第1話 桜は散るより疾く
桜明一刀流の剣技は、その“呼吸法”にある。
世に伝わる剣術の多くが刀の振り方や足の運び、構えの形と力の込め方を技の根幹に据えているのに対し、桜明一刀流ではそれらを学ぶより前に“己の呼吸”を整えることから修練を始める。
息を吸うときに胸を大きく膨らませてはならず、吐くときに肩を沈ませてもならず、鼻から取り入れた空気を下腹へ落としながら肺の動きを外から悟られぬほど穏やかに保つことを求められる。骨盤から背、肩から肘、手首から指先へ散らばろうとする力を一つの流れへまとめ、その流れを刀の切っ先まで途切れさせずに通すためだと“桜明一刀流の三代目当主・桜間宗十郎”は語る。
呼吸が乱れれば体の内側にある力は枝分かれし、腕は重くなる。足は地を蹴りすぎ、視線は相手の剣先へ縫いつけられ、ほんのわずかに生じた焦りが肩の上下や喉の動きとなって表へ現れる。
桜明一刀流では、そのわずかな乱れを“声”と呼ぶ。
相手が言葉を発していなくとも息を吸う前に胸郭が広がり、踏み込む前に前足の指が地をつかみ、斬りかかる前に瞳が狙う場所を一瞬だけ追うならば、体は攻撃の意思をいくつもの声として語っている。
剣を振る者が自らの攻撃を完全に隠し通すことは難しい。
腕が動くより先に肩が備え、肩が備えるより先に腰が沈み、腰が沈むより先に足裏が地をつかむ。足が地をつかむより前には息がわずかに変わる。息の変化よりさらに前には相手を斬ろうとする意思が視線の奥へ生まれる。
桜明一刀流が斬るのは、相手の肉体だけではない。
攻撃が形を得るより前、その者の内側に生じた“斬るという意思”へ自らの刃を差し込むのである。
宗十郎は、幼い娘へ何度もそう教えた。
「相手が息をする前に斬れ」
父からその言葉を聞くたび、薫は木刀を抱えたまま小さな眉を寄せていた。
「父上、それでは立ち合いが始まるより前に相手を斬ることになりませぬか」
「始まってからでは遅い」
「不意打ちではござらぬか」
「不意を見せるほうが悪い」
「それは剣士の教えというより、夜道に潜む曲者の考え方ではござらぬか」
「私は夜道には潜まん」
「場所の問題ではござらぬ!」
薫が踏み込みの要諦を尋ねれば「すっと入れ」と答え、刀を抜く際の手の使い方を尋ねれば「力まず、すらりと抜け」と答え、呼吸を乱さず戦う方法を尋ねれば口癖のように「息を乱すな」と答えた。
説明になっていないと娘から抗議されると、宗十郎は少し考えたあと決まって木刀を手に取った。
「見れば分かる」
「父上の剣は速すぎて見えぬのでござる!」
「ならば、打たれれば分かる」
「分かりたくない方法でござるな!」
薫はそう叫びながらも木刀を構え、結局は父の一撃を頭や肩に受けながら桜明一刀流の理を体へ刻み込んでいった。
呼吸を止めた瞬間、木刀が飛んでくる。
肩へ力を入れた瞬間、懐へ入られる。
切っ先へ視線を寄せた瞬間、別の方向から打たれる。
何度転ばされ何度畳へ頬をつけても、薫は翌朝になると稽古場へ姿を現した。宗十郎が何も言わず木刀を放ればそれを受け取り、昨日よりわずかに深く腰を落としながら昨日より静かに息を吸った。
そうして身につけた桜明一刀流を、薫は今、故郷から遠く離れた見知らぬ草原で用いようとしていた。
もっとも本人には、そこが故郷からどれほど遠い場所であるかさえ分かっていない。
「おい、そこの姉ちゃん」
背後から届いた太い声に、薫は腰へ差した白嬰刀から手を離した。
つい先ほどまで彼女は蘇った肉体の軽さに歓喜し、刀を振れば岩まで斬れるという不可思議な力に驚き、誰も見ていない草原の中央で「素晴らしいでござる!」と何度も声を上げていた。
その喜びが少々大きすぎたため、丘の向こうに潜んでいた者たちへ、自らの居場所を丁寧に知らせる結果となったらしい。
薫が振り返ると、草を踏み分けながら十人の男たちが近づいてきていた。
全員が武器を持っている。
四人は幅広の剣、二人は片刃の斧、二人は節くれだった棍棒を手にし、後方には弓を構えた男が一人、その中央には一際大きな体を革鎧へ押し込め、刃の欠けた大剣を肩へ担ぐ髭面の男が立っていた。
彼らの防具は形も材質も揃っていない。鉄板を革紐で無理に継ぎ合わせた胸当て、深い傷の残る肩当て、誰かから奪ったとしか思えない大きさの合わぬ籠手。どれも手入れは雑であったものの、傷の位置には実戦を重ねた痕跡があり、腰を落とした立ち方にも武器を扱い慣れた者の重さがあった。
薫は彼らの顔を一人ずつ眺めた。
にやついた口元。
値踏みするように細められた目。
白嬰刀の鞘と薫の顔を交互に往復する視線。
善意から近づいてきた者たちではない。
「先ほどから騒いでいたのは、お前か」
髭面の男が大剣の腹を肩へ打ちつけながら尋ねた。
「騒いでいたつもりはござらぬが、岩を斬ったり、走り回ったりしていたのは拙者にござる」
「岩を斬った?」
「うむ。拙者も驚いた」
薫はそう答え、少し離れた場所に転がる大岩へ目を向けた。
岩は上下へ分かれ、上半分だけが地面へ滑り落ちている。切断面は荒れておらず、丁寧に磨き上げられた板のように滑らかであった。
男たちの何人かが、岩と薫の腰の刀を見比べた。
「頭領、あの刀、魔剣かもしれませんぜ」
「上等な品なら、武器商に売れる」
「女も珍しい顔立ちだ。まとめて持って帰れば、今夜は宴だな」
囁くつもりもないらしい声量で、彼らは好き勝手に相談を始めた。
薫はしばらく耳を傾けていたものの、話の内容が次第に物騒なものへ傾いていくにつれ、困ったように首を傾げた。
「お主ら、一つ尋ねてもよろしいか」
「ああ?」
「もしや、賊でござるか」
一拍の沈黙が落ちた。
男たちは互いの顔を見合わせ、やがて一斉に笑い始めた。
「見りゃ分かるだろうが!」
「分からぬゆえ、尋ねたのでござる」
「俺たちは赤土の牙だぞ。この辺りじゃ、俺たちの旗を見ただけで商人が荷を捨てて逃げる」
「赤土の牙」
薫は男たちをもう一度見回した。
赤い装束を着ている者はいない。牙を首飾りにしている者も見当たらず、頭領の髭だけが強いて挙げれば獣の毛並みに近かった。
「どなたが赤土で、どなたが牙なのでござるか」
「そういう意味じゃねえ!」
「では、どのような意味で」
「知らねえよ! 昔からそういう名前なんだ!」
髭面の男が怒鳴り、こめかみに太い血管を浮かべた。
薫は素直に頷いた。
「由来を知らずに名乗っておるのか。少々、締まりに欠ける話でござるな」
「こいつ、俺たちを馬鹿にしてやがるのか」
「そのつもりはない。見たままを申しただけにござる」
「そっちのほうが腹立つんだよ!」
薫に悪意はなかった。
相手を怒らせようとも、挑発しようとも考えていない。
幼い頃から思ったことを率直に口にするたび門弟たちを黙らせ、父からは「余計な一言が多い」と注意されてきたものの、その父もまた他者の顔色を読んで言葉を選ぶことが不得手であったため、親子そろって改善には至らなかった。
棍棒を持つ男が前へ出た。
「姉ちゃん、命が惜しけりゃその刀を置け。それから俺たちについて来い」
「どこへ連れて行くのでござる」
「いいところだ」
「宿であろうか」
「宿よりいい場所だ」
「食事は出るか」
「買い手が決まるまでは、死なねえ程度にな」
「買い手?」
薫の表情から、わずかに柔らかさが消えた。
「拙者を売るつもりでござるか」
「ようやく分かったか。素直にすれば顔には傷をつけねえ。お前みてえな珍しい女は高く売れるからな」
男が歯を見せて笑う。
その歯の隙間に黒い汚れが詰まっているのを、薫は妙に冷静な気持ちで眺めていた。
彼女は白嬰刀の柄へ手を添えなかった。
両腕を自然に下ろしたまま、右足だけを半歩後ろへ引く。
「承知した」
髭面の頭領が満足そうに鼻を鳴らした。
「物分かりがよくて助かるぜ」
「お主らが、遠慮なく打ち据えてよい悪党であることは理解した」
男たちの笑いが途切れた。
風が草原を渡り、薫の濃紺の袖と白嬰刀の淡紅色の下緒を静かに揺らす。
「一応、確かめておきたいのでござるが、刀を捨て、自ら役人へ出頭する気はないか」
「役人?」
