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桜が散る頃に


挿絵(By みてみん)




 桜間薫が生まれた日の朝、庭先に立つ老桜は季節を取り違えたかのように一輪だけ花を咲かせ、その淡い花弁を見上げた父・桜間宗十郎は、まだ産声を上げたばかりの我が子を抱きながら、「この娘は、きっと強くなる」と呟いたらしい。


 薫自身はもちろん、その日のことを覚えてはいない。母から何度も聞かされた話であり、幼い頃には「桜が咲いた程度で何が分かるのでござるか」と首を傾げていたものの、母は決まって微笑みながら、「あなたのお父上は、剣以外のことになると途端に話を大きくなさる方なのですよ」と答えていた。


 それについては薫も心から同意している。


 父・宗十郎は剣の道においてこそ一分の隙もない達人であったものの、日常生活においては刀掛けへ脇差と一緒に大根を置き、稽古場へ向かうつもりで物置に入り、そのまま暗がりの中で半刻ほど座禅を組んでから「今日は妙に弟子が少ない」と真顔で語るような男であった。


 幼い薫にとって、その背中は大きく、頼もしく、そして時折どうしようもなく心配になるものであった。


 それでも父が刀を握ったとき、その場の空気はまるで別物へ変わった。


 床板を踏む足音はほとんど聞こえず、肩にも腕にも余計な力はなく、鞘から抜き放たれた刀身は春の陽光を受けて細く輝き、ほんの一度だけ白銀の軌跡を描いたかと思えば、庭に立てられていた太い巻藁が音もなく斜めにずれ落ちる。


 まだ背丈が父の腰にも届かなかった薫は、その光景を見るたびに息をすることさえ忘れ、稽古場の隅から身を乗り出していた。


「父上、今のはどのように斬ったのでござるか」


「普通に斬った」


「普通とは、どのようにでござる」


「こう、すっと抜いて、すっと斬る」


「すっと、では分からぬでござる」


「ならば、もっとよく見ることだ」


「見ても速すぎて分からぬのでござる!」


 尋ねる娘と、教えることが壊滅的に不得手な父との会話は、いつもそこで終わった。


 宗十郎は決して意地悪で答えを教えなかったわけではない。本人はあれで丁寧に説明しているつもりであり、「相手の息が、ふっと沈んだところで、こちらは、すっと入る」などと補足してはいたものの、説明の大半が「すっ」「ふっ」「さっ」で構成されていたため、幼い薫には何が何やら分からなかった。


 それでも薫は父の剣を学びたかった。


 朝は日が昇る前に起き、庭の掃き掃除を済ませたあと、誰にも見つからぬよう稽古場へ忍び込み、父が使っていた木刀を両手で持ち上げる。幼子には重すぎる木刀であったため、最初の頃は正眼に構えるだけで腕が震え、振り下ろせば木刀の勢いに引かれて自分まで前へ転がり、額を床板へ打ちつけて大きなたんこぶを作った。


 母からは「薫は朝から元気ですね」と笑われ、父からは「床を頭で割る流派を始めるつもりか」と問われた。


「違うでござる! 今のは足運びの鍛錬でござる!」


「足より先に頭が動いていたように見えたが」


「見間違いでござる」


「そうか」


「そうでござる」


 宗十郎はそれ以上追及せず、稽古場の隅に置かれていた薫用の短い木刀を持ってくると、無言のまま娘の前へ差し出した。


 その日から薫は、正式に父の弟子となった。


 桜間家に伝わる剣術は、華やかな型や大きな動きを嫌い、己の気配を消し、相手の間合いへ音もなく入り込み、最も短い軌道で急所を断つことを旨とする実戦の剣であった。名を桜明一刀流といい、宗十郎は諸国を巡る剣客たちから、東国一の剣豪とも、鬼桜とも、酒を飲ませると道端で寝る迷惑者とも呼ばれていた。


 最後の呼び名について、本人は不服そうな顔をしていたものの、否定できるほど身に覚えがなかったらしい。


 薫は驚くほどの速さで剣を覚えた。


 一度見た型は二度目には再現し、三度目には自分の体格に合うよう調整してみせた。足運びの乱れを指摘されれば翌日には直し、宗十郎が戯れに放った木刀の一撃を避けると、そのまま彼の懐へ潜り込んで脇腹へ一撃を入れたことさえあった。


 打たれた宗十郎はしばらく黙り込み、やがて誰もいない稽古場の入り口へ向かって、「今のは蚊だ」と言った。


「父上、母上は台所でござる」


「そうか」


「それに今は冬ゆえ、蚊はおらぬでござる」


「では、少し大きな蚊だ」


「拙者が打ったのでござる」


「……そうか」


 娘に一本取られた事実を認めたくない父の背中を眺めながら、薫は胸の内に小さな誇らしさを抱いた。


 自分には剣の才がある。


 このまま稽古を続ければ、いつか父のようになれる。


 父を越え、国中の剣士と立ち合い、誰よりも強い剣豪になれる。


 少女の心に芽生えた夢は、春の日差しを浴びる若木のように、疑うことを知らず真っすぐ育っていった。


 十歳になる頃には、桜間道場へ通う成人の門弟でさえ薫に勝てなくなっていた。


 体格では到底及ばない。腕力も足りない。それでも薫は相手の呼吸、視線、爪先の向き、肩のわずかな動きから攻撃の兆しを読み取り、木刀が振るわれるより先に相手の進路から消え、脇を抜けざまに胴を打つ。


