第24話 分水所の謎解き Begins
北山の分水所について話し合う村人たちの輪の中で、私は古い地券を見つめていた。
厚い紙は黄ばんでおり、端には虫食いもある。だが、中央に押された領主印と、土地の境界を示す線はまだ読めた。北山の麓から村の西側へ伸びる細い線。その先には、かすれた文字で「共同水路」と記されている。
「湊さん、この線が分水所につながっているんですか?」
小林さんが地券をのぞき込んだ。
「その可能性は高いです。ただ、地券だけでは、分水所が今も使えるとは断定できません」
私は紙を裏返し、余白に残された書き込みを確かめた。所有者の名は何度か訂正されているが、水路だけは消されていない。土地が代替わりしても、村の共有設備として扱われていたらしい。
机の端には、別に見つかった書簡が置かれていた。こちらは地券より新しく、村の古い倉から出てきたものだ。私は封の切れた書簡を慎重に開き、折り目を押さえた。
「『北山の取水口、雪解け前に泥をさらうこと。東の堰は大雨の前に開けること』……やはり、分水所は農業用だけではなさそうです」
「大雨の前に開ける?」
田中さんが眉を寄せた。以前、石工や水路の補修に携わっていたという男だ。
「水を畑へ送るだけなら、雨の前に堰を開ける必要はありません。山から流れ込む水を別の道へ逃がし、村へ一気に押し寄せるのを防いでいたのかもしれません」
私は地券に手を置き、意識を集中させた。
視界の隅に、淡い文字が浮かぶ。
《北山共同地券》
《付随設備:取水路、分水槽、排水路》
《状態:詳細不明》
《残存価値:水流制御設備として再利用可能》
鑑定が示したのは、あくまで可能性だった。壊れていれば役に立たないし、水路そのものが土砂に埋もれているかもしれない。
「鑑定でも、再利用できる可能性は出ています。ただし、実物を確かめるまでは判断できません」
そう伝えると、村人たちはすぐには声を上げなかった。期待して外れれば、その落胆も大きい。これまで何度も、村を立て直す話が立ち消えになってきたのだろう。
やがて小林さんが、地券の北端を指で叩いた。
「俺の親父が、北山には近づくなって言ってたんです。崩れた石壁があるから危ないって。あれが分水所だったのかもしれない」
「私は子どもの頃、山の下で水の音を聞いた覚えがあります」
別の村人も口を開いた。
「今は枯れ沢みたいになってるけど、昔はもっと水が流れてた。畑の脇に、使われてない溝も残ってるよ」
一人が話し始めると、忘れられていた記憶が次々につながった。北山の斜面に並ぶ石。雨の日だけ水が流れる溝。誰も使い道を知らない木の閂。代替わりの間に、分水所の役目だけが伝わらなくなったらしい。
「見に行きましょう」
私が言うより先に、小林さんが立ち上がった。
「今からですか?」
「話してるだけじゃ、本当に使えるか分からないでしょう。湊さんも、そう思ってるんじゃないですか?」
私はうなずいた。
必要な道具を集め、村人たちと北山へ向かった。曇り空の下、道は湿っていた。村外れの畑を越え、雑草に覆われた細道を進む。途中からは道と呼べるほどの形もなくなり、木の枝を払いながら斜面を登った。
やがて田中さんが足を止めた。
「これだ」
茂みの奥に、半ば崩れた石壁が見えた。苔に覆われ、ところどころ土に埋もれている。近づいてみると、石壁の中央に細長い溝があり、その奥へ暗い水路が続いていた。
私は壁に手を触れ、鑑定を使った。
《北山分水所・外壁》
《材質:山石、石灰モルタル》
《損耗:中》
《基礎部:維持》
《補修可能》
「土台は残っています」
私の言葉に、田中さんがすぐ壁際へしゃがみ込んだ。浮いた石を軽く叩き、継ぎ目を確かめていく。
「確かに、全部を造り直す必要はなさそうだ。上の三段は崩れてるが、下は生きてる。石を積み直せば壁は戻せる」
「水路は?」
小林さんが奥をのぞいた。
入口は泥と落ち葉で塞がれていた。棒を差し込むと、思ったより深くまで入る。完全に崩落しているわけではない。
「まず入口を掘り出しましょう。ただし、一気に泥を取るのは危険です。奥に水がたまっていたら、急に流れ出すかもしれません」
田中さんが振り返った。