「番所でも奉行所でもよい。お主らを裁く者のところへ参られよ。そうすれば、骨を折る本数も少なく済む」
「骨を折る?」
「峰打ちで済ませるという意味にござる」
「お前が俺たちを?」
「うむ」
「一人で?」
「数を数え違えていなければ、拙者は一人でござるな」
頭領は大剣を肩から下ろし、切っ先を地面へ突き立てた。
刃が土へ沈み、乾いた塊が左右へ弾ける。
「この女を囲め」
その一言で、男たちの動きが変わった。
正面から雑然と近づいていた十人は左右へ広がり、薫を中心に半円を作った。剣士が近距離を固め、斧と棍棒を持つ者が両脇へ回り、弓兵は射線を確保できる後方に残る。頭領は中央から動かず、薫がどの方向へ逃げるかを見定めるように目を細めている。
場当たり的な集団ではない。
数の利を用いて獲物を追い詰めることに慣れている。
薫はその配置を一目で把握し、静かに呼吸を整えた。
鼻から吸った空気を胸へ溜めず、下腹へ沈める。
背中を広げ、骨盤の内側へ重さを落とし、肩、肘、手首から余分な力を抜く。膝は深く曲げず、どの方向へも動ける程度に緩め、足裏全体で地面の硬さと草の湿りを確かめる。
視線は誰か一人へ置かない。
頭領の胸元を中心に捉えながら、左右の武器、弓兵の指先、背後へ回ろうとする者の靴先を、広い視野の中へ同時に収める。
一点を鋭く見つめれば、その一点以外の動きが遅れる。
複数の相手と戦う際に必要なのは相手の顔や武器の細部ではなく、全身が作る大きな流れを捉えることだった。
肩が上がる。
肘が開く。
腰が沈む。
踵が浮く。
それらの変化は、攻撃そのものではない。
攻撃が生まれる前に漏れ出す“声”である。
薫の耳に、男たちの声なき声が次々と届いた。
右側の棍棒使いは、見た目ほど落ち着いていない。
握った指へ力が入りすぎており、棍棒を振り上げる前から前腕が硬くなっている。呼吸も浅く、息を吸うたび右肩だけが持ち上がるため、打撃は右上から左下へ落ちる。
左へ回った剣士は、薫が棍棒を避ける方向へ刃を合わせようとしている。
視線が薫の腰から左足へ何度も移り、踏み込みの機会を測っている。
弓兵はまだ矢を放たない。
仲間へ当てることを恐れ、薫の動きを止めてから射るつもりらしい。
「やれ!」
頭領の怒号が、風の渡る草原を低く震わせた。
「囲め! 殺すな、動けなくしろ!」
その命令を待ちきれなかったように、薫の正面左手にいた棍棒使いが真っ先に飛び出した。
薫との距離は、およそ三間。
男は熊のように厚い胸を膨らませ、湿った息を大きく吸い込む。踏み出した右足が草の根を抉り、踵の下から黒い土が飛び散った。
両手に握られた棍棒は、成人の腕ほどの太さがある。
節くれだった樫の表面には古い血が黒くこびりつき、先端には打撃のたびにめくれた木片が牙のように突き出していた。
男はそれを頭上高く振り上げる。
肩が盛り上がり、肘が開き、腰が深く沈んだ。
一撃で頭蓋を砕くつもりなのだろう。
だが、男の右足が地面を離れるよりも早く薫の体はすでに動き始めていた。
少なくとも、薫自身の内側では。
外から見れば、彼女は依然として草原の中央へ静かに立っている。
背筋は真っすぐに伸び、肩の高さも変わらない。顎はわずかに引かれ濃紺の袴も風に揺れているだけで、踏み出そうとする気配はどこにもなかった。
薫は地面を蹴らない。
腰を落としもしない。
ただ己の重心を、爪先より半寸だけ前へ預けた。
人の体は、支えを失えば倒れる。
薫はその自然な落下へ逆らわず、崩れ始めた体の下へ左足を滑り込ませた。
一歩。
さらに、もう一歩。
足裏は草を踏みしめず、その先端だけを撫でるように進む。踵は高く浮かず、膝も上下しない。上体を一切揺らすことなく倒れかけた体を寸前で足が受け止め、受け止めた瞬間には再び次の落下が始まっている。
桜間家に伝わる桜明一刀流は、脚力に任せて間合いへ飛び込むことを良しとしない。
強く地を蹴れば、足音が生まれる。
腰が浮けば、頭の位置が動く。
袖や袴が大きく揺れればそれだけで攻撃の意志が相手へ伝わる。
動き出しを見せてから速く進むのでは遅い。
相手に動いたと悟らせぬまま、そこにあった距離だけを消し去る。
倒れゆく体を、足が絶えず拾い続ける無拍子の歩法。
桜明一刀流歩法――《桜渡り》。
棍棒使いの目には、薫はまだ三間先へ立っているように映っていた。
頭上に掲げた棍棒へ力を集め、踏み込みと同時に少女を打ち潰そうとする。
――ところが、ほんのわずかな視線の動きの下で、遠くにあったはずの薫の顔が男の胸元へ触れそうな位置にあった。
「な――」
男の目が見開かれる。
驚愕が声として喉を抜けるより先に、薫の左手が動いた。
腰に差した白嬰刀。
その鞘を、左の親指と掌で斜め上へ押し上げる。
漆塗りの鞘の中央が棍棒を振り下ろそうとしていた男の右肘、その“内側”へそっと触れた。
打撃と呼べるほどの強さではない。
乾いた音さえ鳴らなかった。
薫は男の腕を止めようとはしなかった。
すでに始まっていた振り下ろしの力へ逆らわず、肘が折れ曲がる方向をほんのわずか内側へ導いただけである。
それで十分だった。
男が全身で生み出した力は、支えを失った肘へ一気に集中した。
「ぐっ!」
関節が不自然に畳まれ、棍棒の軌道が頭上から大きく逸れる。
重い樫の棒が薫の左肩を掠め、脇の草を叩き潰した。
地面が鈍く揺れる。
薫はその衝撃が響き終わるより早く、右足を男の右足首の外側へ添えた。
蹴るのではない。
逃げ道を塞いだだけだ。
同時に薫は左肩を男の胸骨の下へ差し込み、前へ流れた巨体を斜め上へ押し返す。
棍棒を振り下ろすために上から下へ落ちていた力。
踏み込みによって前へ進んでいた力。
そして、足首を固定されたことで行き場を失った体重。
三つの力が男の腰を中心に衝突した。
百斤を優に超える巨体が、信じがたいほど軽々と地面を離れた。
「ぐおおっ!?」
男の視界が反転する。
薫の肩越しに投げ出された体は半回転しながら宙を滑り、その先で左方から斬り込もうとしていた片手剣の男へ背中から激突した。
「ぶっ――!」
剣士の顔から空気が押し出される。
二人分の体重が絡み合い、片手剣が宙へ弾かれた。鈍く光る刃が回転しながら草むらへ突き刺さり、その傍らを男たちが団子のように転がっていく。
一度。
二度。
三度。
最後には棍棒使いが剣士の上へ覆い被さり、二人揃って白目を剥いた。
薫はそちらへ視線すら向けなかった。
左右から迫る気配のうち、最も重く、最も殺意の濃いものがすでに正面へ踏み込んでいたからだ。
斧使いである。
棍棒使いの巨体を越えて現れた男は左右の手で長柄の戦斧を握り、薫との距離を一息に詰めていた。
刃渡りは一尺を超える。
半月形の刃には無数の欠けがあり、研がれた刃先だけが白く濁った陽光を返している。
「小娘がああっ!」
男は叫びながら戦斧を頭上へ掲げた。
柄の末端まで両手を滑らせ、刃の重さを最大限に生かす構え。
肩から腕だけで振るのではない。
背筋を反らして腰を捻り、沈めた膝を伸ばしながら全身の力を斧頭へ送り込んでいる。
まともに受ければ、刀ごと体を断ち割られる。
男は薫の額から胸、腹、股下までを一本の線として見定め、その中心へ巨大な刃を落とそうとしていた。
しかし薫の瞳は斧を追っていなかった。
刃が動き始めてから軌道を読むのでは遅い。
見ているのは、刃を動かす人間の体である。
胸郭の膨らみ。
肩の傾き。
腰の捻れ。
膝の向き。
足裏の圧。
男の左肩が、わずかに沈んだ。
右の腰骨が前へ出る。
後ろ足となった左足の踵が、草の葉一枚分だけ浮いた。
その三つを見た時点で、斧が通る軌道はすでに決まっている。
薫の頭上から、右腰の外側へ抜ける袈裟の線。
刃が落ちるより前に、薫はその線から身を外した。
大きく跳ぶ必要はない。
後ろへ退けば、次の攻撃を招く。
深く沈めば、斧の軌道が変わった際に対応できない。
薫は右足を半足だけ外側へ運び、腰を正面から斜めへ切った。
動いた幅は、わずか三寸。
刃の厚みより、ほんの少しだけ多く中心線を譲ったにすぎない。
轟、と空気が裂ける。
戦斧の刃が、薫の眉間を掠めるように通過した。
