第25話 湧き返る水流、希望の光線
分水所の奥から、水がぽたりと落ちた。
私は膝をつき、岩肌を伝う雫を指先で受けた。水は骨に染みるほど冷たかったが、胸の奥が熱くなる。天井から落ちてきた雨水ではない。目の前の岩の割れ目から、細い筋になって絶えず湧き出している。
水の匂いも確かめた。長く淀んでいた水なら、腐った草や鉄のような臭いが残るはずだ。だが、指についたのは湿った石の匂いだけだった。私は掌の水を地面へ捨て、もう一度岩の割れ目を見る。雫の間隔は一定で、少しずつ速くなっていた。奥の空洞に溜まった水が漏れただけではない。塞がれていた水脈が、こちらへ道を取り戻しつつある。
「止まっていた水が戻ってきたぞ」
声を上げると、作業をしていた村人たちが一斉に振り向いた。だが、喜ぶにはまだ早い。雫の下には崩れた石と泥が積もり、その先の水路を塞いでいる。このままでは、せっかく湧いた水も溜まるだけだ。
石工の老人がつるはしを肩に担ぎ、私の隣へしゃがみ込んだ。
「岩の割れ目は生きてる。ただ、出口が潰れちまってるな」
「石を外せますか」
「大きいのから順にやればな。若い衆を二人、こっちへ回してくれ」
私は頷き、外で泥を運んでいた若者たちを呼んだ。全員で縄を掛け、崩れた石を一つずつ引き出していく。力任せに動かせば、残っている壁まで崩しかねない。石工の老人が槌で岩を叩き、響きを確かめながら外す順番を指示した。
最初の一つが抜けると、奥で溜まっていた水が泥を押し出した。茶色く濁った水が足元へ広がり、村人たちが慌てて脇へ退く。
「流れた!」
若者の一人が叫んだ。
「まだだ。泥が抜けるまでは水門を開けないでくれ」
私は水の勢いを見ながら、詰まりの残っている場所を指さした。細い枝や腐った布、砕けた板切れが石の隙間に絡みついている。長い棒で掻き出すと、流れは少しずつ太くなった。
やがて、石工の老人が壁際に埋もれていた黒ずんだ木材を引き抜いた。
「湊、こいつは捨てるか?」
腕ほどの太さがある古い樫材だった。表面は泥と苔に覆われ、一見すれば腐っているように見える。私は小刀で端を薄く削った。黒い表皮の下から、淡い褐色の硬い木肌が現れる。刃先を押し当てても簡単には沈まない。水に浸かっていた外側は傷んでいるが、芯までは朽ちていなかった。
「捨てないでください。傷んだ部分を落とせば、水門の横木に使えます」
「こんな古材がか?」
「新しい木より水を吸いきっています。乾かして割れる心配も少ない。長さも、外した横木とほぼ同じです」
老人は削った断面を親指で押し、感心したように鼻を鳴らした。
「見た目だけで燃やすところだったな」
「捨てる前に、使い道を考えるべきだったんです」
その言葉に、周りの村人たちも古材を見直した。若者たちは泥を落とし、使えそうな部分と腐った部分を切り分け始める。私は外された金具を集め、錆びの浅いものを選んだ。曲がった釘は炉で熱して打ち直せば使える。欠けた石も、水路の底をならす詰め石には十分だった。
分水所の入口では、地図に詳しい老人が古い地券と水路図を広げていた。私は手を洗い、彼のもとへ向かう。
「湊、今いる取水口と、村へ下る水路の位置を見比べてみた。ここの印が分かりにくくてな」
老人が指したのは、北山分水所そのものではなく、そこから南へ延びる旧水路だった。現在地は山側の取水口で、水はここから二本に分かれ、一方が畑へ、もう一方が共同井戸へ向かう造りになっている。
「南側の線が途中で消えていますね」
「崩れた場所を描き足したんだろう。だが、この短い線だけ別の墨だ」
私は地図を光に透かした。薄い紙の裏に、消されかけた枝線が残っている。今は土に埋もれているが、分水所から村の中央へ直接つながる補助水路があったらしい。
「まずは今の本流を通しましょう。水量を確かめてから、補助水路を掘り起こします。いきなり全部へ流せば、どこかで決壊するかもしれません」
老人は深く頷き、地図の端に印を付けた。
作業場へ戻ると、樫材の加工が終わりかけていた。傷んだ表面を削った横木は、外した部材より一回り細い。それでも金具の位置を詰めれば、水門を支えるには足りる。
私は水門の溝に溜まった砂を掻き出し、石工の老人と一緒に横木をはめ込んだ。若者たちが左右から支え、打ち直した金具を槌で固定する。何度か軋んだものの、木は割れなかった。
「上げるぞ」
老人の合図で、全員が綱を引いた。
