閑話 レイラの情緒
『商業都市ダリス』にあるアーロンの店の二階でフレイヤは一通の手紙を見ていた。今日店に届いたこの手紙はフレイヤとクレア宛に届いたもので、手紙には短い文章が書かれていた。
『冬が来る前に顔を出す。 トリスより。』
初夏が始まる頃に出会った人。
夫の知人と名乗りフレイヤ達を救ってくれた恩人からの手紙にフレイヤは温かい気持ちで満たされていた。このダリスの街に着いた翌日に何処かに旅立ったトリスからの手紙は短い文章だが自分たちのことを忘れないでいてくれた事をフレイヤは嬉しく思った。
こんな気持ちになるのは夫のイーラ以外に感じたことは無かった。
娼館で働いていたころはフレイヤの容姿に惹かれ声をかけてくる客は大勢いた。しかしフレイヤは誰の誘いにも乗ることは無く淡々と仕事として客に抱かれていた。
しかしあの晩の出来事はフレイヤが自ら望んだことでそして夫以外の男に抱かれ初めて心の底から安堵した時でもあった。
サリーシャの街でフレイヤがまだレイラの偽名を使っていた時にトリスは領主からこの街の裏を牛耳る首領を始末する依頼を受けた。客観的に見ると只の旅人であるトリスが百人の私兵を雇う首領に勝てるはずはなかった。
依頼を受けた時のトリスはなぜか自暴自棄に陥った人の様にフレイヤには見えた。その日の晩にトリスの部屋を訪れある約束をした。トリスが無事に帰ってきた際はトリスに抱かれる約束をした。
フレイヤはトリスに何か活力を与えたかった。だが自分達はトリスに助けられている身で文字通り身体以外で支払えるものは無かった。だからフレイヤは自分の身体をトリスに委ねることにした。
客と娼婦としてではなく只の女としてトリスに抱かれることを選んだ。
領主の依頼があった日。ガゼルの妻ティナは屋敷の妙な緊張感を感じていた。夫のガゼルから詳しいことは聞いていないがその日の夜は重要なことがあるとは聞いていた。それにしても屋敷の雰囲気が重苦しかった。
夫の病を治してくれた恩人のトリスは日が沈む前に出ていき未だ屋敷に戻っていない。病が治ったばかりだと言うのに夫のガゼルは息子のデイルと共に執務室に籠っている。何よりも客人として来ているレイラが部屋に戻らず中庭をずっと見ているのが気になっていた。
昼間中庭で剣の稽古だと言って綱渡りをした時にティナは初めてレイラと面と向かって話しをした。午後のお茶の時はお互い一児の母親だったので子供の苦労話や雑談などに花を咲かせた。ティナはレイラが娼婦だと言うこともその時に知ったが特に気にすることは無かった。
惚れた相手以外に身体を許さない女の矜持は当然理解している。しかし母として子供の為に身体を売る矜持もまた理解できる。
ティナはその機会が無かったがもし夫が死に息子と路頭に迷った時は同じことをすると断言できる。だからレイラのことを軽蔑したりはしない。むしろ子供の為に身体を犠牲にして、さらに子供の分まで借金を返そうとしたレイラには同じ母親として尊敬すらした。
ティナはその話を聞いて以降レイラの事を気にかけるようになった。
レイラが中庭を深刻な顔をして見ているのを見かけたティナはレイラに話しかけた。
「レイラどうかしたのそんな深刻な顔をして。」
「ティナ様!?」
「様付けはしないで欲しいって言ったじゃない。」
「そうですが、領主様の奥様を呼び捨てにするなんて...」
「元領主の妻ですよ。まあ、それはこの際いいとしてどうしたの?ずっと中庭を見ていて。何か気になる物でもある?」
「いえ、特に気になる物は無いのですが...」
そう言ってレイラは黙ってしまった。レイラ自身自分の気持ちをうまく整理できていなかった。トリスのことが心配なのは理解している。だがそれは恩人としての気遣いなのかそれとも他の気持ちなのかレイラ自身判っていなかった。
そんなレイラを見てティナは何かを察したのかレイラにあるお節介をすることにした。
「トリスさんはまだ帰って来ないわね。」
