0. 逃走
幸福の秘訣は自由であり、自由の秘訣は勇気である。
――トゥキディデス
夜の都市。
そこはただ高層ビルが立ち並び、光があふれる繁栄した場所ではない。
栄枯盛衰、喜怒哀楽……
それらが入り交じる複雑な人間のエコロジーでもある。
そんな鉄の森林の中で、1人の男が焦りながら入り組んだ裏路地を走っていた。
「ハー、ハア……ッダァ、ハア……」
男は狭い曲がり角に入り込み、しゃがんで身を隠した。そして、すぐに声を殺す。
すると、その直後、背後から複数の足音が聞こえる。
近い……非常に近い。
男は恐怖による震えと、息切れの苦しさの狭間で耐えながら、必死に今にも出そうになる咳を抑えようとした。
「クソ、見逃してしまった」
「分かれて捜索しよう、何かあったらすぐ連絡するぞ」
やがて足音が遠ざかった。
しばらく男は動かなかった。完全に気配が消えたことを確認してから、ようやく小さく息を吐いた。
男の名は、岩崎先明、31歳。
彼は大手メーカー「H・S」の開発部門に所属し、メカニックも務める。
ただ、今夜は仕事とはまた別のことで忙しいようだ。
乱れた黒髪を、ヘアゴムで適当に後ろへ束ねている。
整った五官は本来なら人目を引くはずだったが、今夜だけで何度も逃げ続けたせいで、顔には疲労が濃く刻まれていた。
作業着もすっかり汚れている。袖にも裾にも土がこびりつき、ところどころ黒ずんでいた。
先明は乱れた呼吸を整え、再び周囲を警戒しながら歩き出した。
しばらく進んだところで、小さなカフェが目に入った。
店は決して新しくない。だが、窓から漏れる暖かな光が、夜の街の中で妙に安心できるものに見えた。
先明が思わず店をじっと見つめていると――
背後から、再び足音が響いた。
「……ッ!」
周囲を見回す。
身を隠せそうな場所はない。
迷っている暇はなかった。
先明は急いでカフェの扉を開け、店内へ飛び込んだ。
ドンッ。
カラン、カララン――。
「うわっ、びっくりした! どうしたんだ!?」
カウンターにいたのは、30歳前後の店長だった。
オールバックの髪に小さな丸眼鏡。服装もきちんとしていて、どこか小綺麗な印象の男だ。
「助けてくれ! 命を狙われている!」
「お、おう……分かった。とにかく、こっち!」
店主は一瞬戸惑ったものの、すぐにカウンターの端にある小さな柵を開けた。
「ここに入って!」
「すまない……!」
先明がカウンターの内側へ滑り込んだ、その直後だった。
ガタッ。
カラン、カララン――。
扉が開く音がした。
先ほどの2人組だった。
2人は店内を見回しながら、ゆっくりとカウンターへ近づいてくる。
そのうちの1人がポケットから1枚の写真を取り出した。
そこには、先明の顔が写っていた。
「この男を知らないか?」
店長は写真をちらりと見る。
「……どうでしょう。うちは案外忙しくてね。常連さんでもなきゃ、来た人の顔なんていちいち覚えてないですよ」
「本当だな?」
店長は口角を少し下げ、肩をすくめた。
「ええ。本当ですよ」
2人組は納得しきれない様子で、店内を隅々まで見回した。
先明は息を殺し、身動き1つしなかった。
やがて――
「……行くぞ」
2人はそう言って店を出ていった。
扉が閉まり、足音が遠ざかっていく。
しばらくしてから、店長がカウンターの下を覗き込んだ。
「……もう行ったみたいだ」
「た、助かった……ありがとうございます」
先明はゆっくりと立ち上がった。
「もう少しここにいた方が――」
「いや、これ以上迷惑はかけられない」
先明が店を出ようとした、そのときだった。
店長が何かを思い出したように声をかける。
「……ちょっと待って」
「?」
店長は先明の作業着を見た。
土で汚れ、ところどころ擦り切れた作業着。その姿を改めて眺める。
「それ、作業服だよな?」
「……ああ」
「もしかして、メカニックか?」
先明は少しだけ警戒した。
「だったら?」
店長はニヤリと笑った。
「実はさ、うちの倉庫に壊れたマシンが1台あるんだ。ちょうど困ってたところでね」
「マシン……?」
「直せないか?」
先明は一瞬、店の外へ目を向けた。
(今出れば、またあの2人と鉢合わせする可能性がある。)