磨きの甘い鉄の表面が陽光を鈍く弾き、その冷たい気配が鼻先を撫でる。結いきれず頬へ垂れていた黒髪が風圧に煽られ、数本だけふわりと浮き上がった。
しかし、刃の軌道上に薫の姿はない。
斧が額を割る寸前、薫は左足を半歩だけ引き、上体を薄紙一枚ほど後方へ逃がしていた。大きく跳び退いたわけでも慌てて身を伏せたわけでもない。刃が通るために必要なだけの空間を譲り、自らの輪郭から死の軌道を滑り落としたのである。
薫を捉え損ねた戦斧は勢いを殺せぬまま振り下ろされ、その足元へ深々と食い込んだ。
湿った土が爆ぜた。
刃の両側から黒い泥と白い草の根が噴き上がり、千切れた葉が細かな渦を巻いて宙へ散る。重い衝撃は地中を走り、薫の草履の裏を低く震わせた。
「取った――」
斧使いが勝利を確信したのは、刃が地面へ食い込むその直前までだった。
手応えがない。
肉を裂いた柔らかな感触も、骨へ刃が噛み込む鈍い抵抗も伝わってこない。両腕には斧が土を抉った衝撃ばかりが返り、握った柄が痺れるほど震えている。
「な――」
外した、と理解したときには遅かった。
男は全身の重みを斧へ預けていた。両腕は伸びきり、肩は落ち、上体は地面へ吸い寄せられるように前へ流れている。腰は浮いて背中は丸まり、首の後ろから右肩にかけてが無防備に晒されていた。
重い武器は、当たれば強い。
しかし振り切った力が大きいほど、外した者の体は深く崩れる。斧を引き戻すにはまず地面へ食い込んだ刃を抜き、流れた重心を足元へ戻さなければならない。その一連の動作を終えるまで、男は武器を持たぬ者よりもなお無防備だった。
薫は、すでに男の右側面へ回り込んでいた。
半身を保ったまま左手で鞘の中央を支え、右手を白嬰刀の柄へ添える。だが、鯉口を切ることはしなかった。
この者たちを殺す必要はない。
薫は腰前で刀を鞘ごと返し、鞘尻を斜め上へ向けた。
狙うのは頭蓋ではない。頸椎でもない。首の付け根から右肩へ走る筋肉、その内側にある全身の力が集まりやすい“一点”だった。
「失礼つかまつる」
言葉と同時に、薫の手首が短く返った。
白嬰刀の鞘尻が男の首筋へ斜めに落ちる。
ぱしん、と乾いた音が鳴った。
骨を砕くほどの力は加えていない。薫自身の腕力だけならむしろ小枝で肩を叩く程度の一撃である。
男は全体重を乗せて斧へ倒れ込んでいる最中だった。
薫はその勢いを正面から押し返さず、首を支える筋肉の境目へ横合いから衝撃を差し込んだ。前へ流れていた男自身の重みが、鞘尻の一打を何倍にも膨らませる。
「が……っ」
男の喉から、潰れた息が漏れた。
見開かれた目が虚空を泳ぐ。何をされたのか理解するより早く肩から先の力が抜け、戦斧の柄を掴んでいた両手がずるりと滑った。
膝が折れる。
男は地面へ突き刺さった斧へ縋ろうとしたが、腕はすでに自らの体重を支えられない。柄へ胸を預けたまま奇妙な格好で数瞬固まり、やがて斧もろとも横へ傾いた。
巨体が刈り倒された大木のように草を押し潰す。
どさり、と地面が鳴った。
薫の周囲では戦斧が巻き上げた土と草の葉が、まだ細かな雨のように降り続いていた。風に運ばれた一枚の葉が肩へ触れたが薫はそれを払おうともせず、白嬰刀を腰元へ静かに戻した。
棍棒使いが踏み荒らした草。斧が穿った黒い穴。互いの手足を重ねて倒れている三人の賊徒。
その中心に立つ薫だけが戦いの始まる前とほとんど変わらぬ姿勢を保っていた。
息は乱れていなければ、肩も上下していない。黒髪もわずかに頬へ乱れた程度である。
ただ一つ濃紺の袴の裾に、斧が跳ね上げた泥が小さく付着していた。
薫はそれを見下ろし、わずかに眉を寄せる。
「むう……洗えば落ちるでござろうか」
命を奪い合うはずの襲撃の最中、彼女が最も深刻に案じていたのは、異世界へ来て早々替えのない袴を汚してしまったことであった。
その一言を聞いた残りの山賊たちの間に、言い知れぬ沈黙が落ちた。
三人を瞬く間に倒した女が、自分たちではなく泥染みを気にしている。
侮られているのか。
それとも、初めから脅威とすら思われていないのか。
誰も判断できなかった。
「な、何をぼさっとしてやがる!」
少し離れた場所で弓を構えていた男が、恐怖を振り払うように声を荒らげた。
倒れた仲間と薫との間には十数歩の距離がある。近づけば同じように倒される。ならば手の届かぬ場所から射抜けばよい。
弓兵は矢筈を弦へ掛け、薫の背へ狙いを定めた。
薫はまだ袴の泥を見下ろしている。
こちらを見ていない。
男の口元に、歪んだ笑みが浮かんだ。
左足を前へ置き、弓を持つ腕を伸ばす。右肘を高く引き上げ、矢羽が頬へ触れるまで弦を絞る。張りつめた弓身が軋み、蓄えられた力に耐えかねたように細かく震えた。
薫が袴から顔を上げようとした、その瞬間だった。
弦が鳴った。
びょう、と鋭い音が空気を裂く。
放たれた矢は草の穂を揺らしながら一直線に走り、薫の左側頭部を射抜く軌道へ乗った。
薫は弓兵へ顔を向けていなかった。
しかし視界の端ではすでに、男の右肩が後方へ開き、左腕が伸び、耳元まで引かれていた指が弦を離すところまで捉えていた。
矢が飛んでから避けたのではない。
弓の傾き、左手の高さ、右肘の開き、指先から力が抜ける瞬間。それらを読み取り、矢がまだ弦の上にあるうちに、その進路から自らの頭を外したのである。
薫は首を右へ、ほんのわずかに傾けた。
矢が左頬のすぐ脇を駆け抜ける風。
空気を巻き込む鋭い鋒が肌を撫で、頬へ垂れていた黒髪を数本だけ巻き上げる。矢はそのまま後方へ抜け、湿った地面へ斜めに突き刺さった。
矢羽が、ぶるぶると震えている。
弓兵の口が、ゆっくりと開いた。
「外した……?」
薫は答えなかった。
すでに男へ向かって歩み始めていたからである。
いや、弓兵には歩いているようにすら見えなかった。
薫は上体を上下させず、強く地面を蹴ることもなく、草を踏み荒らす音さえ立てない。足裏で地面を後方へ送るようにして、滑らかに距離を縮めていく。
静かな動きだった。
だからこそ、その速さを認識できない。
弓兵は我に返り、二本目の矢を取ろうとした。
右手を背負った矢筒へ回す。指先が矢羽へ触れる。一本を摘まみ、持ち上げようとする。
そのときには十数歩離れていたはずの薫が、すでに男の目の前へ立っていた。
「ひっ……!」
弓兵の喉が引きつった。
薫は弓の向こうから男の構えを眺め、困ったように眉を寄せる。
「お主、弓を引く際に右肩が開きすぎておる」
「は……?」
「肘も少々高い。あれでは放つ瞬間に手元が外へ逃げ、狙いより左へ逸れやすくなるでござる。もう半寸ほど肘を下げ、腕のみで引かず、背を広げるよう心がけられよ」
弓兵は矢筒へ手を突っ込んだ姿勢のまま、呆然と薫を見つめた。
「なんで今、俺に弓の指導をしてるんだ……」
「悪いところが見えると、つい申したくなるのでござる」
薫は申し訳なさそうに眉尻を下げると、白嬰刀の鞘尻を男の鳩尾へ軽く当てた。
そこから押し込んだ距離は、指一本の幅にも満たない。
あまりの鋭い動きに弓兵が恐怖に息を呑み、肺へ空気を入れようとしたその瞬間へ正確に衝撃を差し込んでいる。
「――っ」
男の腹が大きく凹み、吸いかけた息が一気に押し出された。
悲鳴すら出ない。
弓が手から滑り落ち、両膝が草の上へ沈む。男は口を開いたまま何度も息を吸おうとしたが、横隔膜が痙攣し、空気は喉の奥でひゅうひゅうと鳴るばかりだった。
やがて上体を折り、額を地面へつけるようにして倒れ込む。
最初の男が武器を振り上げてから、弓兵が膝をつくまで三度の呼吸も終わっていなかった。
残った山賊たちは武器を構えたまま、動くことができなかった。
彼らの目には、薫の動作が一つながりのものとして映っていない。
棍棒が振り上げられたとき、薫は男の正面にいた。次に瞬きをしたときには、棍棒使いが宙を舞っていた。
戦斧が落ちたとき、薫は刃の真下にいた。土が弾けたあとには、斧使いが地面へ倒れていた。
弓が鳴ったとき、薫は射手から十数歩も離れていた。矢が地面へ突き刺さったときには、すでに弓兵の懐へ入り込んでいた。
移動の始まりが見えない。