「はい。」
「あなたはトリスさんが帰ってくるまで起きているの?」
「そのつもりですがご迷惑でしょうか?」
「いいえ。なら客室の近くにある浴室の掃除と準備をしてもらえるかしら?何時もなら使用人の仕事だけど今日はもう休むように言ってしまったの。トリスさんが帰って来た時にお風呂に入れる方がいいでしょ。もう夏も近いからきっと汗を沢山かいていると思うから。」
レイラはティナの依頼の意味は判らなかったが匿って貰っている恩があるので浴室の掃除くらいは問題なかった。それにトリスが帰って来た時にお風呂の準備が出来ていれば確かに良いと思った。
「判りました。浴室の掃除をいたします。」
「お願いね。浴槽のお湯は捨てて新しいお湯に取り換えていいからね。」
レイラは言われた通りに客室の傍にある浴室に行き掃除を始めた。夕食を食べた後にレイラとクレアが使った時のお湯は暖かかったが今は冷め始めていた。レイラは残っていたお湯を捨て浴槽を洗い新しいお湯を入れた。脱衣所のマットも交換しトリスの着替えなどを用意して一通りの作業を終えた時には随分時間が経っていた。
「まだ帰って来ないのですね。」
浴室の掃除を終えてレイラは思わずそう呟いてしまった。自分でも自覚が無く言葉を発し、気が付けばまた中庭に来ていた。中庭には昼間トリスが作った綱渡りの稽古道具がまだあった。昼間これを使っていた時のトリスは楽しそうにしていた。
レイラはまたトリスの楽しそうな顔を見たいと思っている。だがそれにはトリスが無事に帰ってくることが大前提だ。しかしトリスはまだ帰って来ない。
やはり一人で百人を相手するのは無謀だったのでは無いかと思い始めた時に裏手にあるドアが開く音が聞こえた。
レイラはドアの開いた場所に向かうとそこに血まみれのトリスが立っていた。
「!?」
「まだ、起きていたのか!」
レイラは血まみれのトリスに驚き、トリスはレイラが起きていたことに驚いた。
血まみれのトリスを見た時レイラは驚いたがトリスの口調が何時も通りだったので少し安心した。
「返り血だ。傷は一つもない。」
レイラの驚いた顔を見たトリスは自分が返り血まみれなことに気付き説明した。トリスの言葉に安堵したレイラは先ほど自分が掃除した浴室のことを思い出した。
「お、お風呂。用意してあります。良かったら入りませんか。」
「ありがとう。」
たった一言の感謝の言葉。その言葉を口にしたトリスの顔がとても嬉しそうだった。
トリスにとっては不快な返り血が落とせるのが嬉しかったので純粋にレイラへの感謝の言葉がでた。飾りの無い本心からの言葉にレイラは心が満たされ自分でも思いもよらないことを口走った。
「背中流します。後ろの首筋や背中にも血がついていますから。」
「・・・。ああ、頼む。」
「こっちです。」
レイラの思わぬ提案にトリスはどう返してよいか判らずそのまま承諾してしまった。
レイラも自身の言葉にもトリスの返事にも驚きつつ浴室へトリスを案内した。
結局レイラは次の日の朝までトリスと一緒に過ごした。
それからこのダリスに来るまでフレイヤはトリスと行動を共にしていた。旅の最中はトリスが二人の面倒を見てくれた。クレアは冒険者としての稽古や心構えをトリスに旅すがら教えてもらい、フレイヤは長年昼夜逆転の生活をしていたので生活のリズムを正すため日が昇る頃に目を覚まし、日が沈んだら寝るようにトリスが配慮してくれた。そのおかげで旅を始めて十日経つ頃にはフレイヤの身体は前以上に健康になり、その美貌もますます輝いていた。
だがその美貌も対象者に見て貰えなければ意味はなかった。
旅の途中で寄った村や町ではクレアとフレイヤに声をかけてくる男は大勢いた。トリスは『いい人が居れば定住しても良い』と言い、二人を保護対象としか見ていなかった。その言葉を聞いた時フレイヤは自分の気持ちに気が付き始めた。保護対象としてではなく一人の女として見て欲しいことがこの旅で気が付いた。