「一本」


 審判役の宗十郎が淡々と告げるたび、倒された門弟は畳へ手をつき、どうして負けたのか分からないという顔で薫を見上げた。


 薫は木刀を脇に置き、両手を畳について頭を下げる。


「ご指導、かたじけない」


「い、いや……こちらこそ」


「先ほどの踏み込み、たいへん力強く見事でござった。ゆえに、右足へ力が集まる直前、左肩がわずかに下がっておられた。そこを直せば、さらに鋭い一撃になろうかと存ずる」


「薫殿、それは私があなたへ言うべき助言なのでは……」


「む?」


「いや、なんでもない」


 門弟たちは薫の才能を認め、可愛がり、時には末恐ろしいと笑った。


 この子はいずれ桜間道場を継ぐ。


 宗十郎を越える剣士になる。


 そんな言葉が稽古場のあちこちで交わされるたび、薫は頬を緩ませ、嬉しさを隠すために口元を引き結んだ。


 夢が叶わぬものだと知ったのは、それから間もなくのことだった。


 ある日道場へ名のある剣術家が訪れ、宗十郎と長く話をした。その男は薫の稽古をしばらく眺めたあと、感心した様子で何度も頷き、「男子であれば、さぞ立派な剣士になったでしょう」と口にした。


 薫には、その言葉の意味がすぐには理解できなかった。


「女子では、立派な剣士になれぬのでござるか」


 男は困ったように笑い、悪気のない穏やかな声で答えた。


「剣は男の道です。あなたほど美しい娘御ならば、良き家へ嫁ぎ、夫を支えるほうが幸せでしょう」


「拙者は、父上のような剣士になりたいのでござる」


「幼い頃には、そのような夢を見るものです」


「夢ではござらぬ。拙者は毎日稽古をしておる」


「嫁入り前の娘が顔に傷でも負えば、ご両親が悲しみますよ」


 男は薫を侮辱しようとしたわけではなかった。


 本当に親切のつもりで、世の道理を教えてやろうと考えていたのだろう。その柔らかな物腰と憐れむような微笑みが、薫には木刀で殴られるより痛かった。


 宗十郎は何も言わなかった。


 客人が帰ったあとも薫は一人で稽古場に座り、膝の上に置いた木刀を見つめていた。柱の向こうから差し込む夕日は細長く畳を照らし、いつもより広く感じられる道場には、庭で鳴く虫の声だけが響いていた。


「父上」


「なんだ」


「拙者は、剣士になれぬのでござるか」


 宗十郎はすぐには答えなかった。


 嘘の不得手な父であった。


 上手な慰めも、希望を持たせる言葉も思いつかなかったのだろう。


「お前が剣を学ぶことを、誰にも止めさせはしない」


「剣を学ぶことと、剣士として生きることは違うのでござろう」


「……そうだな」


「父上は、拙者に道場を継がせてくださるか」


 宗十郎の口は固く閉じられた。


 その沈黙こそが答えであった。


 薫の胸に育っていた夢は、その日を境に少しずつ形を失っていった。


 稽古をやめたわけではない。剣を嫌いになったわけでもない。朝になれば道場へ向かい、木刀を振り、父や門弟たちと汗を流した。それでも以前のように、いつか誰よりも強い剣豪になるのだと口にすることはなくなった。


 十二歳の春、薫は元服祝いとして父から一振りの刀を贈られた。


 反りの浅い細身の刀で、白い柄巻きと淡紅色の下緒を持ち、鍔には小さな桜の花が刻まれていた。


「名は白嬰刀という」


「白嬰……白き桜の幼子、という意味でござるか」


「お前のために打たせた」


 薫は震える手で刀を受け取り、鯉口を切ってわずかに刃を覗かせた。


 水面のように澄んだ刃には、細かな桜の花弁を思わせる刃文が浮かんでいた。柄を握れば不思議なほど手に馴染み、まるで長いあいだ自分の手がこの刀を待っていたかのように感じられた。


「父上、ありがたき幸せにござる。拙者、この刀を決して手放しませぬ」


「そうか」


「生涯、大切にいたす」


「そうしてやれ」


 言葉どおり、薫は白嬰刀を何より大切にした。


 毎日欠かさず手入れを行い、庭の桜が咲けば刀を傍らに置いて眺め、眠る際にも枕元へ置いた。


 その誓いを破ったのは、一年後である。


 縁談の話が持ち上がった。


 相手は近隣の藩に仕える武家の嫡男で、穏やかな性格をした、評判の良い若者だと聞かされた。薫の剣の才を知ってなお妻に迎えたいと望み、嫁入り後も趣味として稽古を続けて構わないとまで言っているらしい。


 趣味。


 その二文字を聞いたとき、薫は笑いそうになった。


 朝から晩まで振り続け、手の皮を何度も破り、父の背を追い、自らの生涯そのものにしようと願った剣が、嫁入り後の暇を潰す趣味と呼ばれた。


 怒りはなかった。


 泣きたいとも思わなかった。


 胸の奥に残っていた何かが、音もなく冷えていくのを感じただけだった。


 薫はその夜、白嬰刀を布に包み、道場の奥にある蔵へ置いた。


「すまぬな」


 刀は何も答えない。


「お主を持っていては、諦めきれぬのでござる」


 白い柄へ一度だけ触れ、薫は蔵の戸を閉じた。



 蔵を出たあと、薫はしばらく戸の前に立っていた。


 夜気は冷たく、庭の木々を揺らす風が頬を撫でていく。つい先ほどまで手の中にあった白嬰刀の重みが、今も掌に残っているような気がした。


 腰は、不自然なほど軽かった。


 これまで刀を差して歩くことが当たり前であったせいか、何もない腰元へ手を伸ばしてしまう。指先が触れたのは帯だけであり、そのたびに薫は、自分が何を置いてきたのかを思い知らされた。