どちらの足で踏み込んだのか分からない。
腰が沈んだ瞬間も重心が前へ移った気配も、体の向きが変わった境目さえ捉えられない。
ただ結果だけが、彼らの視界へ唐突に置かれていく。
桜明一刀流は、単純な速度のみを追い求める剣ではない。
どれほど脚が速くとも、地を蹴る前に腰が沈めば相手は動きの始まりを悟る。どれほど腕を速く振ろうとも、肩や肘へ力が集まれば刃の来る場所を読まれる。
速さとは、距離を短い時間で移動することだけを指すのではない。
人が相手の速度を認識できるのは、動き始めた場所と動き終えた場所の双方を目で追えたときである。
ならば、始まりを消せばよい。
予備動作を削り、呼吸の揺れを鎮め、足裏が地を押す瞬間すら相手の意識から外す。
始まりが見えなければ、残るのは終わりだけになる。
枝に咲いていた桜が、風に揺れている。
目を細めたほんのわずかな間に、花は枝から消え、いつの間にか足元へ落ちている。
いつ離れたのか。
どのような軌道で舞ったのか。
どれほどの速さで落ちたのか。
その途中だけが、見る者の記憶から抜け落ちる。
桜明一刀流が作り出す間合いは、そうした認識の空白によって成り立っていた。
「ば、化け物……」
剣を握る男が、血の気を失った唇から声を絞り出した。
薫は目に見えて傷ついた表情を浮かべる。
「失礼な。拙者は見てのとおり、花も恥じらう乙女にござる」
「岩を斬って、矢を避けて、十歩以上を一瞬で詰める乙女がどこにいる!」
「ここにおる」
「そういう意味ではない!」
男は半ば悲鳴を上げながら剣を突き出した。
切っ先が細かく震えている。膝は内側へ入り、腰は後ろへ引け、呼吸は喉元だけで浅く途切れていた。
恐怖によって、体の連なりが失われている。
本来〈突き〉は後ろ足が地を押し、腰が前へ進み、その力が肩、肘、手首を通って切っ先へ伝わっていく。だが今の男は、足と腰と腕が別々に動いていた。下半身は逃げようとし、上半身だけが剣を前へ出そうとしている。
薫には、その突きがひどく遅く見えた。
「近づくな!」
「刀を捨てれば、これ以上は打たぬ」
「来るなあああっ!」
薫の言葉を聞く余裕もなく、男は剣を胸の高さへ置いたまま突進した。
狙いは薫の胸である。
本人は真っすぐ突いているつもりなのだろう。しかし、震える手首のせいで切っ先は左右へ揺れ、足の運びも乱れている。今のままでは、どこへ刺さるのか本人にすら分からない。
薫は白嬰刀の鍔へ親指を添えた。
わずかに押す。
かちり、と小さな音がして鯉口が開き、白い刀身が一寸ほど姿を覗かせた。
陽光が刃へ反射し、鋭く細い光となって男の両目を横切る。
薫は右足を音もなく滑らせ、腰を沈め、右手を柄へ添えた。
刀はまだ抜いていない。
斬撃も放っていない。
それでも男の目には、白い刃が鞘を走り、自らの首を横一文字に通り抜けたように映った。
「あ……」
男の手から剣が落ちた。
からん、と草の上で刃が跳ねる。
男は両手で首を押さえ、尻から地面へ崩れ落ちた。
「斬られた……俺の首が……」
「斬っておらぬ」
「嘘をつけ!」
「刀はまだ鞘の中にござるぞ」
薫は柄から手を離し、親指で開いていた鯉口を閉じた。
男は何度も自分の首を撫で回した。
皮膚に傷はない。指先にも血はつかない。首は胴とつながったまま、確かに動いている。
「何を……した……」
「お主が、拙者の抜刀を先に思い描いたのでござる」
刀へ手を掛ける。
腰を落とす。
爪先を相手へ向ける。
刃の反射を視界へ差し込む。
そこへ、研ぎ澄ませた殺気を重ねる。
そうすれば恐怖に支配された者の意識は、次に起きるはずの斬撃を自ら作り上げる。
鞘から刃が走る光景。
冷たい刃が首へ触れる感触。
皮膚が裂け、血が噴き出し、頭が胴から離れる未来。
実際には何一つ起きていない。
しかし死への恐怖が強い者ほど、予測した斬撃を現実のものとして受け取ってしまう。
桜明一刀流――夢桜。
宗十郎は若い頃、街道を荒らす大勢の賊を相手にこの技を用い、半数以上を刀へ触れることなく逃走させたという。
その話を聞いた幼い薫は、素直な疑問として「半数も逃がしたのでござるか」と口にし、宗十郎を丸一日不機嫌にさせた。
今の薫には、父が斬らずに済ませた理由が少しだけ分かる。
もっとも、宗十郎が慈悲深かったのか、大勢を斬って刀を手入れする手間を嫌っただけなのかについては今も確信が持てなかった。
首を押さえた男は立ち上がれない。
残った四人は、髭面の頭領を中心に背中を寄せ合った。
頭領は幅広の大剣を握り、その右には新たな斧使い、左右の後方には剣を持つ男が一人ずつ立つ。互いの死角を武器の間合いで埋め、薫がどこから踏み込んでも、複数の攻撃を同時に浴びせられる陣形だった。
薫はわずかに目を細めた。
数の使い方としては悪くない。
桜渡りで一人の懐へ入れば、別の者が側面から斬り込める。背後へ回れば後列の剣士が応じる。一人へ意識を寄せれば、残る三人が間合いを詰める。
形だけを見れば、先ほどまでよりは厄介であった。
だが、呼吸が揃っていない。
頭領は怒りを腹の底へ押し戻すように、鼻から吸った息をゆっくりと臍下へ沈めていた。握り締めた大剣の柄が革を軋ませ、盛り上がった前腕には太い筋が浮かんでいる。右手の斧使いは対照的に呼吸が荒く、鼻孔を膨らませるたび獣じみた息が漏れ、命令を待ちきれぬ爪先はすでに薫へ向いていた。左後方の剣士は恐怖に喉を塞がれ、息を吸ったまま肩を強張らせている。右後方の男だけは平静を取り戻そうとしていたが、胸元が短く上下するたびに焦りを隠すための浅い呼吸がかえって目立っていた。
四人が同じ合図で武器を振るおうとも、息の深さも、重心の置き場も、恐怖の形も異なる。同時に動いたつもりであっても、肉体は必ず心の乱れに引かれ、刃が届くまでに半拍にも満たないずれを生む。そのわずかな空白こそ、薫が刃の檻を抜けるための道であった。
「囲め! 一斉にかかれ!」
頭領の怒号が草原を震わせた。
四人は薫を中心に、弧を描くように距離を広げた。正面には頭領の大剣。薫の右には斧を担いだ巨漢。左斜め後方と右斜め後方には、それぞれ片手剣を構えた男が回り込む。踏み荒らされた草が四方へ倒れ、薫の足元だけが緑の小島のように残された。
彼らは背後を断ち、左右を塞ぎ、正面から圧し潰せる陣形を作ったつもりなのだろう。だが、互いの間隔は均等ではない。斧使いは前のめりになりすぎ、左後方の剣士は頭領から離れることを恐れて一歩内側へ寄り、右後方の男だけが慎重すぎるほど距離を残している。四方から囲んだはずの輪は、すでに歪んでいた。
薫は刃ではなく、四人の足元を静かに見回した。踏み込む方向、踵の浮き方、爪先の角度。それらを確かめると、緊張感の欠片もない柔らかな微笑みを浮かべる。
「拙者一人を相手に、ずいぶんと慎重になられた」
「黙れ!」
「先ほどまでは、いい女だと喜んでおられたではござらぬか」
「今は一刻も早く、お前を倒して帰りてえんだよ!」
「気が変わるのが早いでござるな」
「やれ!」
最初に地面を蹴ったのは、薫の右にいた斧使いだった。
頭領の合図に従ったつもりではあったのだろう。だが、怒りで浅くなった呼吸は、命令を聞くより前に肉体を動かしていた。巨体が一歩踏み込むと、草を押し潰した右足の下から湿った土が跳ねる。両手に掲げた斧は大きく弧を描き、薫の鎖骨から胸までを一撃で叩き割る軌道を走った。
左後方の剣士は、その巨体が飛び出したのを見て遅れたと悟った。自分だけ取り残されれば、薫の次の標的になる。恐怖に背を押され、斧使いを追うように大股で間合いへ踏み込む。剣は右脇へ引かれ、薫の左腹を横薙ぎに裂く構えである。
頭領は二人の踏み込みへ合わせて腰を沈め、大剣を頭上へ振りかぶった。刃渡りの長い鉄塊が陽光を遮り、薫の顔へ一瞬だけ影を落とす。
右後方の男だけは、三人の動きを確認してから剣先を薫の背へ向けた。片足を送り、肘を畳み、味方の刃を避ける細い隙間へ突きを通そうとしている。
四人は同時に襲いかかったつもりでいた。
しかし薫の目には、それぞれの動きが一つの濁流としてではなく、順序を持った四本の線として映っていた。
