第16話 八番杭の隣で流れ尽くせ
編集七番杭の手前から取り除いた最後の石が、水路脇へ転がった。せき止められていた水は、最初こそ細い筋となって石の間を抜けたが、やがて勢いを増し、濁りを巻き上げながら七番杭の先へ流れ込んでいく。朝日を受けた水面が、途切れ途切れに白く光った。「流れた……!」誰かの声に、周囲から安堵の息が漏れた。けれど、これで終わりではない。閉塞は解消したが、水が畑まで届かなければ意味がなかった。私は水路へ身を乗り出し、流れの速さと深さを目で追った。鑑定を使う。私は細い枝に指幅ごとの印を刻み、水路の底へ立てた。水深が落ち着くまで待ち、縄に結んだ木片を流して、七番杭から八番杭まで進む時間を数える。鑑定の数字だけに頼れば、私にしか判断できない。村人たちにも確かめられる方法を残しておきたかった。「この印より水が下がったら、どこかで漏れたか、上流で詰まった合図です。木片が途中で止まった時も同じです」村人たちは枝の印をのぞき込み、何度も確認していた。【水量:毎分二百八十リットル】
【七番杭通過後の損失率:一八パーセント】
【推奨損失率:五パーセント以下】胸の奥に浮かんだ喜びが、すぐに引き締まった。「湊さん、どうしました?」隣にいた阿部さんが、額の汗を腕で拭いながら尋ねた。「水は通りました。でも、七番杭を越えたところから減り方が大きいです。この先のどこかで漏れています」村人たちの顔に、わずかな緊張が戻った。せっかく石を取り除いた直後だ。落胆させたくはないが、見つけた問題を黙って進む方が危険だった。「まず、水がどこまで届くか確かめます。二人はここに残って、流れが急に変わったら合図してください。残りは私と一緒に、水路沿いを七番杭の先へ進みましょう」声をかけると、皆はすぐに動いた。以前なら、私の指示に戸惑う視線もあった。今は誰が縄を持ち、誰が鍬を運ぶかを相談しながら、自分たちで役割を決めている。その変化が嬉しかった。私の鑑定は、物や場所の状態を見抜ける。けれど、それだけで村を立て直せるわけではない。村人自身も気づいていない経験や得意なことを見つけ、それを生かすきっかけにできてこそ、この力には意味がある。七番杭から先の水路は、背の低い草に半ば覆われていた。長く水が流れていなかったため、底には乾いた泥がひび割れ、ところどころに枯れ枝が積もっている。私たちは枝をどけながら、流れを追った。八番杭までは問題なく進んだ。水は泥を押し流し、浅い窪みにたまりながらも前へ進んでいる。だが、八番杭を十歩ほど過ぎたところで、水面の幅が急に細くなった。「ここだ」私はしゃがみ込み、右岸の石積みに触れた。表面だけを見れば崩れてはいない。しかし鑑定すると、別の情報が浮かぶ。【水路側壁】
【内部空洞:あり】
【漏水量:毎分三十六リットル】
【原因:裏込め土の流出】
【崩落危険度:中】石の隙間から、ほんのわずかに水が吸い込まれている。土の下へ潜り、そのまま斜面の方へ逃げているらしい。「壁の内側が空洞になっています。ここを放っておくと、流れる水が土をさらに削って、石積みごと崩れるかもしれません」「外から石を詰めれば直るか?」鍬を持った村人が尋ねた。「隙間だけ塞いでも、内側が空のままです。いったん上の石を外して、土と小石を詰め直す必要があります」そう答えながら、私は周囲を見回した。補修には、水を一時的に止める板と、詰め戻しに使える粘り気のある土が必要だ。だが、この辺りの土は乾いて崩れやすい。阿部さんが水路の下手を指した。「少し先に、雨が降るとぬかるむ場所があります。あそこの土なら使えませんか」案内された窪地の土を手に取り、鑑定する。【灰褐色粘土】
【止水材適性:高】
【石灰混合時の耐久性:良】「使えます。むしろ、今ある材料の中では一番向いています」「なら、俺が運びます」阿部さんは即座に背負い籠を取った。「湊さん、俺にも何か手伝わせてくれませんか。石をどけるだけじゃなく、次に何をすればいいか覚えたいんです」その言葉に、私は一瞬返事を忘れた。「もちろんです。ただ運ぶだけじゃなく、土の詰め方も一緒に見てください。次に同じ傷みが出た時、私がいなくても直せるようにしたいんです」「分かりました」阿部さんは力強くうなずいた。私たちは七番杭の手前へ戻り、調整板を少し下げて水量を絞った。完全に止めると上流へ負担がかかるため、作業場所に流れ込む量だけを減らす。側壁の上部から石を三つ外すと、その下に拳二つ分ほどの空洞が現れた。予想以上に深い。村人の一人が息をのんだ。「こんなになっていたのか。外からじゃ分からんな」「水路は、壊れてから直すより、流れているうちに変化を見た方がいいです。水が濁る場所や、流れが急に細くなる場所があれば、早めに調べましょう」私は粘土に細かな砂利を混ぜ、空洞の奥へ押し込んだ。その様子を阿部さんが真剣な顔で見ている。「土だけじゃ駄目なんですか?」「土だけだと乾いた時に縮みます。小石を混ぜると隙間ができにくい。最後に平たい石で押さえれば、水にも削られにくくなります」説明すると、阿部さんは同じ手順で二つ目の空洞を埋めた。力任せに詰めるのではなく、奥から少しずつ押し込んでいる。手つきが丁寧だ。試しに、彼の扱っている道具へ鑑定を向けた。【作業精度:高】