「これでよいのでござる」


 誰に聞かせるでもなく呟いた。


 白嬰刀を蔵へ置いたのは、父に命じられたからでも、母に諭されたからでもない。


 自分で決めたことであった。


 剣士になる夢は叶わない。


 ならば、いつまでも刀へしがみついていてはならない。


 嫁ぎ先では妻として夫を支え、いずれ子を育て、家を守る。それが世の中で女に求められる役目であり、多くの者が歩んできた道である。


 剣豪になれぬからといって、生きる道そのものがなくなるわけではない。


 薫はそう自分へ言い聞かせた。


 相手の若者は悪い人物ではないという。


 家柄もよく、気立ても穏やかで、薫が剣を好むことさえ受け入れてくれる。これ以上を望めば、罰が当たるのかもしれない。


 趣味としてなら稽古を続けてよい。


 その言葉を慈悲だと思うべきなのだろう。


 毎朝木刀を振り、時折夫や子に型を見せ、昔は父から剣を習っていたのだと笑って語る。


 そうして年を重ねていく。


 刀を握っていた手で縫い物をし、踏み込みを鍛えた足で家の中を歩き、相手の殺気を読むため磨いた目で子の顔色や夫の機嫌を窺う。


 それが自分の将来なのだろうか。


 思い描こうとしても、不思議なほど輪郭が浮かばなかった。


 立派な屋敷。


 穏やかな夫。


 元気な子供。


 庭先には四季の花が咲き、朝には家人たちの声が響く。


 決して不幸ではない。


 むしろ世間から見れば、これ以上なく恵まれた人生と呼ばれるはずだ。


 それでも、その景色の中にいる自分だけが、まるで墨の薄い影のように見えた。


 笑っている。


 けれど、何を喜んでいるのか分からない。


 誰かに必要とされている。


 けれど、それは本当に自分でなければならないのだろうか。


 良き妻となり、良き母となることを軽んじているわけではない。母の生き方を見てきた薫は、それがどれほど強く、尊いものであるかを知っていた。


 母は宗十郎の不器用さを受け止め、門弟たちを世話し、家を切り盛りしながらいつも笑っていた。


 宗十郎が大根を刀掛けへ置けば台所へ戻し、稽古の途中で飯の時間を忘れれば耳を引いて連れ帰り、酒に酔って庭石を枕に眠れば、布団ではなく筵だけを掛けて翌朝まで放置した。