最初に右から斧。
半拍遅れて左から横薙ぎ。
続いて正面から大剣。
最後に右後方から背を狙う突き。
薫は細く息を吐き、白嬰刀の柄へ右手を添えた。親指で鍔を押し、鯉口をわずかに切る。右足の踵を紙一枚ほど浮かせ、背筋を伸ばしたまま骨盤を沈める。肩を落とし、肘から余計な力を抜くと、全身が風に揺れる柳のように静まった。
斧の刃が薫の右肩へ食い込む寸前、白嬰刀が鞘を走った。
澄んだ抜刀音が、鈴を一度だけ鳴らしたような余韻を残し、広い草原へ薄く伸びていく。
薫は斧を刃で受け止めなかった。
斧の一撃には、男の腕力だけではなく、肩の回転、腰の落下、巨体の重さまでもが乗っている。真正面から受ければ、刀が折れずとも、手首から肩へ衝撃が突き抜ける。ゆえに薫は、白嬰刀の鎬を斧の柄へ斜めに添えた。
力に逆らわず、刃が進みたがっている方向へ、ほんの指二本ぶんだけ道を開ける。
白嬰刀と斧の柄が触れた瞬間、薫は右足を半歩引き、腰をわずかに回した。斧の軌道は白刃の傾斜に沿って外側へ滑り、薫の肩を砕くはずだった鉄の塊は、刀身を擦りながら右へ大きく逸れていく。
その先には、左から斬り込んできた剣士がいた。
「なっ――」
斧使いも剣士も、互いの武器が迫っていることに気づいた。だが、すでに腕力だけで止められる距離ではない。斧は落下の勢いを失わず、剣士の横薙ぎもまた、腰の回転に引かれて進み続けていた。
斧の側面と剣の腹が激突した。
耳を刺す金属音が弾け、橙色の火花が二人の顔の間へ散った。斧使いの両腕は衝撃で外へ流され、剣士は手首を痺れさせながら大きくよろめく。互いの武器に進路を塞がれた二人の間へ、人一人が通れるほどの空間が生まれた。
薫はそこへ身を沈めた。
斧の柄の下を抜け、剣士の胸元すれすれを滑り、二人が体勢を立て直すより先に、正面の頭領との間合いを奪う。袴の裾が倒れた草を撫で、黒髪が一筋遅れて背を流れた。
頭領の大剣は、すでに振り下ろされていた。
分厚い刃が風を押し潰し、低い唸りを伴って薫の頭上へ落ちてくる。切っ先には腕力と体重に加え、長い刀身が生む遠心力まで乗っていた。まともに受ければ、白嬰刀が耐えたとしても、薫の細い腕や肩には無視できぬ負担が残る。
薫が見たのは刃先ではない。
頭領の手元だった。
長い武器ほど切っ先は速く、柄に近づくほど移動は小さくなる。もっとも威力の弱い場所へ、もっとも短い動きで入る。
薫は左足を頭領の踏み込み足の外へ置き、身を斜めに開いた。同時に白嬰刀の鍔元を大剣の柄へ押し当てる。鍔と鍔が噛み合うほど近い間合いで、頭領の両拳が前へ進む道を塞いだ。
「なっ……!」
大剣が、薫の額から拳一つ上で止まった。
頭領の腕には振り下ろそうとする力が残っている。だが、薫は刃を受けているのではない。男の両手が進む支点そのものを封じている。力を込めれば込めるほど頭領の肩と肘だけが詰まり、大剣は空中で震えるばかりだった。
見開かれた頭領の目に、右後方から迫る最後の剣士の姿が映る。
男は味方の隙間を縫い、薫の背中へ向けて突きを放っていた。剣先が低く揺れ、頭領の脇腹のすぐ横を通過する。
薫は頭領の右脇へ半歩だけ身を移した。自ら避けるのではなく男の巨体を盾として剣先の前へ置く。
「おらぁ!」
突きを放った剣士が叫び、慌てて腕を引いた。
伸びきった突きを急に止めれば肩が浮き、手首に力が集中する。薫はそれを待っていた。
白嬰刀を返し、刃ではなく峰を男の手首へそっと添える。力任せには打たない。剣士が腕を引く流れへ刀の重みと薫の手首の返しをわずかに加えただけである。
男の手首が、関節の耐えられる角度から外れた。
「ぐっ!」
指が開き、剣が宙へ離れる。
回転しながら落ちてきた柄を、薫は左手で難なくつかんだ。そのまま刃先を下へ向け、男の足元へ軽く放る。
剣は土へ深く突き刺さり、両足の間で揺れた。切っ先は肉を避け、男の衣の裾だけを地面へ正確に縫い留めている。
「そのまま動けば、袴が破れるでござるぞ」
「今、それを心配する場面か!?」
「衣は大切にせねばならぬ」
「お前に縫い止められたんだよ!」
男は後退しようと反射的に足を引いた。だが、裾は地面へ固定されている。自らの衣に足を取られ、両腕をばたつかせた挙げ句、顔から草地へ倒れ込んだ。湿った土が鼻先へ跳ね、くぐもった悲鳴が地面へ吸い込まれる。
その間に、斧使いと左の剣士が、武器をぶつけ合った姿勢からようやく立ち直った。
薫は頭領との鍔迫り合いを解き、身を翻す。白嬰刀の切っ先が半円を描き、斧使いの得物へ吸い込まれた。
狙ったのは鉄の斧頭ではなく、両手の間にある木製の柄だった。
刃が触れた瞬間にも、衝撃らしい衝撃はなかった。乾いた木目に沿って白刃が滑り、斧の柄は音さえ立てず二つへ分かれる。支えを失った斧頭だけが勢いのまま前方へ飛び、数度回転して草むらへ深く埋まった。
斧使いは、両手に残った短い棒を呆然と見下ろした。
薫はすでに次の相手へ向いている。
左の剣士が、反射的に残った剣を横へ構えた。防ごうとしたのだろう。薫もまた、鉄と鉄が噛み合う重い衝撃を無意識に覚悟していた。
白嬰刀が男の剣へ触れる。
手へ返ってきたのは、薄く張った紙を一枚裂いた程度の軽い抵抗だけだった。
男の剣身へ斜めの白線が走る。次の瞬間、切っ先側が滑り落ち、草の上へ重い音を立てた。残された剣は、半ばから鏡のように滑らかな断面を晒している。
薫は敵ではなく、己の刀へ目を落とした。
「おお……」
白嬰刀の刀身には刃こぼれどころか、薄い曇りさえない。草原の光を受けた刃文は淡い桜色に揺れ、むしろ今の一太刀を誇るように冴え渡っている。
「やはり、お主は少々斬れすぎではござらぬか」
「少々じゃねえ!」
半分になった剣を握る男が、裏返った声で叫んだ。残った柄を投げ捨てると、薫へ背を向けぬよう後ずさりながら両手を上げる。
「降参だ! 俺は降参する!」
「賢明でござる」
「俺もだ!」
斧の柄だけを持っていた男も、火傷した物を捨てるように両手を開いた。折れた木片が足元へ転がる。
衣の裾を地面へ縫い留められた男は、顔を上げることさえ諦めたらしく、草地へ伏したまま両手だけを高く掲げていた。少し離れた場所では、先ほど薫の技によって死の幻を見せられた男が、自分の首がつながっていることを確かめるように両手で何度も喉を撫で、必死に頷いている。
立っている敵は、髭面の頭領ただ一人となった。
頭領は荒い呼吸を押し殺しながら、大剣を両手で握り直した。足元の草は踏み砕かれ、土が露出している。額から流れた汗が濃い眉を伝い、頬の古傷へ沿って落ちた。
「ふざけるな……俺は赤土のガルドだぞ」
「名乗りは先ほど聞いた」
「王都から金貨五十枚を懸けられている大盗賊だ!」
「金貨五十枚」
薫の眉が、わずかに上がった。
この世界の貨幣価値は分からない。金貨一枚で何が買えるのかも、五十枚が何日分の暮らしに相当するのかも知らなかった。それでも、男が胸を張って誇る数である以上、少なくとも握り飯一つよりは価値があるのだろう。
「お主を捕らえれば、その金貨は拙者が頂けるのでござるか」
「捕らえられればな!」
「それはありがたい」
「何がだ!」
「目を覚ましてから、まだ何も食べておらぬ。賞金があれば、しばらく食事には困らぬであろう」
「俺を飯代にするつもりか!」
「賞金とは、使ってこそ価値があるものではござらぬか」
「もっと恐れろ!」
ガルドは怒声を放ち、大剣を頭上へ掲げた。
しかしその構えは、先ほどまでの部下たちとは明らかに異なっていた。
両膝は外へ逃げず、股関節から深く腰を落としている。左右の足裏は土を均等につかみ、前足だけへ重心を寄せていない。肩には過剰な力がなく、大剣の重さを腕力だけで支えず、背筋から腰、脚へと分散させていた。切っ先の揺れも小さい。怒りに燃える目とは裏腹に、構えそのものは静かであった。
道場で体系立てて磨かれた剣ではない。
型の美しさも、礼法の端正さもない。代わりにそこには、何度も刃を交え、何度も死にかけ、そのたびに生き残った者だけが身につける、野卑で無駄のない理があった。敵を倒すためではなく、自分が死なぬために削り上げられた構えである。