それは夫のイーラにかつて寄せた感情でもあった。
フレイヤは乳飲み子の時にイーラのエーデ家に母娘で引き取られた。フレイヤの父はインフェリス国の北にある国の貴族で王位継承権を持つ由緒ある貴族でもあった。
フレイヤの母親は側室ではあったが神事の際に奉納する護符や紐を納める家系であり、フレイヤの父親とは政略結婚ではなく男女の恋愛で結ばれた。
二人が結ばれた当初は国に争いの気配は無かったが何時の時代でも人の世には争いはあり、フレイヤが生まれる少し前から国に不穏な気配が漂い始めた。
フレイヤの父親は妻と娘だけでも安全な国で生活して欲しく交易がありさらには顔見知りでもあったイーラの祖父に妻と娘を預けることにした。フレイヤが産まれ母体の容体が安定した時に母娘だけをインフェリス国に逃がした。
その後フレイヤの祖国は内戦が起きフレイヤの父親は帰らぬ人となった。その知らせを聞いたフレイヤの母親は実家に帰ることは無くフレイヤとインフェリス国で生きていくことを決めた。フレイヤは少なくとも王位継承権を持つ血筋であり祖国に戻ると余計な火種に成りかねなかった。
フレイヤの母親はそれからはエーデ家の屋敷で住み込みの家政婦として生きていくことを決め女手一つでフレイヤを育てたのだ。フレイヤはそんな母親と一緒に生活していたのでエーデ家の人と面識があった。
勿論立場を弁えて接していたが小さい頃はイーラが兄の様に面倒を見てくれた。祖父からフレイヤ達のことを聞かせられ不憫に思ったイーラはフレイヤの面倒をよくみていた。イーラには兄が二人と妹が一人いてフレイヤをもう一人の妹として接した。
フレイヤはイーラに懐き本当の兄妹の様に過ごした。イーラの妹とは歳は近かったがあまり仲は良くなかった。イーラの妹はどこかフレイヤを見下しており、その態度に気付いたフレイヤも積極的に彼女にかかわることはしなかった。
フレイヤが十歳になる時にイーラは冒険者になると言い家を出た。最初は兄と慕っていたイーラがいないことで寂しさを感じていたフレイヤだった。その頃から寂しさを紛らわせる様に家の手伝いを積極的にするようになった。
また、気晴らしになると思い母親から護符や紐の編み方を習った。護符は祖国の神事の際に使うので人に渡したりすることは出来なかったが、紐は親しい人に渡す風習があった。紐は編み方で色々な意味を持つのでお守りとして渡すこともあった。
フレイヤはイーラが冒険者になったので身の安全を祈願した編み紐を彼に渡すことにした。何度も何度も失敗しながらできた編み紐をイーラに渡した時のことはよく覚えている。イーラが実家に帰省した際に編み紐を渡した時彼はとても喜んでくれた。拙くあまり出来のいいとは言えない物をイーラは宝物の様に喜んでくれた。
それからフレイヤはイーラを兄としてではなく異性として彼を見るようになった。彼の喜ぶ顔が見たくて色々頑張った。彼の好きな料理を覚えたり、お守りの編み紐ももっと複雑な物を作れるように母親から教わった。しかしイーラはそんなフレイヤの思いには気が付かず結局フレイヤの思いが伝わったのは彼女が十四歳の時だった。
それまでイーラはずっとフレイヤを妹、保護対象としてしか見ておらずその間ずっとフレイヤはやきもきした気持ちを抱えていた。
その気持ちを二十年経った今も味わうことになるとは思わなかった。トリスと一度は関係を持ったがそれによってトリスの態度は変わることはなかった。旅の最中もトリスはフレイヤ達の身を案じてくれたがそれは親が子に兄が妹に向ける気遣いで恋人や愛人に向ける気遣いでは無かった。
「私はいつの間にかイーラと同じくらいあなたを慕うようになりました。」
フレイヤはトリスの手紙を抱きしめながら誰もいない部屋で自分の想いを確かめた。
閑話をアップさせていただきました。
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