 最後の行いには少々の怒りが混じっていたと思われるものの、それでも母が家を支えていたことに変わりはない。


 薫は母を尊敬していた。


 だからこそ、自分が母と同じようになれるとは思えなかった。


 剣を捨てた自分が、胸の内に空いた穴を隠したまま誰かを支えることなどできるのだろうか。


 満たされぬ思いを抱えたまま妻になれば、その不満を夫へ向けてしまわないだろうか。


 我が子が男子で剣を学びたいと言ったなら、心から応援できるだろうか。


 あるいはその子の姿へ自分が叶えられなかった夢を重ね、必要以上に厳しくしてしまうのではないか。


 逆に女子が生まれ、自分と同じように剣士になりたいと言ったなら、何と答えればよいのだろう。


 夢を追いなさいと言うのか。


 それとも女には許されぬと、自分が傷つけられた言葉をそのまま娘へ渡すのか。


 考えれば考えるほど、薫の将来は深い霧に包まれていった。


 道場へ戻れば、門弟たちの稽古が続いていた。


 夜稽古に励む者たちの掛け声と、木刀がぶつかり合う乾いた音が、閉じた戸の向こうから聞こえる。


 以前なら何の迷いもなく中へ入っていた。


 誰かの構えを直し、打ち込みを受け、最後には父と立ち合う。そうして腕が上がらなくなるまで木刀を振ったあと、汗を拭いながら母の作った夕餉を食べる。


 それが薫の日常だった。


 けれど今夜は、戸へ手を掛けることができなかった。


 白嬰刀を置いてきた直後に木刀を握れば、何のために決意したのか分からなくなる。


 剣を手放すと決めたのだ。


 ならば、少しずつ距離を置かなければならない。


 そう思う一方で、戸の向こうから響く音の一つひとつが薫を呼んでいるようにも感じられた。


 足音を聞けば、誰がどのように踏み込んだのか分かる。


 木刀の音を聞けば、刃筋が立っているかどうかも想像できる。


 短い掛け声の乱れから、呼吸が崩れた者まで分かった。


 剣は、薫の体に染みついていた。


 捨てようと決めた程度で、簡単に消えるものではなかった。


「薫」


 背後から父の声がした。


 振り向くと、宗十郎が稽古着姿のまま立っていた。額には薄く汗が浮かび、右手には木刀を持っている。


「稽古を見ぬのか」


「今宵は、もう休むでござる」


「具合でも悪いのか」


「そうではござらぬ」


「ならば来い。伊吹がまた足を絡ませて転んだ」


 道場の中から、「先生、それは言わないでください!」という門弟の声が聞こえた。


 薫は思わず笑いかけ、すぐに口元を引き結んだ。


「拙者は、しばらく稽古を控えようと思うのでござる」


 宗十郎は黙った。


「嫁入りの支度も覚えねばならぬ。裁縫も料理も、拙者は人並み以下でござるゆえ」


「料理はやめておけ」


「なぜでござる」


「以前、お前が作った汁物を飲んだ門弟が、先祖の姿を見たと言っていた」


「あれは味が深かったのでござる」


「深すぎて彼岸まで届いたのだろう」


「父上にだけは、日常の不得手を笑われたくござらぬ」


「それもそうだな」


 あっさり認められると、それはそれで腹が立つ。


 薫は父を睨みかけたが、宗十郎の顔がいつになく真剣であることに気づいた。


「刀を置いたのか」


「……ご存じでござったか」


「あの蔵の戸は、開けると妙な音がする」


「父上、直してくだされ」


「今度直す」


「父上の今度は、五年ほど先でござる」


「十年は掛からぬ」


「かかるつもりなのでござるか」


 宗十郎は木刀を肩へ担ぎ、庭へ視線を向けた。


「お前が自分で決めたことなら、私は何も言わぬ」


「左様でござるか」


「だが、剣をやめる必要はない」


「趣味として、でござるか」


 思った以上に冷たい声が出た。


 宗十郎の眉がわずかに動く。


 薫はすぐに頭を下げた。


「申し訳ござらぬ」


「いや」


「父上へ当たるつもりはなかったのでござる」


「分かっている」


 それ以上、父は何も言わなかった。


 言葉を持たない人であることは、幼い頃から知っている。


 薫もまた何を言ってほしいのか分からなかった。


 剣士になれと言ってほしいのか。


 道場を継がせると約束してほしいのか。


 世間など気にするなと、父にすべてを捨てさせたいのか。


 宗十郎が一言そう命じれば、自分は喜んで剣を取り戻すだろう。


 けれどその先に何がある。


 父の庇護があるうちはよい。


 父が老い、自分一人になったあとも、女剣士として生きていけるのか。


 道場の門弟たちが本当に自分を師と仰ぐのか。


 他流試合を申し込んだところで、女とは立ち合えぬと断られるのではないか。


 真剣勝負で傷を負えば、やはり女に剣は無理だったと笑われる。


 勝ったところで相手が女だから手加減したのだと言われるかもしれない。


 どれほど強くなれば認められるのか。


 父を越えればよいのか。


 東国一になればよいのか。


 国中の剣士を倒せば、誰もが薫を剣士と呼ぶのか。


 そもそも誰に認められれば、自分は剣士になれるのだろう。


 薫はこれまで、強くなればすべてが開けると思っていた。


 剣の腕を磨き、誰にも負けぬほど強くなれば、身分も性別も関係なくなる。


 圧倒的な力を示せば、世の中のほうが自分を認めざるを得なくなる。


 幼い薫はそう信じていた。


 しかし十歳の自分が成人の門弟を倒しても、返ってきた言葉は「男子であれば」であった。


 実力を示したつもりでも、相手の目にはまず女であることが映り、そのあとに剣が続く。


 ならば、強さとは何なのだろう。


 人を倒すことか。


 相手より速く刀を抜くことか。


 敵の攻撃を見切り、一太刀で勝負を決めることか。


 百人と立ち合い、すべてに勝てば強いのか。


 それとも、勝敗にかかわらず己の道を貫ける者を強いと呼ぶのか。


 剣とは、何なのだろう。


 人を斬るための道具。


 己を守るための術。


 家や主君を守るための力。


 心を磨くための道。


 父にとっての剣は、おそらく呼吸と同じであった。なぜ振るのかと問われても、そこに刀があり、自分の体が動くからとしか答えられないのだろう。


 けれど、薫にとっては違った。


 剣は夢だった。


 父へ近づくための道であり、まだ見ぬ世界へ進むための足であり、自分が自分であることを証明する唯一のものであった。


 だからこそ、それを失うことが恐ろしかった。


 刀を置けば、ただ剣をやめるだけではない。