薫の表情から、先ほどまでの柔らかな笑みがわずかに薄れた。
風が草原を渡り、二人の間で倒れた草を一斉に伏せる。周囲の山賊たちは息を呑み、誰一人として声を発しなかった。
ガルドの胸が一度だけ大きく膨らむ。
吐息が沈み、重心が前へ移る。
その瞬間、薫の耳には初めて、刃を合わせるに値するほど明瞭な剣の“声”が聞こえた。
ガルドは深く息を吸った。
胸を大きく膨らませず、腹へ空気を入れている。
呼吸に合わせて肩の力が抜け、前足の指が地面をつかんだ。
腰が沈む。
足裏から生じた力が腿を通って腰へ集まり、背中から両腕へと伝わっていく。
両手で握られた大剣はまだ動いていないが、それでも次の一撃が大地ごと叩き割るほどの威力を秘めていることは、刃を包む空気の張りだけで十分に知れた。
「来い!」
「参る」
薫は白嬰刀を下段へ落とした。切っ先は草の穂先を撫でるほど低く、両肩にはわずかな力みもない。右足を半歩引き、左足へ重みを預けているように見せながら、実際にはどの方向へも踏み出せるよう重心を体の中心へ留めていた。構えというより、ただ自然に立っているようにすら見える。だからこそガルドには、その静けさが不気味であった。
ガルドが大地を踏み砕いた。土が靴底の下で潰れ、草の根が千切れ、巨体が一気に間合いを食い潰す。振り上げられた大剣は陽光を遮り、薫の頭上へ暗い影を落とした。刃が動いたというより、重い鉄塊を載せた空そのものが崩れ落ちてきたかのようである。風は左右へ押しのけられ、耳を打つ低い唸りとなって草原を震わせた。
薫もまた、後ろへ退くことなく前へ出た。
二人の間に横たわっていた数歩の距離が、ひと呼吸にも満たぬ刹那で消失する。ガルドの視界には、薫の姿が真正面から迫ってきたように映っていた。朝日に白く光る刀身も、風にほどける黒髪も、濃紺の小袖も、ただの一度として彼の視界から外れてはいない。薫は確かに正面にいる。少なくとも、ガルドの目と脳はそう認識していた。
だが、最後の一歩で薫は右足の爪先を半寸だけ外へ向けた。踏み込む距離は変えず、頭の高さも上下させず、肩や腰の向きもほとんど動かさない。正面へ進み続けている姿勢を崩さぬまま、足裏で地面を撫でるように力の軸だけをずらし、重心をガルドの右肩側へ滑り込ませた。人の目は、相手の顔や肩、胸の位置から進行方向を判断する。薫はそのすべてを正面へ残し、実際の身体だけを刃の落下地点から外したのである。
桜明一刀流奥伝――《花霞》。
春風に舞う無数の桜を目で追えば、手前を横切る花弁と、遠くへ流れる花弁とが幾重にも重なり、その間に淡い霞が生じたように見える。右へ舞う花と左へ流れる花、近づく花と遠ざかる花は、それぞれ異なる場所にありながら、視界の上では一枚の薄紅色へ溶け合い、距離も方向も曖昧にする。《花霞》とは、その錯覚を人の身体と足運びだけで作り出す歩法であった。
横へ避けたと悟らせてはならない。避けた姿を見せれば、相手は刃筋を修正する。薫は正面にいるという認識だけをガルドの目へ残したまま、実際の身体を斬撃の外へ移していた。
ガルドは薫を捉えたと確信し、大剣を振り下ろした。
轟音が草原を揺らした。
大剣は薫の頭上を通り過ぎ、何もない空間を叩き割って地面へ深々と食い込んだ。刃の周囲から土が円状に弾け、千切れた草の根と小石が雨のように舞い上がる。衝撃は地面を走り、近くに転がっていた武器や荷袋をわずかに跳ねさせた。
そのとき薫は、すでにガルドの右脇へ抜けていた。
白嬰刀を斜め下へ振り切った姿勢のまま、足音すら立てずに静止している。刃先は地面へ触れる寸前で止まり、その白い刀身には血どころか、土埃の一粒さえ付着していなかった。
ガルドは動かなかった。
いや、動けなかった。
薫が横へ移った瞬間を見ていない。刀が鞘から走った軌跡も、刃が自分の身体へ触れた感触も、ほとんど残っていない。ただ、冷たいものが胸から脇腹を斜めに通り抜けたという、輪郭の曖昧な感覚だけが皮膚の上へ貼りついている。
「……いつだ」
喉の奥から漏れた声は、本人のものとは思えぬほど掠れていた。
「いつ、斬りやがった」
ガルドは恐る恐る胸へ手を当てた。血は出ていない。痛みもない。指先に触れる革鎧にも、刃が通った裂け目は見当たらなかった。
代わりに、小さな音がした。
ぱつん。
革鎧を留めていた紐が一本、まるで長い時間をかけて擦り切れたかのように切れ、乾いた音を立てて足元へ落ちた。続いて二本目、三本目が切れる。胸当てが前へ傾き、右の肩当てがずれ、腰回りを覆っていた防具が支えを失って草の上へ落ちていった。
がらん、がらん、と鉄と革の擦れる音が続く。
最後に残ったのは、大剣を握ったまま、下着一枚で草原へ立ち尽くすガルドの巨体だけであった。
「命までは取らぬと申したでござろう」
薫は白嬰刀を軽く振ってから、音もなく鞘へ納めた。
「お、俺の鎧が……」
「留め紐のみを斬った。革にも鉄板にも傷はつけておらぬゆえ、紐を通し直せばまだ使えよう」
「どうして、そんな細けえ真似ができるんだ……」
「父上は、飛んでいる蚊の羽だけを斬れたでござる」
「お前の親父は何者だ!」
「説明が少々不得手な剣士にござる」
「そこじゃねえ!」
ガルドの手から大剣が滑り落ちた。重い刃は横倒しになって草を押し潰し、地面へ鈍い振動を残す。彼はしばらく自分の鎧と薫の顔を交互に見比べていたが、やがて抵抗する気力を失ったように膝をつき、両手を頭の後ろへ回した。
「降参だ」
「うむ。潔いのは良きことでござる」
「煮るなり焼くなり、好きにしろ」
「では、皆まとめて縛らせていただく」
「縄なんて持ってねえだろ」
指摘され、薫は自分の腰元を探り、次いで左右の袖を確かめた。白嬰刀以外には、銭どころか手拭い一枚持っていない。ひとしきり身体を調べたあと、薫の視線は山賊たちが腰へ巻いている帯や革紐へゆっくり移った。
「お主らの帯を借りれば足りよう」
「全員を下着姿にする気か!」
「逃げられるよりはよかろう」
「よくねえ! 荷物を探せ! 縄ぐらい入ってる!」
「なるほど。お主、悪党にしてはなかなか頭が回るでござるな」
「一応、頭領だ!」
山賊たちの荷物を調べると、荷駄を括るための太い麻縄が数本見つかった。薫は十人を一列に並ばせ、それぞれの両手首を背中側でまとめてから、全員の胴を一本の縄へつないでいく。結び目は容易に解けぬよう交差させつつ、手首を締め上げすぎて血の巡りを妨げぬよう、指一本分の余裕を残していた。さらに、一人が走れば前後の者の腰縄が引かれ、全員が数珠つなぎに転倒するよう長さまで調整する。
宗十郎から縄術を習った覚えはない。
幼い頃、道場裏へ迷い込んだ猪を捕らえようとした父が、縄を角へ引っかけたまま猪と一緒に坂を転がり落ちていく姿を目撃し、「父上へ任せてはならぬ」と幼心に悟った薫が、書物と門弟を相手に独学で覚えたのである。
「ずいぶん手際がいいな」
縛られたガルドが、感心とも呆れともつかぬ声を漏らした。
「父上が不得手であったゆえ、自ら学んだのでござる」
「また親父か」
「父上は剣以外のことになると、途端に危なっかしくなるお方でござった」
「お前の剣がそれなら、その親父には絶対に会いたくねえ」
「安心されよ。父上は、遠い場所におる」
薫の声が、ごくわずかに柔らかくなった。
先ほどまでの軽妙な調子とは異なる響きを感じ取ったのか、ガルドは口を開きかけてやめた。それ以上、父のことを尋ねる者はいなかった。
薫は山賊たちの大剣、短剣、弓、棍棒を一か所へ集め、手の届かぬ位置へ置いた。それから縄の結び目を順に確かめ、十人の前へ立つ。
「さて、役人のおる場所まで案内していただこう」
「役人?」
「この辺りを治める奉行所か、番所はないのでござるか」
「何を言ってるのか分からねえが、衛兵なら西の砦にいる」
「なるほど。では、その西はどちらでござる」
十人の山賊が、示し合わせたように同時に薫を見た。
「お前、方角も分からねえのか」
「目を覚ましたばかりゆえ」
「ここがどこかは知ってるのか?」
「知らぬ」
