第9話 村人Aとしての努力
編集私は貯水槽の扉から手を離した。鍵穴の周囲にこびりついた黒褐色の付着物は、ただの錆には見えない。表面は乾いているのに、削った箇所からは湿った土のような臭いが漂っていた。「今日は開けない」隣で工具を構えていたレンが、驚いた顔を上げた。「ここまで来たのにですか?」「だからこそだ。正体の分からないものを剥がして、扉の向こうから何が出てくるかも分からないまま開けるのは危険すぎる」私は削り取った欠片を布で包み、木箱に収めた。鑑定を使えば名前くらいは分かるかもしれない。だが、先ほど試したときに浮かんだのは、曖昧な文字だけだった。『複合堆積物――用途不明』普段の鑑定なら、材質や使い道まで映し出される。それが判然としないということは、複数の物質が混ざっているか、何かによって意図的に隠されている可能性があった。「図書館へ戻ろう。古い貯水槽の記録を調べ直す」レンは扉を惜しそうに見つめたものの、素直に工具を袋へ戻した。「分かりました。水が出たら畑を広げられると思ったんですけどね」「焦って水路を壊したら、畑どころではなくなる。使えるものを見つけるだけじゃ駄目なんだ。安全に使える方法まで確かめないと、本当の価値を見つけたことにはならない」夕方、私たちは灰野村の図書館へ戻った。崩れかけた書棚の奥から、貯水槽に関する記録を探し出す。以前見つけた水路図のほかに、修繕帳簿や工事日誌らしい紙束も机へ運んだ。紙は湿気を吸って波打ち、触れただけで端が崩れそうだった。レンは文字の薄れた帳簿を一枚ずつめくっていたが、やがて小さく唸った。「読めそうで読めません。昔の字って、どうしてこんなに崩してあるんですか」「書いた本人に聞きたいところだな」私も目を細めながら、日付と見出しを拾っていった。水門補修。北側導水路の清掃。貯水量の記録。どれも通常の管理作業ばかりで、黒い付着物については触れられていない。日が沈みかけたころ、レンが一枚の紙を差し出した。「湊さん、これ。封鎖って書いてありませんか?」紙の上部には、確かに『第二貯水槽封鎖作業』と記されていた。続く文章は染みで半分ほど消えていたが、いくつかの単語は読み取れた。逆流。沈殿。鉱脈。防止剤。私は布に包んだ欠片を机の上へ置いた。「この付着物は、自然にできたものじゃないかもしれない」「誰かが塗ったということですか?」「おそらくな。鍵を隠すためではなく、扉の隙間を塞ぐために」改めて欠片へ鑑定を使う。用途を推測できたことで、先ほどより文字が鮮明になった。『鉄砂・石灰・樹脂を含む防水封止材。水圧による漏出を防ぐ。劣化率六十八パーセント』私は息を止めた。「どうでした?」「扉の向こうには、水が残っている」レンの顔が明るくなった。「では、やっぱり開ければ――」「待て。劣化しているとはいえ、今も封止材として機能している。つまり、扉には内側から水圧がかかっている可能性が高い」不用意に付着物を剥がせば、水が噴き出す。扉そのものが外れれば、狭い地下通路で逃げる余裕はない。水路が生きていることは朗報だった。しかし、それは同時に、貯水槽が危険な状態で眠っていることを意味していた。私は工事日誌の残りを調べた。封鎖の理由が分かれば、安全な開け方も見つかるかもしれない。紙束の最後に挟まっていた薄い板へ触れたとき、鑑定が反応した。『灰野村第二貯水槽・緊急排水手順。表面の汚れにより判読困難』「これだ」板の表面を乾いた布で慎重に拭くと、細い線で描かれた貯水槽の断面図が現れた。正面扉のほかに、側面から細い管が伸びている。その先には、小さな排水口を示す印があった。「先にこちらから水を抜く仕組みらしい」「でも、貯水槽の横にそんなものはありませんでしたよ」「土に埋もれているんだろう。