 これまでの自分まで、すべて消えてしまうように思えた。


 朝から晩まで稽古した日々。


 掌の皮が破れても木刀を離さなかったこと。


 初めて父から一本を取ったときの喜び。


 門弟たちから天才だと褒められ、いつか道場を継ぐのだと胸を躍らせたこと。


 それらがすべて、幼い娘の戯れであったことにされてしまう。


 剣を捨てたあとの自分には、何が残るのか。


「父上」


「なんだ」


「剣とは、何でござろうな」


 宗十郎は難しい顔をした。


 剣の達人でありながら、こうした問いには極端に弱い。


「刀を使って斬るものだ」


「それは剣術の説明でござる」


「では、斬らぬものだ」


「先ほどと逆になっただけでござる」


「難しいことを聞くな」


「父上は剣豪でござろう」


「剣豪が皆、賢いと思うな」


「父上を見て育ったゆえ、その点には期待しておらぬ」


「ならば聞くな」


 あまりに父らしい返答に、薫は小さく笑った。


 宗十郎も、ほんのわずかに口元を緩める。


 しばらく二人で夜の庭を眺めた。


 道場の戸の向こうでは、門弟たちが再び稽古を始めている。


 木刀が触れ合う音。


 畳を踏む音。


 息を吐く声。


 そのすべてが懐かしく、まだ一日も離れていないというのに、遠い昔のように感じられた。


「私はな」


 宗十郎が不意に口を開いた。


「剣は、選ぶものではないと思っている」


「選ぶものではない?」


「捨てたつもりでも、捨てられぬ者がいる。逃げたつもりでも、気づけばまた握っている。反対に、どれほど才があろうと、離れれば二度と戻らぬ者もいる」


「では、剣のほうが人を選ぶのでござるか」


「知らん」


「良い話のように始めておきながら、最後に投げ出されるな」


「私も今、考えながら話している」


「せめて考え終えてから話してくだされ」


 薫は呆れつつも、父の言葉を胸の中で繰り返した。


 捨てたつもりでも、捨てられぬ。


 逃げたつもりでも、また握っている。


 ならば、自分はどうなのだろう。


 白嬰刀を蔵へ置いた。


 明日から稽古をやめようとしている。


 それでも耳は道場の音を拾い、足は無意識に踏み込みの間を測り、掌は木刀の感触を求めている。


 これほど未練があるのなら、完全に断ち切ることなどできないのかもしれない。


 ならば、無理に嫌いになる必要はないのではないか。


 剣士として名を上げる夢は諦める。


 だが、剣を愛した自分まで否定する必要はない。


 嫁いだあとも、たとえ趣味と呼ばれようとも刀を振ればよい。


 誰に見せるためでもなく、何かを証明するためでもなく、自分が自分であり続けるために振ればよい。


 世界一の剣豪にはなれない。


 父のような剣士として生きることもできない。


 それでも、これまで身につけた剣は消えない。


 目に映るものを斬るためではなく、胸の中に残る悔しさと折り合いをつけるために剣を振る。


 それも一つの道なのかもしれなかった。


 強さとは、誰かを打ち倒すことだけではない。


 叶わぬ願いを抱えたまま、それでも前へ進むこと。


 選ばなかった道を振り返りながら、選んだ道を歩き続けること。


 笑えぬ日にも他者を恨まず、自らの不幸を誰かのせいにせず、与えられた生を全うすること。


 それができる者もまた、強いのではないか。


 そう考えれば、母は父よりもよほど強い。


 宗十郎が剣で百人を倒せるとしても、母は宗十郎一人を何十年も世話している。


 その困難さは、下手な百人斬りを凌ぐであろう。


「父上」


「なんだ」


「母上は、父上より強いのではござらぬか」


「なぜ急にその結論になった」


「長年、父上を御しておられる」


「否定はできん」


「拙者も、母上のように強くなれるであろうか」


「お前は料理をすると先祖を呼ぶ」


「そこは今後の鍛錬次第でござる!」


「剣より難しいかもしれん」


「父上は拙者を何だと思っておられる!」


 道場の中から門弟たちの笑い声が聞こえた。


 どうやら会話を聞かれていたらしい。


 薫は顔を赤くし、戸へ向かって「稽古へ集中なされ!」と声を張った。


 その拍子に、胸の奥へ溜まっていた重苦しいものが少しだけ軽くなった。


 すべてを捨てる必要はない。


 夢を叶えることだけが、夢に決着をつける方法ではない。


 叶わなかったことを認め、それでも愛したものを愛したまま生きていく。


 それは敗北ではなく、自分で選び取る終わりなのだ。


 薫はもう一度、蔵のほうを振り返った。


 今すぐ白嬰刀を取り戻すつもりはなかった。


 あの刀を腰に差せば、再び剣豪への夢が燃え上がってしまう。


 だから、嫁入りの日までは蔵に置いておこう。


 そして新たな家へ移ったあと、心が落ち着いた頃に迎えに来る。


 剣士となるためではない。


 かつて剣士を目指した自分を忘れぬために。


 朝夕に一度ずつ刀を振り、いつか子供ができたなら剣の楽しさを教えよう。


 男子であろうと女子であろうと、本人が望むならできる限りのことを教える。


 その子が本気で剣士を目指したなら、少なくとも自分だけは笑わない。


 世の中が無理だと言っても、お前の夢は戯れではないと伝える。


 自分が受け取れなかった言葉を、次の者へ渡すのだ。


 そうすれば、自分の夢も完全には死なない。


 桜間薫という一人の娘が剣豪になれずとも、その剣は誰かへ続いていく。


 剣とは人を斬るためだけのものではない。


 願いをつなぐものでもある。


 父から自分へ。


 自分から、まだ見ぬ誰かへ。


 そう考えたとき、薫は初めて剣を諦めることと剣を捨てることは違うのだと理解した。


「決めたでござる」


「何をだ」


「拙者は嫁ぐ。良き妻になれるかは分からぬが、できる限り努める」


「そうか」


「料理も学ぶ」


「それはやめておけ」


「学ぶのでござる!」


「婿殿へ事前に知らせたほうがよい」


「何をでござる」


「桜間家との縁談には、命の危険が伴うと」


「父上!」


 薫は父の腕から木刀を奪い取り、その脇腹へ軽く打ち込んだ。


 宗十郎は避けなかった。


 乾いた音が庭に響く。


「一本でござる」


「まだ鈍ってはいないな」


 父の言葉に、薫は木刀を見下ろした。


 手に馴染む。


 白嬰刀ではなくとも、握れば胸が落ち着いた。


 剣士になれなくとも、自分は剣を知っている。


 それだけは誰にも奪えないのだと、薫は知っていた。


 