「近くの町は?」
「知らぬ」
「王都は?」
「聞いたこともない」
「金貨の価値は?」
「先ほど初めて耳にした」
ガルドは縄で縛られたまま、腹の底から長い息を吐いた。
「お前、本当に何者なんだ」
「桜間薫。桜明一刀流の剣士にござる」
「名前と流派を聞いてんじゃねえ。どこから来た」
「日ノ本という国でござる」
「そんな国、聞いたことがねえ」
「拙者も、お主らの国を聞いたことがない。お互いさまでござるな」
「その細い剣も、日ノ本の武器か」
「うむ。これは刀と申す」
「剣じゃねえのか?」
「似てはおるが、同じものではない」
「何が違う」
「刃の形、重心の位置、反り、柄の握り、抜き方、振る際の身体の使い方、刃筋を通す理合いに至るまで、すべて異なる。詳しく説明すれば日が暮れるでござる」
「さっきまで弓の構えを細かく教えてたくせに、そこは省くのかよ」
「腹が減っておるゆえ、長話をする気力がないのでござる」
ガルドはもう何も言うまいとばかりに空を仰いだ。
そのとき、遠方からかすかな振動が届いた。
初めは風に揺れる草の音へ紛れ、地面の奥で何かが脈打っている程度の響きであった。しかし間を置かず、振動は一定の調子を刻み始める。重く、硬く、規則正しい音。耳で聞くより先に足裏へ伝わり、やがて草原の静けさを押し退けながら、明瞭な蹄の連なりへ変わっていった。
一頭や二頭ではない。
少なくとも十数頭。しかも、ばらばらに走る野生馬ではなく、互いの速度と間隔を揃えた騎馬の一団である。低い丘の向こうから舞い上がった土煙が、青空を背に細く伸び始めていた。
山賊たちの表情が、一斉に凍りついた。
「衛兵だ」
「砦の連中が追ってきやがった」
「頭領、どうする」
「見りゃ分かるだろ! どうにもならねえよ!」
薫は音のする方角へ顔を向けた。
草原の向こうに薄い土煙が上がり、その中から銀色の鎧を着た騎兵たちが現れる。
先頭を走る栗毛の馬には、短い赤髪を風になびかせた若い女が跨っていた。背筋を伸ばし、片手で手綱を操りながら、もう一方の手を腰の剣へ添えている。
女は一列に縛られた山賊たちを見つけた。
続いて、その前へ立つ薫へ目を向ける。
驚きによって目を見開き、すぐに手綱を引いた。
栗毛の馬が前脚を高く上げ、甲高くいななく。
後続の騎兵も次々と速度を落とし、薫たちから十歩ほど離れたところで停止した。
「赤土の牙……」
赤髪の女は馬上から人数を数えた。
「全員?」
「見てのとおりでござる」
女の視線が薫へ移る。
「あなたが捕らえたの?」
「いかにも」
「一人で?」
「ほかに誰かいるように見えるのでござるか」
「十人全員を?」
「一人ずつ数えれば十人でござる」
「数を尋ねたわけではないわ」
赤髪の女は薫の返答に呆れたような溜息をこぼしたが、追及するより先に手綱を引き、鞍から軽やかに降り立った。長旅で汚れた革靴が乾いた地面を踏み、腰に佩いた長剣の金具が小さく鳴る。
もっとも彼女が馬を降りたからといって、周囲の騎兵たちまで警戒を解いたわけではない。三人が捕縛された山賊たちのもとへ向かい、縄の結び目や隠し武器の有無を確かめ始める一方、残る者たちは馬上から薫を半円状に囲み、いつでも剣を抜ける距離を保っていた。彼らの視線は薫の腰に差された白嬰刀へ何度も注がれている。山賊十人を一人で制圧した女が、いまだ抜き身の刃を見せることなく平然と立っているのだから無理もない。
しかし赤髪の女だけは、白嬰刀の装飾や刀身の長さではなくそれを腰に差している薫自身を観察していた。左右の足は肩幅よりわずかに狭く開かれ、どちらへも踏み込めるよう踵が浮きすぎていない。重心は低いが、膝へ余計な力は入っておらず、鞘は抜刀の軌道を妨げない角度で帯へ収まっている。右手は柄に触れていない。それでも指先は自然に開かれ、相手が一歩でも間合いへ入れば瞬時に刀へ届く位置にあった。呼吸にも乱れはない。激しい戦いを終えた直後とは思えぬほど胸元は静かに上下している。
――剣を知っている者の目でござるな。
薫はそう見定めた。強さを知らぬ者は刀を見る。強さを知る者は、刀を抜く前の体を見るものだ。
「最後の一撃だけ、遠くから見えたわ」
赤髪の女は薫から視線を外さぬまま顎だけを動かしてガルドの足元を示した。そこには鉄板、革帯、留め具、肩当てなど、つい先ほどまで一揃いの鎧であったものが解体された玩具のように散らばっている。
「あなたが踏み込んだところも、刀を抜いたところも見えなかった。白い光が一筋走ったと思った次の瞬間には、あの男の鎧が全部落ちていた」
「留め紐だけを斬り申した」
「それは見れば分かるわ」
「ならば、何をお尋ねになりたいのでござる」
「どうやって、あれだけの留め具を一度に斬ったのかと聞いているの」
「近づき、抜き、斬った」
「……それだけ?」
「うむ。それだけにござる」
赤髪の女の眉間へ、くっきりと皺が寄った。
その顔を見た瞬間、薫の胸に遠い記憶が蘇る。幼い頃、父の宗十郎へ技の理を尋ねたところ、「相手の息が沈んだら、すっと入って、さっと斬る」と説明され、何一つ分からぬまま置き去りにされたことがあった。おそらく当時の自分も、今の赤髪の女と寸分違わぬ顔をしていたに違いない。
どうやら剣の才だけでなく、説明の不得手まで父から受け継いでしまったらしい。あまり喜ばしくない相伝であった。
「名前を聞いても?」
「桜間薫。桜明一刀流の剣士にござる」
「サクラマ・カオル」
赤髪の女は、聞き慣れぬ響きを舌の上で確かめるように、ゆっくりと繰り返した。
「サクラメイ……イットウリュウ。聞いたことのない流派ね」
「無理もござらぬ。この地においては、拙者が最初の一人となろう」
「この地においては?」
女の眼差しが鋭くなる。薫はほんの少し考えた末、正直に答えた。
「話せば、たいそう長くなる」
「聞く必要がありそうね」
「飯を食べながらでもよろしいか」
「……食事?」
「目を覚ましてから、まだ何も口へ入れておらぬのでござる」
「目を覚ましてから?」
「その前は死んでおった」
「……死んでいた?」
「そこから話し始めると、さらに長くなるのでござる」
赤髪の女は数呼吸ほど黙り込み、やがて片手で額を覆った。剣技の正体を尋ねたはずが死者の蘇生らしき話へ飛躍したのだから、その反応は至極もっともである。
その背後では騎兵たちが山賊の縄を締め直し、隠していた短剣や火打ち石を次々と取り上げていた。順番に立たされていた山賊たちの中で頭領のガルドだけが連行される直前に足を止め、薫へ顔を向ける。
「姉ちゃん、王都へ行くつもりか」
「王都に飯があるなら参る」
「飯なら、どこの町にだってあるだろうが」
「米はあるか」
「コメ?」
「白く艶やかで、炊けばふっくらと膨らみ、一粒一粒が甘みを帯びる穀物にござる。焼き魚にも味噌汁にもよく合い、握れば携帯食にもなる、まことに優れた食べ物である」
「いや、知らねえな」
その一言を聞いた途端、薫の顔から血の気が引いた。十人の山賊に囲まれたときでさえ見せなかったほど深刻な表情で、彼女はガルドを凝視する。
「米が……ない?」
「そんなに大事なものなのかよ」
「世の終わりに限りなく近い話でござる」
「岩を斬る女が、米のことで一番絶望してやがる……」
「黙って歩きなさい」
赤髪の女が会話を断ち切るように言い、ガルドの背中を軽く押した。それから改めて薫へ向き直り、姿勢を正す。
「私は王都警備隊第三騎士班の副長、リディア・ヴァレン。王都近郊で略奪を繰り返していた山賊団《赤土の牙》を追って、ここまで来たの」
「桜間薫にござる。先ほど申し上げた」
「ええ、聞いたわ。二度目ね」
「名乗りには名乗りを返すのが礼儀ゆえ」
「律儀なのね」
「礼を欠いては、剣を持つ者の名折れにござる」
薫は小さく頷いたあと、地面へ転がされた山賊たちを見渡した。先ほどのガルドの言葉を思い出したのか、その目にかすかな期待が宿る。
「ところで、この者らには賞金が懸けられていると聞いた。捕らえた拙者にも、いただけるのでござるか」
