第7話 廃れかけた町づくり
編集図書館の長机いっぱいに広げた古地図へ、ランプの光が揺れていた。石碑から写し取った文字と、棚の奥で見つけた導水路の記録。二つを何度見比べても、肝心の箇所だけが噛み合わない。石碑には「北の斜面より水を引く」とあるのに、古地図の水路は村の西側で途切れていた。「ここから先が、どうしても読めないな」黒ずんだ紙面を指でなぞる。虫食いだけではない。西側へ伸びる線の先は、意図的に削られたように白く擦れていた。私は息を整え、紙に意識を集中させた。視界の端に淡い光が浮かび、削られた部分の上へ細い文字が重なっていく。《旧導水路・第二分岐》
《崩落時は排水孔を開き、水圧を逃がすこと》
《入口は水守りの石の下》紙の端には、薄く別人の筆跡も残っていた。『封鎖後は開けるな』。理由までは書かれていない。ただ、その一文だけが乱暴に塗り潰されている。水路を捨てたのではなく、何かを隠すために記録ごと消したようにも見えた。消された文字が読めた瞬間、背筋が伸びた。これまでの調査で見つけた水路は、本流ではなく第二分岐だったらしい。しかも、崩れた石をただ取り除けばいいわけではない。水圧を逃がさずに開通させれば、脆くなった壁が一気に崩れる危険がある。「湊さん、まだ起きていたのか」振り返ると、阿佐治さんが戸口に立っていた。片手には縄と木の杭、もう片方には湯気の立つ椀を持っている。「明日の測量に使えそうなものを集めてきた。ついでに、少し食べた方がいい」「ありがとうございます。ちょうど、気になる記述を見つけました」私は椀を受け取り、地図の一角を示した。阿佐治さんは椅子を引き寄せ、身をかがめる。「第二分岐……ということは、昨日見つけた穴は本流じゃないのか」「たぶん違います。それと、先に排水孔を探さないと危険です。水が残っていれば、崩れた場所を開けた途端に押し流されるかもしれません」阿佐治さんの表情から笑みが消えた。昨日、水路の底から見つかった獣の死骸は、村人たちが布で口元を覆い、長い鉤を使って引き上げていた。腐敗は進んでいたが、幸い上流から水は流れ込んでいなかった。とはいえ、あのまま水を通せば汚れが村中へ回る。底に残った泥も掻き出し、灰を撒いて乾かす必要があった。死骸があった場所の泥は黒く変色し、鼻を刺す臭いが残っていた。私は土の状態も鑑定した。《腐敗物による汚染》
《表層三寸を除去》
《乾燥後、木灰を散布》
《通水前に二度洗浄》見えた内容をそのまま伝えると、阿佐治さんは紙の端へ一つずつ書き留めた。「水が来たら、すぐ飲めるわけじゃないんだな」「はい。最初の水は畑にも使わず、外へ流した方がいいです。臭いが消えても安全とは限りません」「分かった。子どもたちが近づかないよう、柵も作らせる」その返事に私はうなずいた。水路を見つけることばかり考えていたが、通した水で誰かが病気になれば、復旧した意味がない。目に見える成果を急ぐより、手順を守る方が大切だった。「明日は入口を開けるんじゃなく、まず勾配と排水孔の位置を確かめましょう」「分かった。朝一番で人を集める」阿佐治さんは即座にうなずいた。城では、私が何かを説明しても最後まで聞かれることすらなかった。その記憶がふと胸をよぎる。だが今は、目の前の人が私の言葉を信じ、村の命を預けようとしている。その重さに、私は椀を持つ手へ力を込めた。翌朝、私たちは西の斜面へ向かった。阿佐治さんのほか、鍬を担いだ男が三人、縄を持った若者が二人。水路の中へ入る者は布を二重に巻き、死骸を除いた場所には誰も素手で触れないよう伝えた。まず、一定の間隔で木の杭を打ち、縄を張る。水路の底から縄までの高さを測れば、わずかな傾きが分かる。村人たちは最初こそ首を傾げていたが、二本、三本と測るうちに、記録を取る意味を理解してくれた。