 *



 それからしばらく、桜間家には穏やかな日々が流れた。


 薫は以前と変わらず夜明け前に起き、庭を掃き、母から裁縫や家事を教わり、時間を見つけては道場の隅で木刀を振った。


 剣豪になるための稽古ではない。


 誰かに勝つためでも、己の才を証明するためでもない。


 ただ、昨日までの自分と明日の自分を一本の細い糸でつなぎ留めるように、薫は一日も欠かさず剣を振った。


 庭の木々は少しずつ色づき、やがて葉を落とした。


 北風が道場の板戸を鳴らし、朝方には庭石の上へ薄い霜が降りるようになった。


 冬の空は高く澄み、吐く息は白かった。


 薫はその白い息を見るたび、不思議なものだと思った。


 胸の内に取り込んだはずの空気が形を持って外へ現れ、すぐに消えてしまう。


 人の願いも、これと同じなのかもしれない。


 確かに己の中にあったはずなのに、手を伸ばせば触れることもできず、やがて風の中へ溶けていく。


 それでも、一度も存在しなかったことにはならない。


 剣豪を夢見た日々も、父の背を追った幼い朝も、白嬰刀を初めて握ったときの胸の高鳴りも、今は遠ざかりつつあったが、決して偽りではなかった。


 薫はそう考えながら木刀を振った。


 一振り。


 二振り。


 三振り。


 寒さのためか、その冬は妙に息が乱れやすかった。


 以前なら百を数えても崩れなかった呼吸が、五十を過ぎたあたりでわずかに浅くなる。


 胸の奥へ冷たい空気が入り込み、細い棘となって残るような感覚があった。


「鍛錬が足りぬでござるな」


 薫は苦笑し、木刀を握り直した。


 剣を振る時間が減ったため、体が鈍ったのだろう。


 嫁入り前の娘が以前のように朝から晩まで稽古へ明け暮れるわけにもいかず、裁縫や作法を学ぶ時間が増えている。


 慣れぬ針仕事で肩が凝ったせいかもしれない。


 母に見つかれば休めと言われるため、薫は誰にも告げなかった。


 少し息が苦しい程度で騒ぐのは、剣士を志した者として情けない。


 そう思っていた。


 冬が過ぎれば、庭には再び柔らかな日差しが戻ってくる。


 凍えていた土の隙間から若草が顔を出して梅が咲き、やがて老桜の枝先にも小さな蕾が膨らみ始めた。


 季節は、何事もなかったかのように巡っていく。


 人が夢を得ようと、失おうと。


 誰かが未来を選ぼうと、その道を悔やもうと。


 陽は昇り、風は吹き、花は咲く。


 薫もまた、春を迎えれば新たな人生へ進むはずであった。


 嫁ぎ先について母と話し、持っていく着物を選び、父には向こうの道場へ勝手に上がり込んで門弟を倒さぬよう釘を刺された。


「拙者を何だと思っておられる」


「剣を見ると前後を忘れる娘だ」


「さすがに嫁入り先で暴れたりはせぬ」


「本当か」


「おそらく」


「信用ならんな」


「父上にだけは申されたくないでござる」


 そんな他愛もない会話を交わしながら、薫は少しずつ、まだ見ぬ暮らしへ心を向けていった。


 この家を離れる寂しさはある。


 剣士として生きられなかった悔いも消えない。


 それでも、自分で選んだ道を歩くのだと決めた。


 ならば、いつまでも後ろばかり振り返ってはいられない。


 春になったら、まず何をしよう。


 嫁ぎ先の庭にも桜があるだろうか。


 夫となる人は、どのような笑い方をするのだろう。


 剣の話をすれば困るだろうか。


 それとも、興味深そうに聞いてくれるだろうか。


 白嬰刀を迎えに戻るのは、いつにしよう。


 そのようなことを考えると、輪郭の見えなかった未来にも、少しずつ色が差していくように思えた。


 けれどその春、庭の老桜はなかなか花を咲かせなかった。


 枝先には蕾がある。


 陽差しも十分に暖かい。


 それにもかかわらず、固く閉じたまま、薄紅色の花弁を内側へ抱き込んでいた。


「今年は寝坊助でござるな」


 薫は縁側から桜を眺め、そう笑った。


 父は隣で腕を組み、しばらく枝を見上げていた。


「咲く時期を忘れたのかもしれん」


「父上ではあるまいし、桜は物置へ迷い込まぬでござる」


「桜にも事情がある」


「何の事情でござるか」


「知らん」


「相変わらず、考えなしに話し始めるお方でござるな」


 薫は笑いながら立ち上がった。


 その瞬間、ほんのわずかに視界が揺れた。


 庭も、桜も、父の姿も、水面へ映した景色のように滲み、足元の感覚が遠ざかる。


 薫は咄嗟に縁側の柱へ手をついた。


「どうした」


「何でもござらぬ」


「顔色が悪い」


「急に立ち上がったゆえ、少々目が回っただけでござる」


 宗十郎は納得していない様子で薫を見つめていたが、やがて縁側へ座るよう顎を動かした。


 薫は素直に腰を下ろした。


 胸へ手を当て、ゆっくり息を吸う。


 吸い込んだ空気は、なぜか喉の奥で細く途切れた。


 それでも、しばらくすれば眩暈は治まった。


「ほら、もう平気でござる」


「今日は稽古を休め」


「この程度で休んでいては、体がますます鈍る」


「嫁入り前に倒れたら困る」


「父上も、ようやく人並みに娘を心配するようになられたか」


「前からしている」


「初耳でござる」


「言っていないからな」


「申してくだされ」


 父の不器用さに呆れながら、薫はもう一度、老桜を見上げた。


 枝先の蕾は、まだ閉じている。


 その姿が、何かを耐えているようにも見えた。


 花を咲かせるには、あと少しの暖かさが必要なのだろう。


 薫はそう思った。


 己も同じである。


 あと少し。


 あと少しだけ胸の痛みと折り合いをつければ、新しい道へ進める。


 あと少しだけ、嫁入りの支度を整えればよい。


 あと少しだけ、この家で父と母と過ごしたなら、笑って別れを告げられる。


 その「あと少し」が永遠に訪れぬものだとは思いもしなかった。


 数日後、老桜はようやく一輪の花を咲かせた。


 薫が生まれた朝と同じように枝の先へたった一つ。


 淡い花弁は春の光を受け、かすかに震えていた。


 薫は縁側からそれを眺め、静かに微笑んだ。


「ようやく目を覚ましたのでござるな」


 風が吹いた。


 まだ咲いたばかりの花は枝を離れ、宙を舞い、薫の膝元へ落ちた。


 あまりに短い花の命を惜しむように、薫はそっと掌へ載せる。


 そのとき、胸の奥から小さな咳がこぼれた。


 一度だけの、乾いた咳であった。


 薫は気にも留めず、掌の花弁を見つめ続けた。


 それがこれから己の身に訪れる長い暗闇の、最初の足音であるとも知らずに。


 

 嫁入りの日を迎える前に、病が薫を襲った。


 最初は軽い咳であった。


 季節の変わり目ゆえ風邪でもひいたのだろうと考え、母が用意してくれた薬湯を飲み、数日ほど休めば治ると思っていた。咳は日を追うごとに深くなり、体は熱を持ち、食事を取ることさえ難しくなった。


 医師が何度も訪れた。


 薬も変わった。


 縁談は延期され、稽古場へ向かうことも許されなくなり、薫は一日の大半を布団の上で過ごすようになった。


 十三歳の夏を越え、十四歳の冬を迎え、十五歳の春には一人で立ち上がれなくなった。


 剣士として生きる道を閉ざされ、妻として生きる未来さえ病に奪われ、薫に残されたものは自室の障子越しに移り変わる季節を眺めることだけであった。


「薫、少しは食べなければなりませんよ」


「母上、もう腹がいっぱいでござる」


「まだ一口も食べていないでしょう」


「匂いをたくさん食べたゆえ」


「匂いだけでは大きくなれません」


「では、明日は味を食べるでござる」


「妙なことを言わないの」


 母は笑いながら目元を拭った。


 薫は見なかったふりをした。


 父は毎日、稽古を終えると薫の部屋へ顔を出した。何を話せばよいのか分からないらしく、枕元へ座ったまま長いあいだ黙り込み、帰り際になってから「今日は三人転ばせた」と報告する。