「正式な確認と手続きは必要だけれど、あなたが捕縛したことが認められれば支払われるわ。頭領のガルドだけで金貨五十枚。ほかの者たちにも、額は小さいけれどそれぞれ賞金がついている」
「金貨五十枚」
薫の瞳が、朝露を受けた桜のようにきらりと輝く。
「全員合わせれば、飯をたくさん食べられるでござるか」
「少なくとも、当分の食費には困らないでしょうね。節度を守れば、宿にもかなり長く泊まれるはずよ」
「では、王都へ参る」
先ほどまで米の消失に打ちひしがれていたとは思えぬほど、薫は即座に言い切った。
「決断が早いわね。理由は食事だけなの?」
「腹が満たされねば、剣の稽古にも身が入らぬ。空腹のままでは足元がふらつき、刃筋も鈍る。ゆえに飯は、剣士にとって刀と同じほど大切なものにござる」
「そこまで言い切るものかしら」
「父上も、腹が減ると不機嫌になって巻藁を必要以上に細かく斬っておられた」
「それは剣士全体の話ではなく、あなたのお父様だけの問題では?」
「む……その可能性は否定できぬ」
リディアは完全には納得していない様子だったが、これ以上議論しても結論は出ないと判断したらしい。小さく肩をすくめると、自分の馬へ歩み寄り、鐙へ足をかけて鞍へ戻った。
「馬には乗れる?」
「経験はある。父上に連れられ、何度か遠乗りをした」
「なら、私の後ろへ乗って。王都までは歩くと日が暮れるわ」
「かたじけない」
リディアが差し出した手を、薫は素直に取った。左足を鐙へかけ、鞍の後ろへ乗り上がるために、いつもの感覚で地面を蹴る。
かつての肉体なら、馬の背へ上がるには脚と腕の力をうまく合わせる必要があった。ところが今の薫の体は、本人の想像をはるかに超えて軽く、しかも力強い。ほんのわずかに脚へ力を込めただけで、体は矢のように宙へ跳ね上がった。
「むっ」
馬の背どころか、そのまま反対側へ飛び越えかねない高さである。
薫は空中で腰を捻り、両脚を畳んで強引に軌道を修正した。どうにか鞍の後方へ尻を落としたものの、前へ流れた勢いまでは殺しきれず、額からリディアの背中へ勢いよく突っ込む。
「いたっ!」
「申し訳ござらぬ!」
薫は慌てて身を起こし、ずれた姿勢を正した。
「体が軽くなったことを、まだ上手く加減できぬのでござる。以前と同じ力を込めると、思った以上に飛んでしまう」
「剣では留め紐だけを斬るほど細かく力を調整できるのに、馬へ乗る力は調整できないの?」
「剣と乗馬は別物にござる」
「そういうものかしら」
「そういうものにござる」
薫は一切の迷いなく断言すると、今度こそ落ちぬよう、リディアの腰へ両腕を回した。抱きつかれたリディアの肩がわずかに強張ったが、すぐに諦めたような息を吐き、手綱を握り直す。
「しっかり掴まっていて。急に飛び降りたりしないでよ」
「承知した。されど、もし道中で強者を見つけた場合は、その限りではござらぬ」
「飛び降りないで」
「善処いたす」
「善処ではなく、約束して」
リディアが振り返って釘を刺す間にも、騎兵たちは捕らえた山賊たちを一列に並ばせ、長い縄で互いの腰を結び始めていた。武器を取り上げられ、鎧を失い、すっかり意気消沈した《赤土の牙》の面々を連れ、騎兵隊は街道へ向かってゆっくりと進み出す。
薫は揺れる馬上から、遠ざかっていく草原を振り返った。目覚めてからわずかな時しか経っていないというのに、岩を斬り、山賊を捕らえ、王都と呼ばれる場所へ向かうことになった。
どうやら二度目の人生は、前世よりもずいぶん慌ただしいものになりそうでござるな。
そう思った瞬間、腹の虫が盛大に鳴いた。
リディアの背中越しに、前を行く騎兵が振り返る。
「……今の音は何?」
「拙者の腹にござる」
「魔物の唸り声かと思ったわ」
「失礼な。少々、腹が減っておるだけでござる」
「少々で、あんな音が出るの?」
「戦の前触れにござる」
「何との戦いよ」
「空腹との一騎打ちでござる」
薫は神妙な顔で答え、まだ見ぬ王都の方角を見つめた。
米がないという一点だけは重大な懸念であったが、賞金があれば飯にはありつける。飯を食べれば剣を振れる。剣を振れば、さらに強くなれる。
ひとまず今は、それで十分であった。
「ところで、リディア殿」
「何?」
「王都には強い剣士が多いのでござるか」
「騎士、冒険者、傭兵、魔法剣士。各地から腕に覚えのある者が集まっているわ」
「魔法剣士とは」
「剣術と魔法を組み合わせて戦う者よ」
「魔法」
薫は聞き慣れぬ響きを口の中で転がした。
「先ほどの刀の力も、魔法ではないの?」
「白嬰刀は生前からよく斬れる刀であったが、岩や鉄まで斬れた覚えはない。拙者にも分からぬ」
「生前という言い方が、どうしても気になるのだけれど」
「王都へ着いたら話すでござる」
「本当に全部話してもらうわよ」
「飯を頂けるなら」
「分かったから、食事から離れなさい」
リディアは呆れた声を出しながらも、口元には僅かな笑みを浮かべていた。
「一月後には王都で大きな武闘大会も開かれる。剣士だけでなく、魔法使いや槍使い、拳闘士まで参加する王国最大の大会よ」
「武闘大会」
薫の声が変わった。
食事の話をしていたときより、さらに明るい。
「優勝すれば、王都一の剣豪と認められるのでござるか」
「剣だけを競う大会ではないから、正確には王国最強の一角として認められる、というところね」
「王国最強」
薫は白嬰刀の柄へ手を置いた。
胸の奥に、病床では二度と抱けなかった熱が広がっていく。
父の背を追い、剣を振り続けた幼い日。
女であることを理由に、剣士として生きる夢を手放した日。
白嬰刀を蔵へ置いた夜。
再び刀を握ることだけを願いながら、目を閉じた最期の朝。
それらの記憶は今も残っている。
同じ体の内側にありながら、もはや彼女の足を止める鎖ではなかった。
この地には、桜間の名を知る者がいない。
宗十郎の名も、桜明一刀流の名も知られていない。
女が剣を持つことを咎める者も、今のところ現れていない。
誰も知らないなら、自ら知らせればよい。
流派がないなら、ここから始めればよい。
名が届いていないなら、剣によって届かせればよい。
「リディア殿」
「何?」
「馬をもう少し速くできぬか」
「どうして?」
「大会まで一月しかないのでござろう。のんびりしていては間に合わぬ」
「王都までは半日もかからないわ」
「では安心でござるな!」
薫は心から嬉しそうに笑った。
街道の先には、まだ姿も見えぬ王都がある。
そこには、この世界の剣士たちが集まっている。
刀とは異なる剣を使う者。
魔法と呼ばれる力を操る者。
宗十郎に匹敵するほどの達人。
今の薫が想像もできない技を持つ者もいるかもしれない。
そう考えるほど白嬰刀を握る指へ力が入り、胸の内側へ新しい呼吸が満ちていく。
草原には、先ほどまでの戦いの痕跡が残されていた。
斜めに断たれた岩。
切断された斧の柄。
半分になった鉄剣。
地面へ突き刺さった矢。
踏み荒らされた草。
そのどれにも、血は一滴も付いていない。
桜明一刀流の剣は、この世界でも通じた。
異世界の者たちには、薫の動きは速さとしてさえ認識されない。
遠くにいたはずの少女が、不意に目前へ現れる。
鞘に収まっていたはずの刀が、いつ抜かれたのか分からぬまま振り抜かれている。
斬られた感覚だけが残り、傷の代わりに鎧の留め具が落ちていく。
そこにあるのは、単なる俊足でも、腕力でもない。
呼吸を消し、起こりを消し、間合いを錯覚させ、相手が攻撃を形にするより前へ剣を差し込む、桜明一刀流の極意である。
枝に咲いていた桜が、いつ離れたのか分からぬまま足元へ落ちるように。
風に乗った花弁が、遠くにあると思った刹那、目の前を横切るように。
薫の剣もまた、美しい桜の幻だけを残し、勝敗へ至る途中の時間を相手の認識から奪う。
桜間薫の二度目の侍道は、名も知らぬ草原で始まった。
最初に斬ったものは命ではなく、十人の悪党が抱いていた慢心。
最初に得たものは金貨五十枚と、王都へ向かう理由。
そして彼女の恐るべき剣技を目にした者たちの胸には、一つの鮮烈な光景が刻まれた。
花が散ったのではない。
散ったと気づいたときには、すべてが終わっていたのである。




