回想 恐怖と無力
天井にできた水滴が溜まり雫となって地面に落ちた。ただそれだけのこと。しかし、寝ていた男はすぐに目を覚ました。男は目を覚ますとすぐに周囲を確認した。
「……………………ふぅ」
周囲に何もいないことが確認すると男は安堵した。この場所は魔物が襲ってこないように作られた避難所であるが、この『迷宮』に絶対に安全な場所はない。魔物には様々な種類がおり土の中を移動する魔物や壁を掘る魔物も存在する。なのでそう言った魔物が襲撃してこないとは誰も保証できない。
男はもう一度目を閉じて眠ろうとしたが頭は既に覚醒して眠ることはできなかった。寝ることを諦めた男は左腕で使い何とか上体を起こした。手首から先がないので起き上がることすら困難だが、身体を動かさないと筋肉が固まってしまうので男は歯を食いしばって起き上がった。
男の名前はエデモス。友人に裏切られこの『迷宮』にたどり着いた。『迷宮』にたどり着いたときは五体満足だったが『迷宮』にいる魔物との戦闘で右腕は肘から上がなくなり、左手首も損失した。両足も太股のから先もなくなり四肢が欠損していた。
エデモスは四肢を失った身体で何とか上体を起こすと傍に置いてあった鉱石に触れた。正確に言うと鉱石に似た粘液生物の死骸だ。この粘液生物は魔力を流すことで使用者の思考通りに形状を変化させることができる。エデモスはこの粘液生物を使って失った四肢の代わりになる義肢を得ようとしていた。
だが、魔術師でなかったエドモスは魔力の扱いと思考の伝達に悪戦苦闘していた。魔術師の素質に必要な『魔素の感知』は何とかできるようになった。しかし、今まで魔素や魔力と言ったことに触れたことがないエドモスにとってそれらを扱うのに想像以上に大変だった。
粘液生物が扱うことができないとエドモスはこの先義肢を手に入れることができない。それはこの『迷宮』で生きる術がないことを意味する。
「才能がないのかのぉ。だがそれなら魔素の感知すらできない筈じゃし…… できないならできないで別の方法を模索するのじゃが…… 判断が難しいところじゃ」
エドモスを救い義肢のことを教えてくれたウォールドは一向に進歩しないエドモスをそう評価した。
賢者ウォールド。冒険者ならその名前は誰でも知っているほどの偉大な冒険者だ。数年前に『塔』で行方不明になり、冒険者組合では死亡したとされていたが、ウォールドはこの『迷宮』に迷い込んでいたのだ。
ウォールドは『迷宮』に来たときに未知との遭遇に感激し、脱出するのを後回しにして数年間も一人でこの『迷宮』を探索していた。『迷宮』に来て早々に四肢を失ったエドモスとは格が違う。アルカリスにいた頃から単独で『塔』に挑み続け、他の冒険者とは一線を画す人物だった。また、魔術師としても偉大な人物であり、ウォールドが出した論文は全て革新的で魔術の発展に大いに貢献した。
そんな偉大な功績を持っていたウォールと行動を共にしたい冒険者や弟子入りしたい魔術師は数多くいた。気難しい性格だったのか一時はパーティーを組みことはあったが継続することはなかった。弟子や教えを受けた者はいない。一説には人嫌いと言う話もあった。そんな偉人が今はエドモスのために献身的に世話を行っていた。
今エドモスがいる避難所に瀕死の重傷だったエドモスを運び、治療と看病をしてくれた。傷が治った後も四肢を失ったエドモスを介護しながら魔術を教えてくれていた。
魔術師とは神に選ばれた才能である。
魔術師だけでなく普通の一般人でもその認識は浸透していた。魔術師になるには魔素を感知する必要があった。しかし、ウォールドは『塔』に住むレプラ族を知っていた。彼らは誰しも魔術を扱うことができ独自の工芸品を作成している。種族の特性かと思ったがそうではなかった。
魔素はこの世界を構築する物質であるため誰しもが自然に取り込み体内で循環させている。それを感知させるのは難しいことではない。水を泳ぐように得手不得手はあるが誰しもが扱うことができるとウォールドはレプラ族から教わりそれをエドモスで試した。
結果は見事に成功した。エドモスは訓練を始めてから二週間で『魔素の感知』ができるようになった。しかし、それ以降は目に見えの成果はなかった。義肢に使用する粘液生物の扱いが一向に進歩していなかった。
「今日も駄目だったか……」
自分の魔素が限界に近いことを感じたエドモスは今日の訓練を中止した。人は意識していないが魔素を呼吸や食べ物から取り込んでいる。魔術を扱うには取り込んだ魔素を魔力に変換させ行使するので、体内にある魔素の限界に達すると魔術を使うことができない。