「父上、門弟を転ばせて喜ぶのは、おとなげないでござる」


「立ち合いだ」


「父上が本気を出せば、転ぶどころでは済まぬでござろう」


「加減した」


「偉いでござるな」


「うむ」


「頭を撫でて進ぜようか」


「いらん」


 そんな会話を交わしたあと、宗十郎は決まって娘の細くなった手を握った。


 剣だこに覆われた父の手は、大きく、温かかった。


 薫は十六歳の春を迎えた。


 庭の老桜は今年も立派な花を咲かせ、薄紅色の花弁が風に乗って障子の隙間から部屋へ入り込んだ。


「母上、障子を開けてくださらぬか」


「風が入りますよ」


「桜が見たいのでござる」


 母が障子を開けると春の柔らかな風が部屋へ流れ込み、薬の匂いをさらっていった。


 庭いっぱいに咲く桜が、霞のように揺れている。


 薫は枕からわずかに頭を上げ、その景色を目に焼きつけようとした。


「父上」


「ここにいる」


「蔵に置いた白嬰刀を、持ってきていただけぬか」


 宗十郎の眉がわずかに動いた。


 何も尋ねず立ち上がり、しばらくして布に包まれた刀を抱えて戻ってくる。


 薫の手には、もう刀を持ち上げる力さえ残っていなかった。宗十郎は白嬰刀を鞘ごと娘の隣へ置き、その細い指を柄の上へ添えた。


「懐かしいでござるな」


「ああ」


「ずいぶん長く、寂しい思いをさせてしまった」


「刀は待つのが仕事だ」


「父上にしては、気の利いたことを申される」


「私にしては、は余計だ」


「ふふ……申し訳ござらぬ」


 薫は目を閉じた。


 柄を握るだけで、稽古場の匂いが蘇った。


 父の木刀を受け止めた手の痺れ。


 畳を踏み込む足の感触。


 汗が頬を伝う熱。


 一本を取ったときの喜び。


 まだ自分の未来を疑わず、世界一の剣豪になるのだと信じていた頃の、眩しいほど真っすぐな夢。


「父上」


「なんだ」


「拙者は、強かったでござるか」


「強かった」


「剣士になれたであろうか」


「なれた」


 返事は短く、迷いがなかった。


 薫は目を開き、父を見つめた。


「なぜ、あのとき言ってくださらなかったのでござる」


「私が弱かった」


 宗十郎は俯かなかった。


 いつもの無表情な顔で、娘から目を逸らさずに言葉を続けた。


「世の決まりへ逆らってまで、お前に剣の道を歩ませる覚悟が、私にはなかった。お前の才を誰より知っていながら、守ることばかりを考えた。すまなかった」


「謝らぬでくだされ」


「しかし」


「拙者も、諦めたのでござる。父上だけのせいではない」


 話すたびに息が浅くなり、胸の奥が細い針で刺されるように痛んだ。


 それでも薫は笑った。


「生まれ変わったなら、今度は諦めぬことにいたす」


「そうしろ」


「男でも女でも、誰に何を言われようとも、刀を手放さぬ」


「ああ」


「世界一の剣豪になるでござる」


「なれる」


「父上よりも?」


「それは難しい」


「そこは、なれると申すところでござろう」


「嘘は教えぬ」


「まったく、最後まで父上らしいお方でござるな」


 笑う力も、もうほとんど残っていなかった。


 母の手が頬へ触れる。


 父の手が白嬰刀を握る薫の手を包む。


 庭を吹き抜ける風が、桜の花弁を部屋の中へ運び、白い布団の上へ一枚、また一枚と落としていった。


 薫は最後に白嬰刀の感触を確かめた。


 もし本当に生まれ変わることがあるのなら、もう一度この刀を握りたい。


 自由に走りたい。


 朝から日が暮れるまで剣を振りたい。


 国も身分も性別も関係なく、強い者たちと立ち合いたい。


 勝ちたい。


 誰よりも強くなりたい。


 幼い日に抱いた夢を、今度こそ最後まで追い続けたい。


「父上、母上……お先に、失礼つかまつる」


 それが、桜間薫が生前に残した最後の言葉となった。



 *



 頬がくすぐったい。


 風に運ばれた草の葉が触れているらしい。


 薫は眉を寄せ、顔を横へ向けた。草の葉は追いかけるように頬へ触れ、何度避けても鼻先をくすぐってくる。


「むむ……母上、その薬草は鼻へ入れるものではござらぬ……」


 寝言をこぼしながら手を動かし、しつこい葉を払いのける。


 そこで薫は、自分の腕が動いたことに気づいた。


「……む?」


 目を開く。


 広がっていたのは、自室の天井ではなかった。


 どこまでも青く澄んだ空と、綿のような白い雲。その下を小さな鳥らしき影が横切っていったものの、翼が四枚ほど見えた気がして、薫はしばらく瞬きを繰り返した。


「鳥とは、翼が二枚ではござらぬか」


 ひとまず疑問を口にしてから、薫はゆっくりと上体を起こした。


 痛くない。


 胸も、喉も、背中も、どこにも痛みがない。


 病に伏せていた頃は指一本を動かすにも苦労していたというのに、今は腕へ力が入り、腰も背も自分の意思どおりに動いている。


 恐る恐る立ち上がってみる。


 足が地面を踏みしめた。


 膝は震えず、息も切れない。


「立てる……」


 声が震えた。


 薫は一歩進み、もう一歩進み、そのまま我慢できずに走り出した。


「走れる! 拙者、走れるでござるぞ!」


 草原の中を駆ける。


 足が飛ぶように前へ出て、風が髪をなびかせ、肺いっぱいに吸い込んだ空気が甘く感じられる。病に伏せる前よりも体は軽く、試しに地面を強く蹴ったところ、予想を遥かに超えて体が宙へ浮かび、薫は自分の背丈を優に越える高さまで跳び上がった。


