息を呑んで彼の横顔を見つめる。
「10年前、俺には愛した女がいた。……共にダンジョンを潜り、共に明日を語った、ただ1人のパートナーだ。名は、大宮 有里朱。……俺の恋人だった。あいつのいない世界なんて、俺には耐えられなかった。……だから、認めるのをやめたんだ。『あいつは死んだ』っていう現実をな」
「有里朱……私と同じ」
「そうだ、アリスリア……偶然とは恐ろしいものだな」
悠馬は自嘲気味に口角を歪める。
「代わりに、1つの噂を信じることにした。特級ダンジョンのどこかにあるという、死者を蘇らせる聖遺物――『魂の帰還石』が手に入るというお伽話をな。……俺は全てを捨てて『狂戦士』になった。石さえ手に入れば、あの日、俺が下した『選択』を無かったことにできると信じてな」
悠馬の脳裏に奔る、10年前の忌まわしき『最短の道標』。
地元の同級生4人で組んだパーティー。
悠馬と有里朱、そして今は『聖天の双翼』を率いる坂元 淳と、その妻の茅場 優紀。
あの日、彼らは上級ダンジョン『黄昏の廃都』の40階層にいた。
ダンジョンの床が突如として咆哮を上げ、巨大な地割れがパーティーを切り裂いたのは、一瞬の出来事だった。
激しい振動と粉塵の中、悠馬と有里朱は、淳と優紀が落ちた奈落の反対側へ取り残された。
「クソッ、淳! 優紀! 無事か!」
悠馬が叫ぶが、返ってくるのは岩が砕ける音と、奥底から響く不気味な魔物の咆哮だけだった。
悠馬の視界に、眩いほどの光を放つ【青色の矢印】が浮かび上がる。
それは地割れを迂回し、下層へ続く崩落した螺旋階段を指し示していた。
「有里朱、急ぐぞ!2人が危ない!」
「ええ、行きましょう、悠馬!」
2人は疾走した。迫りくるガーゴイルの群れを、悠馬が最短の軌道で斬り捨て、有里朱の支援魔法がその背後を完璧にカバーする。
かつての彼らは、呼吸を合わせる必要すらないほど完成されたコンビだった。
だが、螺旋階段を下りきり、血の匂いが漂う広間に辿り着いた瞬間。
悠馬の視界に、残酷な2択を告げる『点滅』が走った。
前方――巨大な魔物の爪に押さえつけられ、腹部を赤く染めて倒れ伏す淳。
その彼を庇うように、優紀が折れた剣を構えて立ち尽くしている。矢印は、その魔物の喉元を貫けと激しく明滅していた。
そして同時。悠馬の真後ろ――。
背後の闇から音もなく現れた、もう1体の魔物の影。
その鋭い鎌のような腕が、悠馬を援護しようと立ち止まった有里朱の背後へ、無造作に振り下ろされようとしていた。
もう1つの矢印が、反転して有里朱を救えと、これまで見たこともない赤色で点滅を繰り返す。
「……一方は、今にも魔物に食い殺されそうな淳と優紀を救う道。……もう一方は、俺の背後、有里朱を救う道だ」
どちらの矢印も、今すぐに動かなければ「死」に直結する色をしている。物理的に、どちらか一方は間に合わない。
悠馬の思考が、極限の加速の中で凍りついた。
「悠馬、行って!!」
有里朱が叫んだ。
彼女は背後の魔物に気づきながら、それでも前方の仲間を指さして笑ったのだ。
悠馬は、弾かれたように前へ跳んだ。
すぐに2人を救って戻れば間に合う。
俺の速度なら、この『最短の矢印』なら、全部救えると自分に言い聞かせた。
数秒で魔物を細切れにし、淳と優紀を死地から引きずり出す。
そして、1秒でも早く戻ろうと、振り返ったとき。
「……そこにあったのは、ただ静かに横たわる有里朱の姿だった」
ダンジョン内で命を落とした者は、一定時間が経過すれば、その存在を迷宮に飲み込まれ、光の粒子となって消滅する。
悠馬が駆け寄り、彼女を抱き起こしたとき……有里朱の体は、既に輪郭を失い、透き通り始めていた。
「……淳たちから聞いたよ。有里朱は、優紀のお腹に新しい命がいることを、既に知っていたらしい。……だから自分を捨てて、家族を救えと言ったんだと」
悠馬は力なく笑い、手すりから手を離した。
有里朱を失い、現実から逃げるために「狂戦士」となり、挙句の果てに2度目の相棒――花までも、自分の「正解」で失った。
沈黙が流れる中、それまで静かに聞いていたノーラが、核心を突くように口を開いた。
「……悠馬様。有里朱様と花様、お2人の死。その痛みが福岡にある理由……いえ、あなたが福岡で『何を』恐れているのか、お聞かせいただけますか?」
悠馬は、ポケットの中でスマートフォンの冷たい感触を確かめた。
そこには、望海から送られてきた1枚の書類データが残っている。
「……福岡には、花の妹がいる。名は茜……有村 茜だ」
夜の海を見据える悠馬の瞳に、再びあの暗い「穴」が戻っていた。
「花の葬式で、あの子に言われたよ。『お前の顔は覚えた。絶対に、地獄に突き落としてやる』ってな。……俺という人殺しを追い続けている、亡霊のようなあの子が……今、福岡支部の局員として、俺を待っている」
お読みいただきありがとうございます!
悠馬がアリスリアを「アリス」と呼ぶことを避けてきた理由、そして彼女に出会った時に見せた動揺の正体が明らかになりました。
かつての恋人と同じ名を持つ少女を連れて、かつての相棒の妹が待つ地へ。
この皮肉な運命の悪戯に、悠馬はどう立ち向かうのか。
「名前の繋がりに鳥肌が立った!」「3人の絆が試される……」と思って頂けましたら、ぜひ下の評価欄(★)とブックマークで応援をよろしくお願いします!