限界以上に魔素を使うこともできるが、魔素は血液と同じで生物が生きていくのに必要な物質でもある。枯渇してしまうと人は意識を失うか、最悪の場合は死んでしまうこともある。
エドモスは枯渇した魔素を回復させるために暫く休憩することにした。魔素を感知することができるようになったので大気中にある魔素を多く体内に取り込むよう呼吸をする。意識して行うことで通常の呼吸よりも多く魔素を体内に取り入れることができる。エドモスはウォールドに習った方法で呼吸を行い魔素の回復を待った。
回復をしている間もエドモスはウォールドの教えてくれた魔力の伝達方法や思考の構築の仕方を思い出していた。訓練をする際に誤解や見落としがないかもう一度確認した。ウォールドがこの場にいれば直接確認できるが、ウォールドは不在だった。
ウォールドは数日に一度狩りに出掛ける。この『迷宮』では食料となるのが魔物しかいないので、食糧が尽きるとウォールドは食べられる魔物を狩りに行く。四肢を欠損しているエドモスを連れて行くことはできないので、狩りはウォールド一人だけだ。
狩りに行く際はエドモスに声を掛けていくこともあれば、エドモスが寝ている間に出掛けることもある。今日はどうやらエドモスが寝ているときに狩りに出掛けたようだ。
「…………?」
エドモスは魔素の回復に専念し、ある程度まで魔素が回復した頃に壁から奇妙な音が聞こえた。エドモスは瞳を閉じて耳を澄ませると正面の壁から叩くような音が聞こえ始めた。その音に意識を集中すると次第に音は大きくなっていく。エドモスはすぐに首にかけている護符を確認した。
この護符はウォールドが作ったもので魔鉱石に呪文を刻み込み結界が張れるようになっていた。エドモスはすぐに結果を張れるように準備を行い正面の壁を凝視した。壁からは次第に砂埃が舞うようになり、そして壁に亀裂が走った。
「……‼」
壁に亀裂が走るとそのときはすぐに訪れた。壁が破壊され、破壊された壁から出てきたのは巨大な鼻を持つ猪の魔物だった。体躯はエドモスと同じくらいだが下顎から二本の牙が伸び、そして何よりも目を引くのが大きく突き出た鼻であった。
エドモスはすぐに結界を張った。猪の魔物は壁を壊した勢いのままエドモスに襲ってくるかと思ったが猪の魔物はエドモスを注意深く観察し始めた。猪の魔物は突進して壁を壊していた。自慢の鼻を対象にぶつけることで今までいろいろな生き物を屠ってきた。その経験から目の前の結界と自分突進力を比較していた。
「ブッモモモモモォォォォォ」
猪の魔物は大きな雄叫びを上げるとそのままエドモスに向かって突進してきた。当然結界にぶつかり猪の魔物はエドモスに近づくことはできなかった。猪の魔物は結界に阻まれ諦めると思ったが、再度距離をとり助走をつけてもう一度結果に向かって突進した。
二度目の突進にも結界は絶え逆に猪の魔物は膝をついた。結界の強度が猪の魔物の想定よりも頑丈でぶつかった衝撃で自らダメージを負った。今度こそ諦めて立ち去って欲しいとエドモスは願ったが、その願いは届くことはなかった。
猪の魔物は今度は助走をつけずに結界に何度も突進を繰り返し始めた。一度での大打撃を与えることを諦め、弱い当たりを連続で行うことで結界を壊すことにしたのだ。その試みは正しかったのか数十回に及ぶ衝突でついに結界の一部にヒビが入った。
「クソッ」
エドモスは左腕に巻かれている護符を見た。この護符には攻撃用の魔術が組み込まれ、発動すれば火炎球が発射させる。火炎球は直線に進み対象とぶつかることで爆発するものだが、巨大な鼻を持つ猪の魔物には防がれてしまう可能性があった。
猪の魔物の多くは前面の防御力が異常に高く眉間や眼球などの小さな弱点を狙わない限り倒すことができない。確実に倒すのであれば後ろから臀部を攻撃するか首や心臓といった急所を狙うのが一番効果的だ。エドモスはそのことを考慮し確実に仕留められる方法は考え始めた。
短い時間でだした答えは粘液生物を使うことだった。結界が壊れた瞬間に粘液生物を真っすぐ伸ばし、猪の魔物の下に潜り込ませる。そして心臓のある付近で先端を垂直に曲げて下から突き刺すのだ。
この方法なら仕留められる可能性は火炎球よりも高い。しかし、この方法を行うには粘液生物を十全に使いこなせる必要があった。伸ばして垂直に折り曲げる。そんな簡単な思考だがエドモスは一度もそれを成功させたことがなかった。