「高いでござるぅっ!」


 着地のことを考えていなかった。


 薫は空中で手足を忙しく動かし、どうにか姿勢を整えようと試み、猫のように華麗に着地する自分を思い描いた。


 現実の薫は、尻から草むらへ落ちた。


「痛っ……くない」


 草の上で座り込んだまま、何度も尻を撫でる。


「これほど高く跳んでおきながら、痛くないとは……拙者の尻、いつの間に名剣へ鍛え上げられたのでござるか」


 尻が強くなったわけではない。


 その程度の判断は薫にもできたため、衣服の土を払いながら立ち上がり、自分の体を改めて確かめる。


 着ているのは死の床で身につけていた白い寝間着ではなく、濃紺の小袖と袴であった。髪は病で抜け落ちる前の豊かさを取り戻し、肩から背へ滑らかに流れている。腕も脚も細身ながらしっかりと筋肉がつき、手のひらには懐かしい剣だこがあった。


 そして腰には、白い柄巻きと淡紅色の下緒を持つ一振りの刀が差されている。


「白嬰刀……」


 鞘から抜かずとも分かった。


 決して手放さぬと誓いながら、自ら蔵へ置いた愛刀。


 薫は両手で柄を握り、胸へ抱き寄せた。


「お主も来てくれたのでござるな」


 返事の代わりに、鞘の中で刀身が小さく震えたように感じられた。


 薫は周囲を見回した。


 見渡す限りの草原が広がり、遠くには巨大な山々が連なっている。空には翼を四枚持つ鳥が飛び、草むらからは兎に似た生き物が顔を出していたものの、その額にはなぜか短い角が生えていた。


「角のある兎とは、珍妙な」


 薫が近づこうと一歩踏み出した途端、兎は角を向けて威嚇し、足元の小石へ突進した。角が小石へ触れると乾いた音が響き、拳ほどの石が二つに割れる。


 薫は無言で一歩下がった。


 兎は誇らしげに鼻を鳴らし、草むらの奥へ消えていった。


「……こちらの兎は、ずいぶん気性が荒いのでござるな」


 どうやら、自分が生きていた国ではないらしい。


 黄泉の国にしては空が明るく、極楽にしては兎が物騒であり、地獄にしては風が心地よい。


 薫は白嬰刀の柄へ手を添え、静かに目を閉じた。


 病は消えた。


 体は動く。


 刀もある。


 ここがどこであろうと、今度こそ夢を諦める理由はなかった。


「父上、母上」


 遠い故郷へ届けるように、薫は青空を見上げた。


「拙者、もう一度生きてみるでござる」


 腰を落とし、白嬰刀をゆっくりと鞘から抜く。


 現れた刀身は以前よりも白く澄み、陽光を受けて淡い桜色に輝いた。


 両手へ伝わる重みは懐かしく、それでいて驚くほど軽い。柄と手の境目が消え、刀が腕の延長になったような感覚さえあった。


 薫は正眼に構え、草原を渡る風へ向けて一太刀を振るう。


 刃は何にも触れていない。


 それにもかかわらず薫の前に生えていた草が一斉に揺れ、十歩ほど先まで真っすぐ切り揃えられた。


 さらに、その先に転がっていた大岩へ細い線が走る。


「……む?」


 薫が首を傾げると大岩の上半分がゆっくりと滑り落ち、重たい音を立てて地面へ転がった。


 鳥たちが驚いて空へ舞い上がり、角のある兎が草むらから飛び出し、一度薫を振り返ってから全速力で逃げていく。


 薫も大岩を見つめたまま、しばらく動けなかった。


「いやいやいや」


 白嬰刀を見る。


 斬られた岩を見る。


 もう一度、白嬰刀を見る。


「父上でも、岩を斬ったところは見たことがないでござるぞ」


 刀身には刃こぼれ一つなく、むしろ褒めてほしそうに淡い光を放っている。


 薫の口元が、ゆっくりと緩んだ。


「この体と、この白嬰刀があれば……」


 異国の空の下、桜間薫は新たな生を得て、初めて心の底から笑った。


「拙者、本当に世界一の剣豪になれるやもしれぬ!」


 その声は広い草原へ高らかに響き渡った。


 返事をする者は誰もいない。


 ただし少し離れた丘の向こうでは、薫の声を耳にした十人ほどの荒くれ者たちが顔を見合わせていた。


「女の声だったな」


「ああ。しかも一人だ」


「この辺りで見かけねえ格好だ。貴族のお嬢様かもしれん」


「いい値で売れそうだな」


 物騒な相談を交わす男たちの中心には、王都より金貨五十枚の賞金を懸けられた山賊団の頭領が立っていた。


 薫は、まだ彼らの存在に気づいていない。


 嬉しさのあまり白嬰刀を何度も振り、草を切り揃え、岩を輪切りにし、勢い余って丘の一部まで平らにしながら、「素晴らしいでござる!」「拙者、強くなっておる!」「少々斬れすぎではござらぬか!」と、一人ではしゃいでいた。


 彼女が新たな世界で最初に出会う相手は、親切な旅人でも、威厳ある国王でも偉大な魔法使いでもない。


 十人の山賊である。


 その山賊たちが、獲物を見つけたつもりで大喜びしている一方、数分後には自分たちが縄でまとめて縛られ、賞金として薫の当面の食費へ変わる運命にあることをこのとき知る者は一人もいなかった。


 もちろん薫自身も、金貨五十枚がどれほどの価値を持つのか分かっていない。


 そもそも異世界の貨幣どころか、ここが異世界であることさえ、まだ理解していなかったのである。


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