明日、周囲を掘って探す」翌朝、私たちは村人たちにも事情を説明し、貯水槽の側面を掘り始めた。扉を正面から開ける作業ではないと分かり、集まった者たちの表情には少し安堵が浮かんでいた。レンは図面を持ち、壁からの距離を測る。私は鑑定を使いながら、土の下に隠れた石材や金属の反応を探した。しばらく掘り進めると、鍬の先が硬いものに当たった。「ありました!」土の中から現れたのは、腕ほどの太さの石筒だった。先端には金属製の栓がはめ込まれている。表面は錆びついていたが、正面扉ほど厚い封止材は付着していなかった。鑑定を使う。『緊急排水栓。内部圧力を低下させた後、主扉の解錠が可能。急開放禁止』「図面どおりだ。まず、この栓を少しずつ緩める」私は周囲の者を下がらせ、石筒の先に古い水桶を並べた。レンには長い棒を渡し、離れた位置から栓を回してもらう。「一度に開けるな。少し動かしたら止めるんだ」「分かりました」金属が軋み、低い音が地面の下から響いた。栓がわずかに回った瞬間、石筒の隙間から細い水が噴き出した。泥と赤錆を含んだ濁り水だったが、腐った臭いはしない。レンが目を見開いた。「水です。本当に残っていたんですね」「まだ近づくな。圧力が安定するまで待つ」水はしばらく激しく流れたあと、次第に勢いを弱めていった。桶にたまった水を鑑定すると、飲用には濾過と煮沸が必要だが、農業用水としては問題ないと分かった。その結果を伝えると、後ろで見守っていた村人たちから小さな歓声が上がった。ただの泥水にしか見えない。それでも灰野村にとっては、乾いた畑を生き返らせる可能性を持った水だった。排水が止まるまで待ち、私たちは貯水槽の正面へ回った。扉の付着物には細い亀裂が入り、先ほどまで感じていた湿った臭いも薄れている。鑑定結果も変わっていた。『内部圧力低下。解錠可能。ただし主水路の状態確認を推奨』「今度は開けても大丈夫ですか?」レンの問いに、私はうなずいた。「完全には開けない。まずは指一本分だ。異常があれば、すぐ閉じる」封止材を必要な範囲だけ削り、鍵穴を露出させた。図書館で見つけた古い鍵を差し込むと、錆びた内部で金属同士が擦れた。力を込める。一度目は動かなかった。油を差し、角度を変えて再び回す。重い抵抗のあと、錠の奥から鈍い音が返ってきた。扉がわずかに浮いた。隙間から冷たい空気が流れ出し、その直後、暗闇の奥で水滴の落ちる音が聞こえた。私はランタンを掲げ、細い隙間から内部を照らした。石造りの貯水槽には、今も水がたたえられていた。底までは見えない。奥には別の水門があり、さらに地下へ続く導水路が口を開けている。だが、それ以上に気になるものがあった。水面の中央に、石で組まれた柱が立っていた。その表面には、図書館で見た水路図には記されていない文字が刻まれている。鑑定を向けると、視界に現れた文字が激しく揺らいだ。『供給源――判定不能』続いて、赤い文字が浮かぶ。『地下水脈への接続を確認。推定流量、灰野村の旧記録を大幅に上回る』私は無意識に扉へ手をかけた。この貯水槽は、残された水をためているだけではない。今もどこかから水を受け続けている。「湊さん?」レンの声で我に返った。私は扉を再び閉じ、鍵をかけた。「今日はここまでだ」「中に何かあったんですか?」「あった。だが、喜ぶのは調べ終えてからだ」水路を開けば、灰野村の畑を潤せるかもしれない。けれど、記録を上回る量の水がどこから来ているのか分からないまま流せば、今度は村を水浸しにする危険もある。私は扉に刻まれた古い印を見つめた。見落とされていたのは、水路の価値だけではない。この貯水槽そのものが、灰野村の誰も知らない秘密を抱えていた。