確実に攻撃ができる火炎球を使うのが良いのか、それとも粘液生物を操作して一かばちかの賭けにでるのか。エドモスに選択が迫られた。
「ブッモモモモモォォォォォ」
猪の魔物が再度雄叫びを上げた。それは結界を破壊したことによる歓喜の雄叫びだった。猪の魔物は無防備になった得物を睨みつけ、自慢の鼻で押しつぶすため突進した。逃げることをしない得物に向かって全力で突っ込んだ。
猪の魔物は餌の獲得を確信していた。いつものとおり、鼻で得物を押しつぶし死骸を食うのだ。新鮮な生き物の血肉を思う存分貪りつくすために猪の魔物はエドモスに突撃した。
先ほどまでの騒々しい物音はなくなり再び辺りは静寂を取り戻した。
「くはぁっ」
エドモスは口から大きく息を吐き出した。エドモスが吐き出した息と同時に猪の魔物が横に倒れた。猪の魔物の心臓には大きな杭が刺さり、一瞬で猪の魔物の命を断ったのだ。猪の魔物は自分が攻撃されたことも判らずに命を落とした。
「ハァハァハァッ、ハァーーーー」
エドモスは猪の魔物が死んだことで張りつめていた緊張が無くなり息を何度も吸い込んだ。全身から脂汗が流れ落ち、心臓が早鐘のように脈打っているが呼吸を繰り返すことで徐々に収まってきた。
エドモスは粘液生物で猪の魔物を倒した。先ほどの選択を迫られた際にエドモスが選択したのは粘液生物だった。エドモスは火炎球では猪の魔物を倒すことはできないと判断し、粘液生物を使用した。
いや、勝手に身体が動いたと言った方が正しい。結界が破られた瞬間にエドモスは粘液生物へ魔力を流した。今まで一度も変化しなかった粘液生物だったが先端が杭の用に変化した。
猪の魔物が突撃してきたときにエドモスの視界から色が消え、周りの臭いも音も消えた。体内の魔素の循環と左腕から流れる魔力だけが鮮明となった。猪の魔物の突進は時間にすれば僅かだったがエドモスにとっては今までで生きてきた中で一番長い時間だった。
色のない世界だが猪の魔物が踏み出す動作がはっきりと目で追えた。その足元に目掛けて杭を伸ばした。杭の伸びる速さも非常にゆっくりで、もどかしさすら覚えた。しかし、そのおかげで杭を垂直に曲げる瞬間を完璧に捉えることができた。
思考と魔力を送る感覚と杭の伸びる速度。猪の魔物が突進する速度。全てが手に取るように判った。杭が猪の下顎を通過し、杭の先端が曲がり。上に向かって伸びる。そして、杭の先端が猪の魔物の毛皮を、肉を、骨を突き破りそのまま心臓を突き破った。
『迷宮』に迷いこみエドモスが始めて魔物を倒した瞬間だった。
「どうやら無事に操れるようになったようじゃな」
エドモスに声を掛けたのはウォールドだった。ウォールドは自ら狩った兎の魔物を猪の魔物の傍に置いてエドモスに近づいた。
「無我夢中だった」
「それが良かったのかもしれない。目の前の魔物だけに意識を集中し、生き残るための本能がお前さんの本来の力を十全にだせたようじゃ」
「訓練のときも必死に集中していたつもりだったが……」
「お前さんは四肢を失って周りを警戒し過ぎていたようじゃ。身動きができない不安から魔物に対して異常に敏感になっていた」
ウォールドはそう言うとエドモスの頭を撫でた。親が子供を褒めるように優しくエドモスの頭を撫でた。子供扱いされて少し不愉快をエドモスは感じたが、それ以上にウォールドの手の温かさが気持ちよかった。
「見えない魔物の所為で集中できないのであれば、義肢を得る前に探索魔術を先に習得すべきじゃな」
「探索魔術?」
「そうじゃ、魔素の流れを感知し生き物や地形を把握する魔術じゃ。近くに魔物がいないことが判れば安心して訓練ができるじゃろう。お前さんは思っている以上に魔物に恐怖しているようじゃからな」
「…………」
「さて、そんなことよりも仕留めた魔物を調理するぞ。猪の肉は久しぶりじゃ。肉は焼いて岩塩をふってたべるぞ。余った肉は干し肉にして保存食じゃ! お前さんも今の感覚を忘れないよう粘液生物を使って肉を切ってみるのじゃ」
ウォールドはそう言うと早速猪の魔物を解体し始めた。エドモスも今の感覚を忘れないために粘液生物を操作した。ウォールドが切り落とした肉を食べやすい大きさに切り分けた。
この日の二人の食事は肉に岩塩をつけただけの粗末な料理だった。しかし、エドモスにとってこの肉の味は一生忘れることができない味となった。
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