【石積み補修適性:高】
【特徴:形状の違いを覚える能力に優れる】本人に直接使ったわけではない。それでも、作業の結果と道具の扱いから、阿部さんの向いている仕事が見えてくる。「阿部さん、この石の並びを覚えていますか?」「ええ。外した順番も、表を向いていた面も覚えています」「では、戻す作業を任せてもいいですか」阿部さんは驚いた顔をした。「俺が?」「はい。私より正確に戻せると思います」少し迷ったあと、阿部さんは石を一つ持ち上げた。向きを変え、角度を確かめてから元の位置へ据える。二つ目、三つ目も迷いがない。最後の石が収まると、石積みの線は外す前とほとんど同じになった。周囲から感心した声が上がる。「阿部、そんなことまで覚えていたのか」「昔、親父の石垣直しを手伝ってただけだ。役に立つとは思わなかったよ」阿部さんは照れたように笑った。「親父に習ったことなんて、もう忘れたと思ってました」石を押さえながら、阿部さんが小さくこぼした。「使わなかっただけで、なくなってはいなかったんですね」私が答えると、彼はしばらく黙ったあと、土で汚れた手を見た。「村がこんなになってからは、何を覚えていても無駄だと思っていました。直したところで、また壊れるって」「一度で全部は直せません。でも、壊れた場所を一つずつ減らせば、次に使えるものは増えます」「……そうですね。今日みたいに」その声には、作業を始めた時にはなかった張りがあった。「役に立ちます。水路の補修を続けるなら、石の形と組み方を覚えられる人が必要です」私がそう言うと、阿部さんは石積みを見つめたまま、ゆっくりとうなずいた。村を立て直し、自分を受け入れてくれた人々に報いたい。そのために必要なのは、私一人が答えを出し続けることではない。誰かの中に眠っていた経験を見つけ、村全体の力へ変えていくことだ。補修が終わる頃には、日は頭上近くまで昇っていた。私たちは調整板を元の高さへ戻し、再び水を流した。濁った水が七番杭を越え、補修した石積みへ近づいてくる。全員が黙って見守った。水は壁際でわずかに渦を巻いたが、吸い込まれることなく、そのまま下流へ進んだ。鑑定の表示も変わる。【七番杭通過後の損失率:六パーセント】完全ではないが、大きな漏れは止まった。「八番杭を越えたぞ!」下流から声が響いた。続いて、九番杭の方角からも合図が返る。水は今まで届かなかった区間へ進み、乾いた泥を濡らしていった。村人たちは笑い合い、肩を叩き合った。私はその輪の中で息を吐いた。閉塞を除くだけでは見えなかった次の傷みを見つけ、村にある材料で補修できた。そして阿部さんという、新しい担い手も見つかった。小さな成果だ。だが、昨日より確実に先へ進んでいる。「湊さん」阿部さんが、濡れた手を布で拭きながら言った。「次の補修も、俺にやらせてください。まだ一人じゃ無理でしょうけど、覚えます」「お願いします。私も、一緒に考えます」そう答えると、阿部さんは嬉しそうに笑った。その日の午後、私たちは九番杭までの水路を点検した。途中、底にたまった泥の厚さ、側壁の傾き、草の根が入り込んだ箇所を縄の結び目で記録した。八番杭と九番杭の間には小さな亀裂が三つあったが、すぐに崩れる状態ではない。阿部さんは亀裂の位置と石の形を板切れに描き写し、「明日はここから見ます」と自分から言った。水路の終点に近づくにつれ、乾いていた土が黒く濡れ始めた。遠くの畑で待っていた村人が、流れ込んだ水を手ですくい、何度も確かめている。まだ畑全体を潤す量ではない。それでも、長く空だった溝に水が戻った光景は、数字以上の意味を持っていた。大きな崩れはなかったが、九番杭の先で水路が二手に分かれていた。片方は畑へ向かう本線。もう片方は、草と土に埋もれ、丘の裏側へ延びている細い支線だった。古い管理図には記されていない。私は支線の入口に残った石板の土を払い、鑑定を使った。【旧第二取水路】
【接続先:不明】
【最終使用:約三十二年前】
【現在状態:閉鎖】
【内部水圧:上昇中】背筋に冷たいものが走った。使われていないはずの水路の奥で、圧力が高まっている。耳を澄ますと、土に埋もれた石の向こうから、低く鈍い水音が聞こえた。私は立ち上がり、村人たちを振り返った。「今日はここまでです。この先は、開ける前に中の状態を調べます」ようやく戻った水を、別の事故で失うわけにはいかない。九番杭の先に眠る古い支線を見つめながら、私は次に確かめるべき場所を心に決めた。