水門は少し持ち上がったところで止まった。溝の奥に小石が噛んでいる。綱を緩め、棒の先で石を弾き出す。もう一度引くと、今度は重い音を立てながら、ゆっくりと門板が上がった。
堰き止められていた水が、水路へ流れ込む。
次に確かめたのは、二本の水路を切り替える小さな分岐門だった。片方の門板は土に埋まり、もう片方は蝶番が固着している。私は泥を落とし、金具の縁を指でなぞった。赤錆は広がっているが、芯まで崩れてはいない。
「油があれば動かせそうです」
若者が作業小屋から獣脂の壺を持ってきた。温めた脂を金具へ塗り、樫材の端材を梃子にして少しずつ押す。最初はびくともしなかった門板が、鈍い音を立てて指一本分だけ動いた。そこへ水を流して砂を洗い、再び押す。三度目で、門板はようやく溝の端まで滑った。
これで畑側と井戸側を交互に開けられる。流量が足りなくても、時間を分ければ村中へ水を回せる可能性が出てきた。
最初に出てきたのは泥混じりの濁流だった。村人たちは水路の縁に並び、枝や落ち葉が引っ掛かるたびに熊手で取り除いた。私は先回りして、割れた箇所から水が漏れていないか確かめる。欠けた石の隙間には粘土を詰め、その上から平たい石を押し込んだ。
水は何度も勢いを失いかけた。それでも、詰まりを一つ除くたびに先へ進んだ。
やがて分水所の外から、若者の声が響いた。
「来たぞ! 外の水路まで来た!」
私は濡れた床を蹴って外へ出た。石組みの水路を、濁りの薄れた水が走っている。細い流れではあるが、途中で途切れてはいない。山の斜面を下り、南側の畑へ向かって確かに進んでいた。
村人たちは水路に沿って歩き、崩れた縁を直しながら流れを追った。畑の手前にある小さな升まで水が届くと、石工の老人が堰板を差し込む。水面がゆっくり持ち上がり、乾いてひび割れていた畑の溝へ流れ込んだ。
土が水を吸い、黒く色を変えていく。
誰かが笑った。別の誰かは、しゃがみ込んで水に触れていた。大声で喜ぶ者はいなかったが、朝から強張っていた顔が少しずつほどけていく。
「これで全部解決、とは言えません」
私は水量を測るため、升に刻まれた古い目盛りを見た。今の流れだけでは、村中の畑と共同井戸を同時に満たすには足りない。しかも水路のどこかに、まだ漏れが残っている可能性もある。
「今日は畑側だけに流します。夜まで水位が落ちなければ、明日は井戸側を試しましょう」
升の脇には、昔の当番表を差していたらしい木枠が残っていた。地図に詳しい老人はそれを見つけると、家ごとの水番を決め直そうと言った。誰か一人に任せれば、故障を見逃す。朝と夕方に二人ずつ見回り、流れが弱くなったらすぐ分水所へ知らせる。修理しただけで終わらせず、使い続ける仕組みまで戻さなければならない。
「昔は、こうして順番に見てたんだ」
老人は木枠の溝に指を滑らせた。
「なら、そのやり方も使いましょう。古いから駄目なんじゃない。今の村に合う形へ直せばいい」
若者たちは頷き、濡れていない板切れを拾って当番の印を刻み始めた。
若者が水路の先を見ながら尋ねた。
「地図にあった、埋もれた水路も掘るのか?」
「必要になる。でも、今すぐじゃない。まず、この流れを守る方が先です」
私は分水所を振り返った。入口には泥だらけの道具が並び、削り落とした樫材の破片が積まれている。新しい材料はほとんど使っていない。崩れた石も、錆びた金具も、腐ったように見えた古材も、役目を変えれば修理に使えた。
石工の老人が私の肩を軽く叩いた。
「お前が見つけたのは、水だけじゃなかったな」
「見つけたのは、皆さんです。私は使えると伝えただけですよ」
老人は笑い、再び水路へ目を向けた。
夕方が近づくにつれ、流れる水は澄んでいった。西日を受けた水面が細く光り、畑の溝をゆっくり満たしていく。村人たちは交代で水門を見張り、漏れを見つけるたびに土を詰めた。
私は最初に雫が落ちた岩の前へ戻った。あのとき指先で受けた細い水は、今では水路の底を絶えず叩いている。
背後から、畑へ向かった若者の声が届いた。
「湊! いちばん下の畝まで水が来たぞ!」
私は返事をし、立ち上がった。
分水所には、まだ直す場所が残っている。埋もれた補助水路も、明日から調べなければならない。それでも今日、止まっていた水は村へ戻った。
石組みの間を抜ける水音を聞きながら、私は濡れた手を握った。今度こそ、この流れを絶やさない。