「二人で掘って、一人が下流を見る。石が動いたらすぐ離れる。それでどうだ?」
「お願いします。私は水路と壁を順番に鑑定します」
以前なら、私の判断にこれほど素早く人が動くことはなかった。だが今は、誰も私の力を疑う言葉を口にしない。田中さんは作業の段取りを考え、小林さんは村へ戻る者に縄と桶を頼んだ。他の村人たちも、斜面の枝を払い、足場を作り始めた。
私は地券から見つけた可能性を、皆が形にしようとしていることを実感した。
入口の泥を少しずつかき出すと、奥から冷たい空気が流れてきた。土の中には朽ちた木片が混じっている。
「これ、板じゃないか?」
小林さんが拾い上げた。
鑑定すると、分水槽の水門に使われていた樫材だった。腐食は進んでいるが、寸法は読み取れる。
「同じ大きさの板を作れば、水門を直せるかもしれません」
「樫なら、村の倉に乾かしてある材が残ってる」
田中さんの返事は早かった。
「ただ、金具は打ち直しだな。釘だけじゃ水圧に負ける。古い蝶番が見つかればいいが」
「倉と鍛冶場跡を探しましょう。残っている部品があれば、鑑定で使えるものを選べます」
作業を続けるうち、泥の下から平らな石板が現れた。石板は斜面に沿って奥へ延びている。私は表面の土を払い、刻まれた浅い溝を指でなぞった。
《導水路床板》
《破損:軽微》
《閉塞率:七割》
《推奨:上流側から段階的に除去》
「水路そのものは、かなり残っています」
そう告げると、周囲から安堵の息が漏れた。
「じゃあ、本当に水が戻るのか?」
小林さんが聞いた。
「上流の取水口が無事なら。ただ、ここだけ直しても水は来ません。まず全体の経路を確かめる必要があります」
「なら今日は入口を安全にして、明日、上流へ回ろう」
田中さんが決めると、皆がうなずいた。私ではなく、村人たち自身が次の手順を考え始めている。その変化が何より心強かった。
村から戻った者たちは、縄、つるはし、木槌に加え、倉に残っていた樫材まで運んできた。田中さんは材の端を削り、朽ちた水門板と重ねて寸法を比べた。
「幅はほぼ同じだ。厚みを少し落とせば使える」
私は樫材を鑑定した。乾燥状態は良く、ひびも少ない。水門の板として十分に耐えられると表示された。
「この材なら使えます。ただ、今日は仮留めまでにしましょう。水の流れを確認する前に閉じると、別の場所へ圧がかかるかもしれません」
「分かった。焦って壊したら元も子もない」
田中さんはすぐに作業を切り替え、崩れかけた壁を木材で支えた。私の鑑定結果を聞いて終わるのではなく、自分の経験と照らし合わせて判断している。その姿を見て、私はこの分水所を直すのは私ではなく、村全体なのだと思った。
昼前には、分水所の入口が人ひとり通れるほどまで現れた。崩れた石は分けて積み、再利用できるものには印をつけた。使えない木材は除け、残った寸法を田中さんが帳面に書き留めていく。
「湊さん、この石は?」
若い村人が欠けた石柱を示した。
鑑定すると、表面は傷んでいるが芯は割れていなかった。
「削り直せば使えます。捨てずに残してください」
「分かった。こっちにまとめておく」
少し前までなら、古い石も朽ちた木も、ただの廃材として捨てられていただろう。だが今は、一つずつ確かめ、使えるものを選び直している。
作業の合間、小林さんが泥のついた手を腰に当てた。
「湊さんが来なかったら、ここはずっと崩れた壁のままだったな」
「地券を残した人や、昔のことを覚えていた皆さんがいたから見つけられたんです。私一人では、場所さえ分かりませんでした」
「それでも、紙切れを見て山へ行こうとは思わなかったよ」
小林さんは笑い、再び鍬を握った。
曇っていた空が少しだけ明るくなった。雲の切れ間から差した光が、掘り出された石板を白く照らす。そのとき、水路の奥から小さな音がした。
ぽたり、と一滴。
続いて、泥の隙間から細い水がにじみ出した。
村人たちの手が止まった。誰も声を上げず、その一筋を見つめている。
私はしゃがみ込み、指先で水に触れた。冷たく澄んでいた。
分水所は、まだ死んでいない。
そう確信した瞬間、奥の暗がりで、何か重いものが低く軋んだ。