「こっちは一尺ほど低いぞ」「その次は、逆に高くなっています」途中、縄の高さを記録していた若者が、不安そうに私を見た。「こんな少しの差で、本当に水は流れるんですか」「少しだからこそ、途中の盛り上がりが問題になります。ここで水が滞れば、泥が溜まり、また腐ります」私は地面へ簡単な線を引き、高低差を示した。若者はしばらく見つめた後、自分から次の杭まで走っていった。「じゃあ、先も測ってきます」派手な力仕事ではない。それでも、一つの数字を間違えれば水は村まで届かない。誰も価値を認めなかった古い記録と、地味な測量。その二つが、今は村を救うために欠かせないものになっていた。私は地図へ数字を書き込んだ。水は高い方から低い方へ流れる。しかし途中だけ底が盛り上がっている。土砂が積もっただけなら掘れば済むが、鑑定を使うと別のものが見えた。《表層・堆積土》
《下層・石蓋》
《内部・空洞あり》「ここです。掘りすぎないでください」鍬を振り上げた男を止め、表面の泥だけを慎重に除いてもらう。やがて、平たい石板が姿を現した。中央には、波を三本重ねたような印が彫られている。阿佐治さんが息を呑んだ。「水守りの石……」昨夜読んだ言葉と一致していた。石板の周囲を掘ると、指が入るほどの隙間が見つかった。だが、持ち上げようとしてもびくともしない。私は表面へ手を置き、もう一度鑑定を使った。《排水孔の蓋》
《固定具・右側面》
《腐食》
《無理に持ち上げると蝶番が破損》右側の土を払うと、錆びた金具と短い取っ手が埋まっていた。上へ引くのではなく、横へ回して留め具を外す仕組みらしい。「縄を掛けます。全員、石の正面には立たないでください」取っ手へ縄を結び、斜め後ろから少しずつ引く。最初は動かなかった。金具へ油代わりの獣脂を塗り、木槌で周囲を軽く叩く。三度目に力を合わせると、鈍い音を立てて取っ手が回った。次の瞬間、石板の隙間から冷たい風が吹き出した。「下に空間があるぞ」蓋を横へずらすと、暗い縦穴が現れた。底までは見えない。縄の先へ石を結び、落としてみる。一つ、二つと数えた後、遠くで水音が返った。水は残っている。しかも、思っていたより深い。「排水孔を開けば、本流に残った水を逃がせるかもしれません」私は穴の内壁をランプで照らした。石組みは古いが、崩れてはいない。ところどころ白い鉱物の筋が走り、その奥へ横穴が続いている。阿佐治さんが隣から覗き込む。「この穴の先が、北の水源につながっているのか?」「可能性はあります。ただ、今すぐ人が入るのは危険です。空気が悪いかもしれないし、急に水が動くかもしれません」まず煙を近づけ、空気の流れを見る。細い煙は穴の中へ吸い込まれた。完全に塞がれてはいない。私たちは長い棒の先に布を巻き、油を染み込ませて火をつけた。それを縄でゆっくり下ろしていく。炎は消えなかったが、途中で大きく揺れた。横穴から風が来ている。「湊さん、あれを見てくれ」阿佐治さんが穴の縁を指さした。石の内側に、小さな溝が刻まれている。泥を拭うと、北を示す矢印と、三つの丸印が現れた。私は触れた瞬間、意味を読み取った。《第一貯水槽》
《第二貯水槽》
《非常用貯水槽》
《第三封鎖》胸の奥が冷えた。三つ目だけが封鎖されている。しかも「崩落」ではなく、人の手で閉じられたと読めた。「どうした?」「この先には貯水槽が三つあります。でも、最後の一つは故障で塞がったんじゃありません。誰かが意図的に閉じています」村人たちの間にざわめきが広がった。水路が使われなくなったのは、単なる老朽化ではないのかもしれない。そのとき、穴の底から石の転がる音がした。続いて、暗闇の奥で水が動く。ごう、と低い響きが足元を震わせ、縦穴の水位がゆっくり上がり始めた。「全員、穴から離れて!」私が叫ぶと同時に、北の斜面のどこかで、何かが崩れる音がした。