それなら――。
(しばらくここで修理をして、追手を撒いてから出た方がいい。俺にとっても、その方が都合がいい)
「……分かった。見せてくれ」
「よし、決まりだ」
店長はほっとしたように笑った。
2人は店の奥へ向かい、勝手口を開けた。
夜の狭い路地へ出る。
光が怯えたかのように、暖かな明かりを店の中へ引っ込めた。
まるで、暗闇が猛獣のようだ。
店の明かりから離れた2人は、周囲を警戒しながら静かに歩き出した。
耳に入ってくるのは、ビルの間を抜ける風の音、足音、遠くの大通りから聞こえるクラクションのみ。
道は街灯も立てられないほど狭く、肩幅より少し広い程度しかない。
頼るのは月光のみ。
カフェの光とは違い、それは冷たく、そして2人を監視するようにも見えた。
しばらく歩いて行くと、横に1枚の目立たないスライドドアがあった。
チャリッ。
店長はエプロンのポケットから取り出した鍵を使って開けた。
そこには、独特な風景が広がっていた。
広い倉庫の中央に、ボロボロのV/Mがポツンと置かれている。
隅を見ると、作業台とジャッキが設置されている。
見上げると、天井がものすごく高く、その先には開閉できる鉄の扉がある。
先明はマシンに近づいた。
ジェット四基を積んでいる。これは第2世代(2nd Gen)だ。
今の主流となっている第3世代(3rd Gen)は、電磁浮遊を採用している。さらに、レーザーセンサーによる制御も加わった。
今の時代に、これを見かけるのは珍しい。
先明は少しだけ興奮しながら、
「おお、ロマンあるな」
とつぶやいた。
が、
このマシンは一瞬で彼を真顔に戻した。
このV/Mは少し不自然な壊れ方をしている。
衝突による凹みだけでなく、小さな穴がいくつも開いている。その穴からオイルが漏れていた。
彼は嫌な予感がした。
「これは……もしかして......」
そう、弾痕だった。
彼は思わず立ち上がって、ゆっくりと身を引いた。
「どうした? 直せないのか?」
店長は尋ねた。
先明は棒読み気味に、
「これは板金でも結構な金額かかりそうだー。修理するより、ニューマシンを買った方がコスパよさそうな気が――」
と、振り向いた。
いつの間にか、店長の後ろには屈強な男たちが集まっていた。
「えー、それは困るなあ。『ファミリー』カーだから、『子』をまだ乗せたいね」
店長はそう言うと、腰に隠していた銃を取り出し、先明へ向けた。
「なるほど......カフェがなんであんなに『アットホーム』なのか、よく分かったよ。」
「一応、オーナーなので愛着があるんでね。」
「じゃあ、直すための材料は……」
「ない……借金をしてもらうからね。」
店長は明るく言ったが、その口調とは裏腹に、より不気味さが滲み出ていた。
「じゃあ、どうやって返す?」
「ひたすらマシンたちを直してもらう。私だけじゃないからね……そうだ、君の実力を試すために、このマシンを君に与えよう。1ヶ月後までにこれを改造して、草レースで賞金を勝ち取ってもらおう。そうすれば借金を返せるでしょ?」
「レースの技術はない。ドライバーはどうする?」
「探せ。」
「……」
「探せ。私たちは忙しいから、そんな暇はない。」
「じゃあ……もし勝てなかったら――」
「『用済み』ということで…………はい、じゃあ夜遅いので、しっかり休んでもらおう。1日3食付きで、隣の部屋は綺麗に掃除できていて自由に使っても構わない。エアコン完備だから心配いらない。では、おやすみ。」
店長は扉を閉めるとき、ギロリと一度、先明に目を向けた。
まるで「逃げても無駄だ」と訴えかけているように。
しかし、先明は安堵したような顔をして、地面にあぐらをかいた。
「なんてこった……フフッ、まあ、戻されるよりかはマシだ。」
そう言って、彼は懐からヘナヘナになったタバコを取り出し、一服した。
ハチャメチャな1日だ、と彼は呆れた。
プロフィール • 岩崎先明
年齢:31歳
身長:172cm
体重:66kg
誕生日:1月9日
血液型:O型
職業:H • S開発部門/メカニック
趣味:田舎旅行
特技:どんな葉っぱでも笛吹ける
嫌いなもの:子ども(場合による)




